胸に咲くしろい花
作・ゆめのみなと
花の名をおしえて
その花の名前を
かのひとの胸のうちにひっそりと咲く
しろい花の名前を
そこは古びた宿だった。裏街道沿いの宿場町といえども場末に属するたぐいだろう。
太い梁から下がるランプがひとつ、照らし出す内部は暗く飾り気もなく、さまざまなものの混じりあった異臭がする。
だが宿は、凍てつく寒気に立ち向かう者たちが期待する避難所として最低限の条件は満たしていた。積みあげられた分厚い石の壁は吹きすさぶ風を通さない。大きな暖炉には炎が燃えさかって闇を退け、そして今、内には人いきれがみちていた。大気はひどく冷えてきていたが、熱を吐きだすものたちの素性を問わなければ、店内は存外温かだったのだ。
席は、安酒を手にしてしばし浮かれる男たちの姿で見たところ埋まっていた。この分では二階の部屋も同様なのだろう。
そこに、あらたな客が扉を軋ませ、雪まじりの風とともにうっそりと踏みこんできた。
カウンターにいた分厚い体躯の男が、頭巾を被った黒装束の男を胡乱そうに見下ろしてみせた。
「申し訳ないが、お客さん」
おもむろに切り出した低く太い声からは、穏やかだが拒絶の意志がはっきり聞きとれた。荒事に慣れたふうの相手に怯むこともない。そもそも、宿の客層はそのあたりと似たり寄ったりなのだ。こんな場所でこんな店をつづけているのだから、相応に覚えがあるのだろう。
だが、客は親父の威厳に呑まれることをしなかった。
「一晩たのむ」
すばやく手の中にねじこまれた硬貨を一瞥した親父の顔が、こわばった。
そこに刻印されていたのは、いまでは、“闇の”というふたつ名をもつ人物のつめたい横顔だったからだ。
「……部屋はもう、残ってない」
振り払うように硬貨を手放そうとする親父に、客は手首を鷲づかみ、もう一度握らせたその手を骨張った大きな手でむりやり押しつつんだ。
これはまだ穏便な方のやり方なのだと思わせる、不自然なまでに丁寧で強い物腰だった。
「納屋でもいいんだぜ」
低いしわがれ声と上目遣いに親父は思わずといった態で身体をひき、黒い頭巾の奥を見極めようとしたが、何かに気づき、あわてて視線を手元に戻した。
そして深々とため息をつく。
「これがだせるなら、もっといい宿がとれるだろうに」
客はのどの奥で低く嗤ってみせた。
「ここが、気に入りそうな気がしてね」
自分がではなく、ほかの誰かが。
底冷えのしそうな声音でそう匂わせた黒衣の客は、無言で手近の席から先客を押しのけた。
店はとたんに活気を失った。
黒衣の男は、全身から人を傷つけるために造られた道具の臭いを濃厚に放っていた。それは現在この地方を掌握しつつある北の伯爵の配下がひとしなみにまとう、あの氷雪のように酷薄なそれに似通っていた。
その場にいた誰もが、男がこの宿に固執する理由が一夜の仮床を得ることではないと察していた。
男は剣帯から使い込まれた鞘ごと細身の剣を取り外して、無造作に脇に置いた。
重たげな金属音とともに横たえられた武器には、ツェリングのものとあきらかな双頭の狼の刻印があって、それを認めたひとびとは目配せを交わしあった。
やはり、そうなのだ。
その噂は戦の風にのって、いまもひそかに、本人よりもずっと速く遠く、北の大地を駆けめぐっている。
ツェリング軍によって蹂躙された街づたいに、黒の伯爵の猟犬は出没するという。奪われた領地を逃れ、つてを頼って落ちのびようとする高貴な人々を捕らえては、首に縄を手足に枷を容赦なく掛けてきたという。
その噂の元が目の前の男であると、言い切る確証のあるものはない。
男の顔もいでたちも頭巾と外衣によって隠されており、そして猟犬そのひとの姿を自分の目で見たものも、いなかったからだ。
だが、男の周囲には警戒の空白が置かれ、ひとり、またひとりと客は姿を消していった。予約済みの部屋にひきあげたのか、無理をして帰路についたのか。
黒衣の男にそれを気にかけるふうはなく、むしろ自分のもたらした波紋を観察するようすだ。
