番外編競作 禁じられた言葉 参加作品 / 注意事項なし

天空の翼 番外編

〈羽根と蹄鉄〉亭の冴えない休暇

written by ゆめのみなと
 短く切った赤褐色の髪をかき乱し、うなじを撫でる冷たい風に、タクは思わず背筋を縮め、マントをかき寄せた。
 空は青く澄みわたっている。浮かんでいるのは、みためはふんわりとかるそうな白い雲だ。
 春の訪れを感じさせる空模様だったが、高地のエリディルをわたる風はいまだにひややかで、寝不足のまま馬に揺られる十五歳の身には、いささか辛いものがあった。
 風は、山から盛りを迎えた白い花のちいさなひらを大量にはこんできた。
 頭に肩にと舞い落ちる花びらの中を進んでいくうちに、視界にはいかめしい宝玉神殿の姿が現れた。
 山腹の石造りの城門のあたりには神殿の旗が掲げられ、いろとりどりの飾りがゆれている。
 聖なる信仰の中心である静かな場所が、いまは多くのひとびとの活気にざわめいている。自分たちの縄張りをおかされた鳩がさかんに飛び立ち、舞い降りているのが、遠目からもはっきりと見て取れた。
 明日は祭りなのだ。
 傾斜のきつくなる山道を通り、ふもとの村に入るにつれて、次第に現実のものとなって近づいてくるおしころしたような興奮の気配に、タクは胸が高鳴るのを感じた。
 しかし、それも少しの間だった。
「――なんだよ、だれもいないんじゃん」
 村は静かだった。人っ子ひとり、見あたらない。まるで、自分が場違いなところに誤って足を踏み入れてしまったかのようなばつの悪さに、タクは気分が落ち着かなくなった。
 半刻ほど前に別れた、牧童頭の日に灼けた笑顔が脳裏をよぎる。
 ディルクはもう、馬市の会場に着いただろうか。
 やっぱり、一緒に行けばよかった。そんなことをいまさら思っても仕方がないのはようくわかっているのだが、三カ月ぶりに我が家の近くまで来てみると、案の定、いささかの居心地の悪さをもてあましている自分がいる。
 村の広場にたどりつくとタクは馬を止めた。鞍から身を引きずるようにおろして、石造りの古びた建物を見あげてみる。
 その建物には軒下から、蹄鉄と鳥の羽根の意匠のあしらわれた、傷だらけの木製の看板がひとつ下がっている。
 〈羽根と蹄鉄〉亭は、エリディルの村に唯一存在する旅籠をかねたちいさな酒場で、タクのじいさんのじいさんの、そのまたじいさんのころからつづいているという、由緒ある店だ。
 生まれたときからつい先だっての春まで、タクはここの、家族用の一画で日々を過ごしてきた。この古さだけが取り柄の小汚い建物のことならば、外側も内側も、それこそ外壁のしみの由来やネズミの穴の在処まで知っている。
 なのに、その十四年間暮らしてきた生家が、いまのタクにはどこかよそよそしい、昔とはちがうべつのところのように感じる。
 理由のわからぬままに、そこはかとない寂しさを覚えてぼんやりと感傷に耽っていると、目の前でだしぬけに扉が開いた。
 腰までしかない小さな影がふたつ、かん高い歓声をあげながら、いきおいよく飛びだしてくる。
「へーんだ、ジョシュなんか、かあさんのスカートに隠れてたくせにい」
「なんだよ、でしゃばりミア。おれの邪魔すんなよ」
 いっぽうが憤然として短い腕をふりあげ、もういっぽうへ向かってまっしぐらに突進する。衝突を避けようと慌てて逃げる大人などお構いなしだった。子供たちは笑いながら、あるいはわめきながら、タクのまわりを一周した後、こけつまろびつ勾配のきつい山道をかけのぼっていった。
 どうやら、祭りの会場に向かっているらしい。
 しだいに小さくなってゆく後ろ姿に、どっと疲労を感じて溜息をつき、タクは慰めを求めて栗毛の頸を撫でた。


 裏の馬小屋に栗毛を繋いでから店の扉をあけると、ランプの光にくすんだ緑色の眼が瞬いて、じろりとこちらを見返してきた。
「……なんだ、タクか」
 カウンターの向こう側で一瞬だけ背筋を伸ばした少女は、入ってきた人物を確認すると、すぐさま肘をつく元の姿勢に戻った。
「なんだはないだろ、なんだは。三月ぶりに戻った兄上なんだぞ」
 おいおいと内心鼻白みつつ冗談めかして怒ってみせるタクに、赤褐色の髪を編んで頭にとめつけた少女はなにを確認しようというのか、真面目な顔をしてじっとみつめてくる。
「あにうえ?」
 感動の薄い平坦な声音で言いながら、スウェリは手にしていた本を脇に押しのけた。
 タクが鞍袋を脇に置いて席につくと、カウンターを挟んでふたりの視線はちょうどおなじ高さになった。