見送る親父は浮かない顔だが、ひきとめようとはしない。
だれが冬の夜長を不吉な猟犬と共にすごしたがるだろう。
黒衣の客は気楽な風情で酒を注文した。
しばしの沈黙が落ちた。重く、はりつめた沈黙だ。
そこにみしみしと音がひびいた。
二階に続く階段が軋りをあげるのにつられて視線をあげたものたちは、段の中程に地味な旅装の人影が立ちすくんで、おぼつかなげに酒場を見おろしているのを見た。
「どうしなすった」
カウンターの親父がうっそりと尋ねるのに、その人物はうつむきながら何事かを訴えた。声がかぼそく、話はほとんど聞き取れない。親父は重々しくうなずくと「すこし、待っててくれ」と言いおいて裏へとつづく扉の向こうに消えていった。
カウンターに横柄なようすで腰掛けていた黒衣の男が、ゆっくりと顔をあげた。
階段にとどまっていた人物は、視線に気づいて射すくめられたようにうごかなくなった。
そのまま黒衣の男は口を開いた。
「ここにいるやつらはもうみな知ってるだろうが、マナー卿の城は今日の太陽とともに落ちた」
驚愕が空気を凍りつかせた。
マナー卿はこの土地に古くから根づいている豊かではないが由緒ある領主だ。南公と姻戚関係にあるがゆえに、ここ数ヶ月のあいだ押しよせる北の脅威に対し必死に踏みとどまっていたことを、この場の誰もが知っていた。
「昼過ぎにドーモンドの城門は突破された。脅されて足止めを食ってた使用人たちはわれさきにと逃げ出したよ、てんでばらばらにな。持ちこたえていた城門がぬかれたのも、身内の裏切りが原因だ。マナー卿の弟は兄の奥方に懸想していたそうだな。奥方を篭絡して、マナー卿の食事に毒を盛らせることに成功したらしい。そのくせ奥方は夫の骸を見て半狂乱になり、今度は義弟を剣で突いて自分の喉を切り裂いた。あるじを失った城はあっさりと陥落だ。ああ、天守にツェリングの兵がたどり着いた時にはマナー卿の弟も奥方もまだ生きてはいたな。どちらかはもう死んだかもしれないが」
言葉の真偽を問いただすものはいなかった。恐ろしい話を平然と披露する男自身が災厄のそのもののようだったからだ。
圧倒されていたなかから、ようやく、ひとりがかすれた声を発した。
「まるで見てきたように言うんだな」
「見てきたんだよ」
即答するその間も据えられたまま外れない男の視線の先で、階段の人物はふるえているようだった。
かかわり合いになるのを避けようと、またひとり、客が椅子をひいた。
そのとき、だしぬけに、弦をはじく澄んだ音色が店内に響きわたった。
そして声が。
深みのある安定した男の声が、狭くうすら寒い酒場の暗がりに、ゆるやかな曲線を描いて流れ出した。
しみとおるようにつま弾かれる、竪琴の音。
かさなり響き合う音のつらなりの中に、いつしか耳慣れた旋律がまぎれこむ。
あれはいったい何者か。いつからここにいたのか。こんなときに歌などうたうとは、ずいぶん間の抜けたことをするものだ。
そんなざわめきがしばらくあがったものの、いつしか客たちはゆたかな声の紡ぐ旋律に心をひきよせられ、無言で耳を傾けていた。
花の名をおしえて
その花の名前を
深き山の木陰にひとしれず咲く
あかい花の名を
それは北方の山岳地帯につたわるささやかな恋の歌で、歌っているのは、炉端で壊れかけたひくいベンチに腰掛けた竪琴弾きだった。
燃えさかる炎をうけてうかびあがるその姿は、男にしては線が細く、ゆるやかに波うつ明るい髪に縁取られた顔は繊細で、華やかにととのっている。
黒衣の客は、いつのまにか視線を階段から移して、いささかの興味を示すかのように歌びとのようすを眺めていた。
ふりかかる柔らかそうな髪の下、どこか遠くをみつめる半眼。それは、歌びとがここではないべつの世界に、深く入り込んでいることをしめしている。
くっきりとした発声とたしかな音程。洗練された技巧をいとも自然につかいこなしたうえで、安定して響くゆたかな声。声は紡ぐ言葉に魂をやどらせ、聞くもののこころをとらえてゆさぶり、感情の波を高みへ、さらに歌の世界そのものへといざなっていく。並の歌い手ではなかった。
しかも、この男の発音は――。
長い余韻を生みだしていたかたちの良いくちびるが、ふと、うごきをとめた。
つぶやくように弦の奏でた和音は、闇の中へと静かに消えてゆく。
ひびきのついえたとき、男はひとり手を叩きはじめた。
つられるようにはじまったまばらな拍手は、いつのまにか思わぬ熱のこもったものとなっていた。
「なかなか聴きごたえのある歌だった」
黒衣の男は杯を手にしわがれた声で低い笑いをひびかせた。
歌びとは黒衣の男に呼ばれ、優雅に会釈をした。
「おそれいります」
「伯爵のおかかえ歌手の歌も聞いたことがあるが、あんたのはそれよりずっといい」
「身にあまるお言葉ですね」
歌びとが顔をあげる。やわらかな印象ながら、自分のしごとに誇りをもつものの自信が口元をかざっていた。
「私どもの仕事は聴衆に恵まれてこそのもの。今宵はとくに寒さが厳しいようす。皆様の冬の夜長をすこしでもお慰めできれば、これにまさる喜びはございません」
歌っているときよりもわずかに理性のつよさを感じるものの、驚くほど表情豊かな声だった。歌びとは黒衣の客に怖じていない。
「俺はそれほど歌を知ってるわけじゃない。だが、さっきの歌には聞き覚えがある」
「北につたわる古い戯れ歌です。ツェリングのお方にはなじみがおありかもしれませんね」
猛威を振るう征服者たちの名に周囲は息を詰め、黒衣の男ですら真意を確かめるように歌びとを見直した。だが、ととのった顔は底意を感じさせず、笑みすらほの見えるようだった。
あらためて黒衣の男は言った。
「花の名の、答えの返るあてはあると思うか。聴くかぎり問いは宙に浮いたままだ。思うに、問われたものに答える意志はない。きっと相手を愚かと蔑み、嘲笑っているはずだ」
歌びとは穏やかだった。
「そのように考えるお方も、おいでかもしれません。しかし、返らないと言いきることもいかがでしょう」
「おまえはそんななりわいだから言うのだな。蝶や花や、夢やおとぎ話がおまえの本分だ。いいや、だが現実は違う。花の名をまじめに訊ねるような人間があそこにいたと思うか」
あそことはマナー城のことを指しているのだろうか。
「そんなものは茶番だ。問いかけてただ答えを待つのはまぬけのすることだ。マナー卿の弟はまぬけで憶病者だった」
「では、賢いやり方とはなんでしょう」
黒衣の男はやおら立ちあがると、置かれたままだった武器に手を伸ばした。
「奪いとるのさ」
断ち切るように言った男は、歌びとを押しのけようとした。
「お待ちください」
歌びとの制止は、だが、勢いよくひらかれた扉の音にかき消される。
戸口に現れたのは、大柄な戦士だった。いでたちからして傭兵のようだが、まだ若い。まっすぐにカウンターへむかって突き進み、自然に黒衣の男の進路を阻んでいた。
「おい、親父。酒をくれ。それと俺の連れはどこだ」
「酒はやるが、部屋はない。どこかべつのところへ行った方がいい」
いつのまにか戻ってきていた親父が、面倒くさそうに返す。
「連れがいると言っただろう。ドーモンドから来て先に部屋を取ってるはずだ、呼んでくれ。いや、やっぱりいい。俺が部屋へ行く」
いきなり方向を転換した傭兵はふたたび黒衣の男の先を行った。悲鳴をあげる階段を性急にのぼっていくと、どこにいると訊ねる声が階上から響く。どうやら、手当たり次第に扉を開かせているらしい。言い返す声や悲鳴がつぎつぎにあがっている。
遅れをとった黒衣の男は、暗い廊下をひとつひとつ見てまわったが、すでにあばかれた部屋をあらためるだけの作業であることは否めない。傭兵、商人、巡礼者たち。またかと迷惑顔のだれもが男と武器を見ると沈黙したが、その中に男が意味を見いだしたものはひとりもなかった。
「おい、どこにもいないじゃないか」