「そういうことは、私より背が高くなってから言ってちょうだいよね。タクちゃん」
「……かわいくねー」
 かわいくなくてけっこう。いたって冷淡に言い返すと、スウェリはすっとカウンターの奥へと消えていった。
 相変わらず、愛想のない妹だ。
 妹とはいっても、双子のかれらに年齢差はない。しかも、小柄なタクと平均のスウェリとでは、十五歳にもなるのに男女の差はどこへやらで、いまだに背の高さもほとんど変わらなかった。
 厳密に生まれた順序ならばタクが先で、立派にスウェリの兄であるはずなのだ。けれど世間的には、誕生時にひとまわりからだの大きかった、感情の起伏のあらわれないスウェリが姉で、喜怒哀楽むきだしのタクが弟分だと思われているふしがある。
 すこしばかり面白くない気分で、しかしタクは昔とおんなじやりとりにようやくほっとしている自分を感じている。
 ここはまだ、ちゃんと自分の家のままだ。
 椅子をきしませて身体をねじり、首を巡らせてみると、あらためて見るまでもなく、昼下がりの店内は薄暗く閑散としていた。
 窓際の、いつもはあまり埋まることのない席に旅装束の男がひとり腰掛けているのが珍しいほかには、客らしき姿はひとりもない。
 漂っているのは、発酵した飲み物の匂い、チーズや、腸詰めや塩漬けの肉を焼いて焦がしたような食べ物の匂い……それは嗅ぎ慣れた酒場の匂いだったが、何かが足りないような気がして、すぐにタクはしんみりとなった。
 いまはもう、カウンターにいつもたたずんで、笑顔で迎えてくれた、あのどっしりとした存在はいないのだ。
 タクは自分がひどく落胆していることに気づかずに、ぐったりとカウンターに頬杖をついた。
 スウェリが戻ってきて、無言で大きめの杯を目の前に置く。
 タクがいつも使っていた、傷だらけの木製の杯だ。
 手に取って一口飲むと、中身は冷たい果実酒だった。祖母が家族用に漬けていた、シャンシーラ酒のうすめたものである。アルコール分が少ないので、子供たちにも飲むことが許されていた。まだ残っていたのだ。
「ここには、誰もいないんだな」
 なつかしい味を半分ほど飲み干した後にぽつりと言うと、ふたたび本を開きかけていたスウェリに、
「わかってるでしょ、みんな祭りの準備に大わらわなのよ」
 と事も無げに言われてしまった。
「とうさんと兄さんは〈見晴らしの壁〉に設営作業の真っ最中。かあさんと姉さんたちと……ヴィルジニーさんは神殿の厨房に応援に行ってる」
「ヴィルジニーさん、ねえ」
 そうだった。ハーネス家はエリディルの村でも由緒ある家柄として、村に関係した催しにはことごとく中心的な役割を果たすことを期待され、また、自分たちもそれを義務と心得る、集団に献身的で奉仕精神にあふれた人々なのだ。
 年に一回の大きな祭りの時期に、自分の縄張りに引っ込んでいるなどという、かれらにいわせれば“消極的で自分勝手”な態度を取るわけがなかった。
 エリディルの守護聖女〈大地の娘〉ヴィルジニーとおなじ名前をもつ粉屋のあたらしいおかみは、長年ハーネスとつきあううちにその気質になじんでしまったらしいひとりである。
 タクも昨年までは父親につれられて、自宅と神殿の塁壁を幾度となく行ったり来たりしたものだった。思い出すだに体中が筋肉痛の記憶に痛くなる。村中の男たちが力をあわせてなにかを実行することになると、ハーネス家のものたちは、なぜか、他人の三倍くらいの労力を注ぎ込まねばならないはめに陥いるのである。その悪循環の中にまきこまれたら、逃れるすべはない。
 今年はそんな仲間に入らなくてすむと思うと、すこしばかり気分が楽になった。じつをいうと、まだ背筋に寒気がしているのだが、タクはそれを認めたくなくて、もう一度杯の中身を口に含んだ。
 なんだか、ひどく喉が渇いている気がした。
「で、今年はおまえが貧乏くじってわけか」
「まあね。店番はいちおう必要だから。ちびたちのお守りもしなくちゃならないし」
「ちびのお守りって、さっき出て行ったやつらか」
 さきほど、店の前でぶつかりかけたふたりの子供の姿を思い浮かべて尋ねると、
「そう、ミアとジョシュ」
 それは自分たちの一番下の妹と、姉の息子の名前だった。少しばかり見ないうちに、ずいぶん大きくなったものだ。と考えてから、これではまるで年寄りの感傷みたいだと、タクはおもわず身震いした。
 それはそれとして。
「いいのか、ほっといて」
「あんまり遠くまでは行かないように言ってある」
 自分の経験から言っても、そんな言いつけをまともに守る子供はいないと思うのだが。 