憤慨のわめきを追って最後の部屋を覗くと、傭兵は乱暴に家捜しをしているところだった。揚げ句、待ち人だけではなく、預けてあった荷もないと主張をはじめた。後を追ってきた親父が、騒ぎをやめてくれと命じたところで、けっきょく、見つかったのは空の荷袋としゃぶりつくされた鶏の骨だけだった。
「この部屋にいた娘はどこへいった?」
「娘だって? 俺の連れは男だ」
「娘なんぞいない。いたのは野郎だ」
黒衣の男の問いは、傭兵と親父の両方から否定された。
「だが、そいつはどこへ行ったのだ?」
「それは俺も知りたい」
今度は傭兵も同調した。
ふたりの人物からの鋭い視線に、親父は目をみひらいた。それから、顎髭を撫でながらゆっくりと居心地悪そうに言葉を選んだ。
「どこへ行ったかは知らんよ。ただ、ここにいないのは確かだな。少し前に発ったよ。ほんの少し前にな。わしに言えるのはそれだけだ」
「俺の荷をもってか」
驚きと怒りをあらわにする傭兵に、そういうことだなと言い捨てて黒衣の男は階段を下りた。
厩にたどりつくと、男の馬は解き放たれていなくなっていた。番をしていたはずの子供は姿が見えない。
「これでは後を追うこともできませんね」
振り返ると、歌びとが立っていた。真顔をしていたが、まなざしに好奇心の炎がちらちらと燃えている。
「それとも、馬を接収でもしますか」
寒風の中、男は首をすくめた。
「マナー卿の弟はまぬけだったが娘は覚悟を決めたようだな」
「男だったと、親父さんは言っていたようですが」
歌びとの訂正に、男が吐いた息がしろく広がった。どうやら嗤ったようだ。
踵を返し、そのまま店から遠ざかろうとして、黒衣の男は足を止める。
「歌びと、おまえ、名は何という」
放たれた問いは、空中でくるりと裏返しになって返された。
「あなたこそ、どうぞ名をお聞かせください」
「そしておまえに俺の話をかたらせるのか。ごめんだな」
黒衣を翻して暗く汚い街路を去っていく男を、歌びとは雪まじりの闇に見送った。
戻ってきた歌びとがひとりなのを見て、店ではほっとしたようなため息がいくつか漏れた。
カウンターにはくだんの傭兵が陣取り、失った荷を嘆いているところだったが、歌びとの存在に気づいて振りかえった。
「よう、歌びと。聞いていたぞ、おまえさん、黒の猟犬を出し抜いたそうだな」
「なんのことでしょう」
しらを切りつつ、にこりとする。共犯者はまだ芝居を続けている。その調子だ、と歌びとは心の中でうなずいた。
「溜飲が下がったから、荷物の借りは半分なかったことにしてやろう」
「それはどうも、ありがとうございます。残りはどうお返ししましょうか」
「歌びとのつとめを。うたってくれ」
同意する複数の声にうながされ、歌びとは炉端の定位置についた。竪琴を手に、姿勢をただして喉をひらく。
歌びとと楽器が紡ぐ色とりどりの響きにくつろいで、店がふたたびのにぎやかさを取り戻したころ、歌びとはようやく役目を解かれた。
ふと息をつく歌びとの身体に、きゅっと袖をひかれたときの記憶が甦る。
黒衣の影が階上に消えたとき、それまで歌が隠していた娘が、歌びとのふところにしがみついてきた。迎えが来た、すぐに逃げろと押し出した手に、華奢な身体の震えがつたわった。
「ありがとう、トルード。〈王女の金糸雀〉」
歌びとが感謝の囁きと乱雑に切り下げられた短い髪の残像を思い返しているとき、未だ寝ずに居残るひとびとは、傭兵の語るドーモンド城陥落に熱心に聞き入っていた。
酒の入った傭兵の自慢話か、黒の猟犬の脅し文句か。
マナー卿の悲劇として好まれるのは、どちらの物語だろうか。
たとえ名は知らずとも
わたしは花を守るだろう
それがかのひとへの
わたしの誓い
その後、しばらくして風はうわさを運んだ。
マナー卿の娘は生きて縁者の元に身を寄せたと、古い宿にもその風は届いた。〈了〉
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