「かあさんと姉さんにみつからなきゃ、いいのよ」
 ページを繰りながらそっけなく言い捨てるスウェリに、タクはあいかわらずこの妹は醒めているなと感心する。
 スウェリの年頃の娘なら、にぎやかな催しにはもっと熱心に参加したがるものではないだろうか。とくに花占の祭りは、このあたりの村で行われる、もっともにぎやかで盛大な祭りなのである。
 宝玉の巫女が〈名を失いし神〉をなぐさめて、その歳一年の平穏と豊作を占うというお題目はあるものの、人びとの興味のほとんどは、同時に開催される、その年の〈巫女の守護騎士〉を決定するトーナメントの行方と、その後のかがり火をかこんでの大掛かりなダンスパーティーにむけられている。
 祭儀のあとに行われるこうした催しは、エリディルのような辺地の人びとにとってはまたとない娯楽なので、とくに遊びたい盛りの若者たちならば、こんなふうにひっそり閑散とした人気のない店で、昼間っからしずかに読書なんぞに勤しむような心境ではいられないはずなのだ。
 タクだって、気になる女の子がいないわけではない。
 気持ちを伝えるとか、そういったところまでもりあがっている話ではないし、それを目当てに実家に帰ってきたわけでもなく、たんに、雇われ先の繁殖農場が近くで催される馬市に馬を出すのにあわせて、ほんのすこし休暇をもらえたというだけのことなのだが、それでも、もしかしてすこしでも顔を見られたら嬉しいなと思っていないわけではないのだ。
 スウェリが文字に堪能なのはタクのひそかな自慢だったが、これはすこしばかり行き過ぎではないだろうか。
「いったい、何を読んでるんだ?」
 寒気に身をすくめながら皮装丁の中身をのぞこうとすると、スウェリはうるさいわねと言わんばかりに冷たい一瞥をくれた。
「タクには理解できない本」
「……確かめるから、見せてみろよ」
 むっとして無理矢理本を奪い取ってみはしたが、タクには意味不明の単語がずらずらと並んでいるのがわかるばかりで、どんな内容を記したものか推測することすら不可能だった。見ているだけで、あたまに血がのぼってきそうだ。
「ほら、わかんないでしょうが」
 不機嫌に口を突き出してうなるタクに、スウェリは勝ち誇るでもなく淡々と事実を述べると、にわかに口調を変えた。
「それより、あんた。なんだか熱いわよ。熱でもあるんじゃないの?」
「熱?」
「そうよ、さっき手が触ったけど……やっぱり、熱い」
 スウェリの手が乱暴に額に触れて、彼女の言葉は確信に満ちたものになった。
 こんなところで酒を食らっている場合ではない。支度はしてやるから、部屋に行って寝ろと腕をつかまれて命令される。
「何しに帰ってきたんだろうね、この兄上さまは」
 身体を覆っていたマントをひき剥がされ、泥まみれの長靴からむりやり足をひっこ抜かれながら、あきれたようにぶつぶつと文句をつらねるスウェリの声をぼんやりと聞き流して、タクはしだいに重たくなってくる自分の身体をなんとか寝台に横たえた。
 そうか、朝から寒気がしていたのは、たんなる寝不足のせいではなかったのだ。
 いまでは背筋にぞくぞくと悪寒が走りはじめ、ともすると震えが身をついて出てきそうで、それどころではないはずなのに、ようやく寒気の謎が解けたことに、タクは少しばかりの満足感を覚えていた。
「こんなときには、いつもばあさまが卵酒をいれてくれたのにねえ」
 上掛けをととのえながらぽつりと口にしたあとで、スウェリがはっと顔をこわばらせたのに、タクは気づかぬふりをして目を閉じた。


 タクが帰省するたびにこの家に距離を感じるのは、ばあさまがいないせいなのかもしれない。
 ばあさまの姿がこの家からいなくなって、もう一年以上が経つのに、タクはばあさまのいない家にまだ慣れていなかった。
 タクは、ちいさいころからばあさまのお気に入りだった。
 うまれたときから人よりもちいさくて、からだが弱かったせいもあるだろうが、冷静沈着で理路整然と言い返してくるスウェリより、不器用ですぐに顔を真っ赤にするタクの方が扱いやすかったのだろう。
 タクはいつもばあさまに遊ばれていた。からかわれたり、かつがれたり、その合間にはさんざんこき使われてもいた。
 可愛がられていた、という覚えはなかったが、いつもそばにいて、なにくれとなく世話を焼かれていたのは事実で、ついでに小言もさんざん浴びせられていたものだ。
 卵酒が欲しいかと尋ねてきたスウェリに首を振って、タクは上掛けの中に頭からもぐり込んだ。
 頭ががんがんする。熱があがっているのだろうか。
 こんな状態では祭りに出ることもできやしない。
 もともと自分から出るつもりはなかったが、もしかしたら、何かのきっかけで行くことになるかもしれないと、思わないでもなかったのに。
 分かれ道でしばしの別れを告げたとき、牧童頭の含みのある笑顔をわざと無視してきたことが思い出された。
 ディルクは、自分が女の子に会いに行ったのだと思っているに違いない。
 ちがうと否定しても、絶対に信じてくれない大人の笑い方。あれはそういう笑いだった。
 しかし、それは違うのだ。
 粉屋の娘とタクとは、幼なじみである。その言葉の中身に、おなじ年頃の村の若者たちがみな幼なじみであるのとなんら異なる意味はなく、ただちいさい頃から互いに知っているというだけのことでしかない。
 会えば、挨拶をするだろう。しばらく村にいなかったから、近況報告みたいなこともするかもしれない。だが、ただそれだけだ。それ以上のことをしている自分というものが、タクには想像できない。
 でも、メイリアがダンスの相手に誰を選んだのか、それは知っておいてもいいと思っていた。というより、積極的に知りたかった。
 粉屋の家族の動向など、去年までならわざわざ確かめなくてもすぐに耳に入ってきたのに。あたらしいおかみのせいで、タクは不用意に粉屋に近づけなくなってしまった。
 メイリアのつとめ先は、どこだったろうか。
 ふと、ばあさまの声が、朦朧とした脳裏をよぎった。
 ――陰で気をもむくらいなら、あたって砕けちゃどうだい?
 だが、あいにく、あたって砕けられるほど、タクのほうにはまだ覚悟がなかった。だいたい、口に出して好きだと言えるほど、自分はメイリアのことを好いているのか。そこのところが、まだ確信できてない。
 そもそも、ばあさまというひとは、なににつけても気が早すぎた。
 いつもそれとばかりにタクの先回りをして、それまでタクが思いもよらなかったことを、さもタク自身が待ち望んでいたものであるかのようにお膳立てをしてしまう。最後に、どうしても逃げられないような場面をタクの前にひろげてみせて、さあ、とばかりに反応をうかがうばあさまのしたり顔。
 おまえがぐずぐずしているから、いけないんだよ。
 とは、文句を垂れているタクに、ばあさまの決まって口にした言葉で、おまえのためを思って、という言葉も耳にタコができるほど聞かされたものだ。
 しわだらけの魔物のような笑顔の前で、タクは何度胸の焼けるような思いをあじわったことだろう。
 そんなことを思っているうちにいよいよ熱が上がってきたようで、意識はどんどんかすんできた。タクはうとうとしながら寝返りをうちつづけた。体中の関節がきしむ。
 息苦しさの中で幾度めかに意識があかるんだとき、いつのまにやって来たものか、寝台のそばに誰かが立っていた。
「喉が渇いただろう」
 いたわりに満ちたおだやかなかすれ声に、タクはうなずき、窓からの光を背に負った人影が差し出す鉢を、焦点の合わない目でながめた。
「飲むかい?」
 さらにうなずく。
 ゆっくりと上体を起こすと背中をささえてくれる感触があり、タクは安心して身体を預け、手の中に鉢を受けとった。
 中身は卵をおとした酒だった。
「ゆっくりお飲み」
 舌に柔らかくからみ、かすかにのどを焼いて胃へとくだってゆく液体の感触をあじわいながら、タクはほのかにあたたかなまどろみのなかにしずんでゆく。
 額に触れたかわいた手のぬくもりが、熱の痛みの中にいつもの安堵をつれてきた。
「……ばあさま」
 うわごとめいたタクの声に、人影は苦笑したようだった。
「だめだよ、そんなふうに呼ぶなといったのを忘れたのかい」
 愛情のこもった小言は、タクの耳をかすめて消えた。


 翌日は花占の祭りの当日だった。
 朝方、タクは慌ただしく出かけてゆく家族の気配を、まだ熱の余韻にぼんやりとしたままの寝床の中で感じていた。
 養生の甲斐あってか熱はだいぶんひいていたが、祭りの準備から戻ってきてかれの顔を一目見た母親から、あと一日は寝台から出ずにいるようにと厳命されてしまったのだ。
 もっとも、タク自身、こんなよれよれの姿で村の面々と顔を合わせたいとは思わない。
 近隣ではもっとも有名な繁殖牧場につとめを得たというのに、帰省したとたんに熱を出して倒れたとあっては、やっぱりちびはちびだ、奉公の話もなにかのまちがいではなかったかと侮られそうで、安心して表を歩けたものではなかった。
 休暇はあと二日しかないのだから、いまは体調をととのえることに専念し、帰省していることをまわりに悟られないうちにさっさと馬市の方に合流するべきだろう。
 店の番とタクの世話には、昨日にひき続きスウェリが残ることになったらしい。
 朝食に細切れ塩漬け肉入りの麦粥をはこんできた妹は、いまの店には泊まりの客が一人しかいないから、ただ暇なだけだといってまた去っていった。
 こういう事実を突きつけられると、〈花占〉がごく地域的な催しでしかないことをつくづくと感じさせられる。しかし、あの娘は、ほんとうに祭りに行かなくてもかまわないのだろうか。
 食後、タクがしばしの静けさにまどろんでいると、床をけたてて走りまわる足音が、どどどどどど、どどどどど、と迫りくる嵐のようにくりかえされて、かと思うと頭に突き刺さってくるかのごとき甲高く鋭い声が、旅籠の建物中にびんびんと響き渡った。
「ジョシュのバカ! それはあたしのよ、あたしのだってば、かえしなさいよ!」
「うそつけ。これはかあさんのだぞ」
「あたしのよ。かえしてってばあ!」
 悲鳴とも泣き声ともつかない、奇妙にひび割れて甲高い子供の怒鳴り声に、タクは思考のすべてがかき消されるような痛みを感じた。
「……うう。なんなんだ」
 頭を抱えているうちに、子供たちの怒鳴り合いはどんどん大きく、泣きわめき合いに近くなっていく。頭蓋の内部にきんきんと響く黄色い声は、タクの弱った神経をずたずたに切り裂いていった。
 そのうち、聞き覚えのある声で騒ぐなら外でやれと突き放すのが聞こえて、わめき声と足音とは同時に騒ぎ立てながら遠ざかっていった。
 やれやれ。あの子たちは祭りには連れて行かないのだろうか。
 しかし、あの調子では巫女の舞いをおとなしく見ていられるわけがないから、留守番もしかたないのかもしれない。
 そういえば、さっきスウェリは、祭儀の終わった後で姉が子供を迎えに戻ってくる手はずだと口にしていたようだ。
「それまではここで静かに待っている約束」
「静かになんて、できるのか」
 スウェリは首をすくめた。
「あれであの子たちはけっこう仲良しなのよ」
 反論する言葉を持たなかったので、タクはただ黙って聞いていたのだが。
 あの、万事に周囲への関心がうすいようなスウェリに、ちょろちょろとうごきまわる子供の面倒なんて見ていられるのだろうか。
 ああいうちびたちは、大人が見ていないと何をしでかすかわからないのにと、自分自身の過去をふまえつつ、タクはすこしばかり不安になった。
 心配したところで、いまのかれに、なにができるというわけではないのだが。
 だいたい、たまの帰省をのんびりとすごすつもりが、すでに体調のせいで大幅に予定を狂わされているのだ。
 スウェリは好きで祭りに出かけず、店に居残っているのだから、自分が手伝ってやるすじあいはないではないか――。


 そんなことを思っているうちに、タクはふたたび眠ってしまったらしい。
 乱暴に肩をゆすぶられて目覚めると、深刻な顔をしたスウェリの顔が間近にあって、タクは心底驚いた。
「――どうしたんだ」
「いないの」
 急に起きあがろうとした反動でめまいを起こしたタクは、だれが、と問いかけて、はたと思い当たった。
「ミアと……ジョシュか?」
 こくりとうなずいたスウェリは、タクのはいだ上掛けを握りしめ、押し殺したような声で説明をする。
「もうすぐ祭儀が終わるからって、さっき姉さんがふたりをつれに戻ってきたんだけど、姿がどこにも見えなくて……」
 じつは朝方喧嘩をしていたふたりを外へ追い出したあと、一度もようすを確かめにいかなかったのだと、ひどく後悔したようすでスウェリはつづけた。
 しかも、ひとりだけいたはずの客の姿が、いつのまにか旅籠の中から消えていたという。三日前からの宿賃の精算も、まだすませていなかったのに、と悔しがる。
「おまえ、いったい何してたんだ」
 おもわずつよく問いただすと、スウェリは青ざめた顔を一瞬うつむけた。
 双子の妹の見るもあわれなようすにとたんに同情を感じたタクは、思わず出そうになった大丈夫だよの一言を口の中に押しとどめた。
 そして、そのあとにつづけそうになるさまざまな悪態もしまいこんで、
「とにかく、探そう」
 と、寝台から立ちあがった。
 立ちあがったのはいいのだが、とたんにざあっと頭から血の気がひいた。
 おもわず床にうずくまってしまったタクに、こんなときだというのにスウェリがあきれたような声音で「だいじょうぶ?」と問いかけてきた。
 そして、
「タクはいいよ、ここで寝ていて。探すのはあたしがやる。姉さんもそこらをみまわってるから」
 よろよろと立ち上がろうしていると、自分のとよく似た形をしたひとまわり小さな手が、脇をささえてくれた。
「そんなこといわれて、はいそうですかって寝てられるわけ、ないだろ」
 荒い息を吐きながら、うめくようにして手をはらうが、また重心がふらついてからだは寝台に逆戻りしてしまう。
 どうやら、またもや熱が上がってきたらしかった。
 それでも、押しとどめようとするスウェリを相手に、なんとかふたたび立ちあがり、自分も参加させろと凄んでみせると、スウェリはあっさりと「じゃあ、お願いする」とちいさな声で言う。
 いつもは冷静なスウェリだが、突発的な出来事には案外もろいのだ。
 タクは妹を助けてやらねばという使命感に燃えて、懸命に身体を前へと進めようとする。
 そしてスウェリはというと、ふらつく双子の兄をささえつつ、酒場のほうへといざなっていった。
 足元ばかりに気を配っていたタクが、自分がどこへ連れてゆかれようとしているのかを認識したときには、もう遅い。
「姉さんは村の入り口の方に行ったから、あたしは神殿の方を探す。探しながら、ほかのひとにも声をかけるわ。タクの持ち場は店のなかね。なにかあったときのために連絡係がいるから、カウンターにいてちょうだい」
 スウェリはそういって有無を言わさず兄を木製の枠の中に押し込めると、あっという間に店を出て行ってしまった。


 タクは、カウンターのなかにあった傷だらけの椅子にどさりと腰をかけて、大きなため息をついた。
 あらためて自分の体調をかえりみて、子供たちを探しまわるのは到底むりだと悟ったが、そうして冷静になればなるほど、気分はだんだん情けなくなってきた。
「あーあ」
 思わずカウンターに突っ伏した。
 ほてった頬にあたるひんやりとした木の感触に、思わず涙がこぼれそうだ。
 あれこれ思い描いていた故郷での休暇が、まったく予想とはかけはなれたところへと運ばれてしまったことに、タクはひどく落胆していた。
 十四になって家を離れて生活をはじめ、自分もすこしは成長したと思っていた。
 たった一年の変化は、それはわずかなものかもしれないが、すこしは他人にも変わって見えたりするのだろうか。もし、賛嘆の驚きとともに変化を指摘されたらどうやってごまかそうか。そんな期待をひそかに抱いていたことを思い知る。
 いまさらではあるが、かれは必要以上に帰郷に浮かれていたのだろう。
 しかし、実際に帰ってきてみると、なんのことはない。変化したのはタクではなく、残してきたはずの家族の方だった。
 〈羽根と蹄鉄〉亭も、タクがいた頃とは微妙に雰囲気がちがっていた。
 昼間から薄暗いところも、客がいなくて閑散としているところも、漂う匂いにも変わりはないが、カウンターのこの位置にいつも腰掛けているのは、スウェリではなく、祖母のはずだった。
 タクが扉を開けてまず初めに見るのは、かれをみつけて満面にしわをつくる祖母のなつかしい笑顔でなければならなかったのだ。
「なにがヴィルジニーさんだよ……」
 それが八つ当たりなのはわかっていた。
 〈大地の娘〉ヴィルジニーはふるきいにしえの森の民の血を受け継ぐもの、大地に命を育まれるものたちの守り手である。
 エリディルに伝わる昔話の中では、彼女は必要とされるところに自分の意志で赴き、さりげなくひそやかに自分の場所を築いて、ひとのなかにとけ込んで暮らすのだという。ほとんどの場合、彼女が周囲に自分の本質を明かすことはない。
 タクとスウェリが事の真相を知ったのは、たまたま偶然のつみかさなった結果であり、家族のほかのものたちが事態の変化に気づいてる気配はない。確かめてはいないが、すでに祖母の存在などきれいさっぱりと忘れているのではないだろうか。
 それも彼女の意図したことなのだとスウェリは指摘した。たしかに、以前の姿を覚えているものがそばにいては都合が悪いのはわかる。
 わかるが、それならばどうしてこんな眼と鼻の先につぎの居場所を定めるのか。
 言いようのない感情にのど元を締めあげられているような気がしてうめき声をあげたそのとき、頭の上から聞き覚えのある声がふりかかってきた。
「どうしたんだい、また熱が上がったのかい」
「――ばあさま」
 そこにいたのはほっそりとした体つきの婦人で、タクの台詞にとたんに顔をしかめてみせた。
「その言葉は禁句だよと、何度言ったらわかるんだい」
「だって、ばあさまはばあさまじゃないか」
 タクの抗議は弱々しいものだったが、ヴィルジニーの顔は、ますます険悪になった。
「あたしのどこが、ばあさんだっていうの」
 腰に両手をあて、胸を突き出して抗議をする。すると、小柄なはずの姿が、何倍も大きくみえた。
 客観的に見れば、もっともな主張だった。いまの彼女はどこからどうみても、タクたちの祖母の年齢には見えない。あれほど深かったしわも、頬のあたりにあったはずのシミも目立たなくなって、すっかり若くなってしまった。せいぜいがいって母親というところだろうか。つまり、いまの彼女はメイリアの突然駆け落ちしてしまった母親のかわりなのだ。
 しかし、タクにはわかるのだ。目の前の女性の本質が、たしかに自分をからかいつづけた祖母のものであることが。
 その証拠に、ヴィルジニーは文句をいいながらもかれの額に手をさしいれて、
「ああ、やっぱり熱がある。なにをやっているんだろうね、ちゃんと寝てなきゃ、駄目だろう」
「ちびたちが行方不明なんだ。スウェリが探しにいってるから」
 自分はここで店番をしなくてはと言い張るタクに、ふと遠くを見つめるまなざしを見せるヴィルジニー。
 一瞬後、彼女はきっぱりと断言した。
「ミアとジョシュならば大丈夫だよ。さっき、みつかったからね」
「どこで。いつ」
「ついさっき、神殿の祈りの場のなかでだよ。そんなことはいいから、あんたは寝てなさい。まったく、こんなことじゃあ、うちの娘にそれとなく話を付けることもできやしない」
「……なに、いってんだよ」
「わかってるんだよ、おまえさんがメイリアのこと、憎からず思っているのはさ。さあさあ、はやくおいき。ちゃんと眠って、からだを休めるんだよ。せめて明日くらいは挨拶にきてくれるんだろう」
「いやだ。ここにいる。挨拶なんかしないからな」
 熱のせいなのか頬を赤く染めて抵抗するタクの眼前に、ヴィルジニーの輝く闇を集めた瞳がすっと近づいた。
 とたんにまぶたが重たくなってくる。
「ばあさま……なんかしたな」
 カウンターに突っ伏しそうになりながら懸命に相手を見上げると、不思議な表情を目元に浮かべて、ヴィルジニーは婉然と笑っている。
「あんたのばあさまには、こんな芸当はできないよ」
 さあ、お眠り。
 絶対に言いなりになんかなるものかと、かたくこころを決めていたはずなのに、そういわれたタクの意識はたあいもなく暗転していった。
 耳元で、声がささやく。
 ――さあ、タク。あんたはもう、大人にならなきゃいけないよ。あたしがいなくても大丈夫なところをみせておくれ。
 ――それからもうひとつ……
 しかし、そのあとはもう、やさしい声音を言葉として聞き取ることはできなくなっていた。


 翌日。
 花占の祭りが終わり、タクの休暇も残り少なくなった。
 馬市の牧童頭に合流するために、タクは昼過ぎには〈羽根と蹄鉄〉亭をあとにすることになった。
「ほんとに大丈夫なの」
「もうすこし寝ていた方がいいんじゃない」
「親方には、姉さんが話をつけてあげてもいいんだからね」
 店の前で見送りに並んだハーネス家の女性陣は、口々にタクの体調への不安を並べ立てた。
 どうやら、祭りにかまけて病気の息子(もしくは、弟)を放り出していたことに、すくなからぬ罪悪感を感じているらしい。
 しかし、彼女たちと十数年間生活をともにしてきたタクは敏感に感じ取っていた。
 この一見かれを気づかう態度の裏にあるのは、年に一度の催しが終わったあとの虚脱感を埋める、あらたな獲物を発見した喜びなのである。
 彼女たちが名残惜しげにいちいち問いかけてくるのは、格好のおもちゃとなるはずだった末息子を、手の内から失う瞬間をどうにかして引き延ばしたいと願ってのことに違いないのだ。
 そんなことはまっぴらごめんなタクは、べたべたと張りついてくる母親と姉をなんとかやりすごそうとしていた。
 きのう、〈羽根と蹄鉄〉亭のひとりの客と一緒にこっそり神殿に入り込み、行方不明になったと周囲を大慌てさせたふたりの子供は、散々に叱られたことは忘れ去ったかのように、また喧嘩をしながらタクのまわりを走りまわっていた。
 いつまでたっても終わりそうもない別れに自分から区切りをつけて、タクは栗毛の背にまたがる。
 栗毛は雇われ先から借りている馬だが、さすがにエウレニーの産で、毛並みも姿も美しかった。家族のまなざしが感嘆のそれに変わるのを見て、タクはようやく、この馬に乗っている姿を村のみんなに見せたかったのだと、自分の望みをはっきりと理解した。
 けれどいまは祭りのあとで、道にはまったく人気がない。
 しかたないさ、とタクは思った。
 今回はついてなかったのだ。このつぎは、もっと前からきちんと考えて行動しよう。
 たとえば、出発の前日に酒盛りに参加することはやめたほうがいいだろう。タクは酒に強くないから、途中でつぶれて寝てしまうのだ。風邪をひいたのはそのせいだ。
「タク」
 スウェリが真剣な顔をして手招きするので、タクは馬上でかがみ込んだ。
「きのう、ヴィルジニーさんに会ったって?」
「うん……おまえもか」
 うなずいて、スウェリはさらにつづけた。
「あんたが途中で寝ちゃったからって、伝言を頼まれたの」
 寝たのはだれのせいだと、タクは声を大にしていいたかったが、うしろにいる家族に疑われてはまずいので声には出さなかった。
「……なんだよ、伝言って」
 かわりに押し殺した声で尋ねると、
「こんどばあさまと呼んだら、殴るって。拳でね」
「……」
「それから、メイリアにはなんにも言ってないから、大丈夫だって。これっていったい、何のこと?」
 不思議そうに質問されて、タクは真っ赤になった顔を必死でごまかさねばならなくなった。
「いいから。お前には関係ないことだ」
「なによ、その言い草は」
 むくれるスウェリを押しやって、タクは見送りの輪からすこしだけ離れていた父親に視線を向けた。
 父親は、家族の様子を心底楽しげに見まもっていた。
「こんどはもっとゆっくり帰ってこいよ。かあさんには内緒で、酒を用意しとくからな」
 笑顔とともにそういわれて、タクはこちらには素直にうなずいてみせた。ふだんはのんびりとしている男親だが、ハーネス一家の家長でいるには、なみなみならぬ精神力とふところの広さが必要であるのに違いない。
 タクはあらためて父親の偉大さを感じたところで、〈羽根と蹄鉄〉亭での短い休暇を終えることになった。
 つぎに帰ってきたときには、もっと格好よくすべてを決めてやろう。そして、今度こそ、メイリアに栗毛に乗った自分を見せるのだ。
 そんなことをつらつらと考えながら傾斜を駆け下りている途中、思わぬ光景に出くわしたタクは、あやうく鞍からずり落ちそうになった。
 午後の日差しを浴びたまばゆい緑の小道のつづく先、村と外界の境を告げる門の傍らで、少女がひとり、こちらをふりかえっているではないか。
 タクは、見あげてくる琥珀色の瞳を痛いように意識して緊張した。
 とつぜんの乗り手の変化にとまどいつつも、栗毛は門へと着実に歩を進めてゆく。
 ぼうぜんと、だが、懸命に背筋を伸ばして、タクは紋章のかたどられた門を通り過ぎた。



 粉屋の娘が、なんでいまごろこんなところを歩いているんだろう。
 混乱する頭と心が、ようやくのことで呼吸することを思い出したところで、あえぎながらタクはその答えを悟った。
 ばあさまだ。
 なんてことだろう。
 タクはまたしても、お膳立てに載せられてしまったのだ。
「ちくしょう……やられた」
 きのうは大人になってひとりでやれと言ったくせに。
 くやしかったが、いまとなってはそれも仕方のないことと思えた。
 見ていろ。
 いまに大人になって、見返してやる。
 タクはそう決意して、栗毛の腹を蹴った。
 もう、ばあさまを懐かしがったり、あまえたりしない。
 いまはこうして駆けてゆくことしかできないが、今日より明日、明日よりあさってと、成長してゆくのだとタクはつよく思った。
 背丈だって、そのうち伸びるはずだ。父も母も兄も叔父たちも、親族たちはみんな標準よりは背が高いのだから、自分もそこそこ大きくなれるはずだと信じている。
 そうしたら、そうしたら。
 少女の瞳にかすかにうかんだ賞賛の輝きが、胸にあつくよみがえった。
 少年は風をきって馬とともに駆けつづけた。



 ひとならぬものである聖女を、どうしたら見返すことができるのか。
 それをタク・ハーネスが真剣に考え始めるのは、まだずっと後のことである。

本編情報
作品名 天空の翼
作者名 ゆめのみなと
掲載サイト 夢の湊
注意事項 年齢制限なし / 性別制限なし / 表現制限なし / 連載中
紹介 落ちこぼれの巫女として変わらぬ日々を送る少女フィアナ。ある日、大神殿から聖騎士来訪を告げる翼の報せが届く。いにしえの伝説息づく西の辺境で、ひとつの出会いとともに少女の運命は大きくうごきはじめた――。宝玉の巫女と守護騎士の異世界ファンタジー。
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