*二万ヒット御礼企画*

神夢


作・ゆめのみなと



 目醒めると全身に冷たい汗をかいていた。
 居心地のよいあたたかな寝室にいるはずなのに、体が冷えていた。夢からあふれでた寒気が現実を侵してでもいるかのようだ。とくに足先がひどく、感覚がなくなってしまっている。
 彼女は敷布の上で手足をひきよせ、胎児のようにまるくなった。そのうごきは隣にいた者の浅い眠りを妨げた。
「またご覧になったのですか、あの夢を」
 若者は闇の中で気遣わしげに彼女の硬くむすばれた手をさぐり、つつみこんだ。温かな感触が凍てついた恐怖と孤独をゆっくりと溶かしてゆく。だが、まだたりない。彼女は若者にすがりついて囁いた。
「私をあたためて、レウス」
 若者はふるえている彼女の華奢な体をうわ掛けごとそっとだきかかえ、その内懐へとうやうやしげにひきよせた。
「かわいそうに。冷えきっている」
 レウスは、至高のイニスの巫女である美しいアーリンをあたためるために、自分の熱を惜しげもなく分けあたえようとした。
 若者の腕のなかでひろい胸に額を押しつけながら、彼女は自分のために失われてゆくレウスの精気を感じていた。レウスは若く、アーリンのためにその身にもてるすべてを捧げたがっていた。おそらく、命を捨てることも厭わぬほどに。
 若者の体内に宿る生の焔の熱さに触れながら、アーリンは睡眠の度におとずれている冷気を少しずつおし殺していった。
 毎夜、くりかえしあらわれるのは冬の光景だった。一面を雪と霜とにおおわれた、いずことも知れぬの森の中だ。彼女はかつて訪れたことがない場所にいて、想像もつかないほどの恐怖に捉えられていた。雪の上をもがきながら必死になって逃げようとしていた。そんな経験をしたこともいままでにはない。
 おそらくこれはただの夢ではないのだと、経験を積んだ巫女である彼女は思う。目の詰んだやわらかな毛織りの上掛けと人肌のあたたかさにたすけられて、アーリンは身も心も凍りつく白い夢の謎を解きあかす必要を認識した。
 恐がる必要はなにもないはずだった。イニスのくだされた夢ならば、この謎を解くことが至高の女神の望みであるはずなのだから。
 それでも、消え去りかけた夢をふたたび喚びもどすことを思うと、気がすすまなかった。さきほどまで体験していたことがどのような意味をもつものであったとしても、愉快なものであるはずはない。
 ふるえが身をついて出、レウスが彼女を抱く腕に力をこめた。
「なににおびえているのですか」
 レウスは懸念をあらわにして囁くように訊ねた。熱い吐息がこめかみにかかり、アーリンはふっくらとした唇をかすかにゆるめた。
「私は臆病者なのよ、なににでもおびえるの。がっかりして?」
「いいえ」
「失望してもいいのよ」
「貴女がどんな体験をしているのか、推測することはできます」
「そうだった。あなたも神官のはしくれですものね」
 アーリンのからかうような口調にレウスは乗ってこなかった。若者は無言で彼女を抱きしめると絹糸のような髪に顔をうずめた。押しつけられた若い肉体から不安と懸念をいっぱいに浴びせかけられて、アーリンはしずかに体から力をぬいた。
「だいじょうぶよ。なにも怖がることはないの。あなたが心配するようなことにはならない」
 若者は言った。
「そう願います。貴女のために」



 ひと月ほど前から夢を頻繁に見るようになった。
 いつもは見ないというわけではない。むしろ見すぎるというほうがあたっている。
 至高のイニスはまどろむ女神だ。この世は女神の夢にあり、夢を通じて巫女は女神の尊い言葉をうける。
 イニス・ファールのアーリンは、イニスの巫女としてすでに二十数年の歳月を過ごしてきた。その間にもさまざまな夢を見た。個人的なただの夢、季節の変化を告げる夢、ひとの命を告げる夢。
 しかし、おなじものを二度ということはあまりない。何度も繰り返しというということはさらにない。
 レウスの不安をうち消すために、アーリンはできうるかぎりの手段をとろうと心に決めた。
 自分で口にしたことばが気休めではないことを、彼女自身も願っていた。だが、そうした理性のうごきとは反対に胸騒ぎはひどくなっていった。知識を重んじるイニス・ファールの常とはべつに、彼女は巫女として直観でものをみる。そうであればこそ彼女は家督を放棄し、生家を離れて神殿にいるのであり、自分を偽るのは無意味だと悟ってもいた。うぬぼれでなく、アーリンは当代一をうたわれる巫女だった。
 繰り返される夢はおおよそこのようだった。



 なにもかもが白く凍てついた、吐く息すら顔に霜をもたらす極寒の中で、大気にさらされた素肌の痛みが意識のなかばを支配している。
 眼をあけているのが辛く、這いのぼってくる寒気は執拗に感覚を刺しつづけた。視界がうるみ、全身が痺れて重い。ここからはやく立ち去りたいのだが、思うように体がうごかない。寒さで雪に埋もれかけた森に縛りつけられたかのようだった。
 歩きださなくては。自分にそう言いきかせる。必死になって自分を大地からひき剥がそうとする。
 ここに立ち尽くしていてはいけない。足がすっかり凍りついてしまう前にうごきださなくては。頭のどこかで、日が落ちてしまう前に、せめて馬のいるところまではたどりつく必要があると、叫んでいるのに響きが遠い。
 頭巾をかぶっているにもかかわらず、すでに感覚の失せている耳のそばを、ときおり冷たい風が無慈悲になで斬るように吹きすぎてゆく。樹間を駆けぬける風は恐怖と怒りに満ちたけものの咆哮のようだ。声は後ろから追いかけてくるようにも、頭の中で響きつづけているようにも思える。聞くまいとしているのに注意をそらすことができない。脅かされた体の芯から恐ろしさが湧きおこり、こわばった四肢からさらに力がぬけてゆく。
 恐怖が意識を喰らいつくそうとしている。
 痺れた魂は同時に甘美な蜜を味わっている。涜神の行為がもたらす、相反するふたつの感情。荒れ狂う嵐の中にいるような昂ぶった感情の渦。



 始めのうち、あまりにも断片的であまりにも主観的な内容のために、アーリンは夢の中でおのれの陥っている状況がよくわからなかった。混乱のためか、出来事の輪郭がおぼろに滲んだようにしか感じられない。そのうえ恐怖に彩られた夢ではあり、目醒めたときに残るのは強烈な感情だけということもままあった。
 そのうちアーリンは、夢の自分と現実の自分が同一ではないことに気づいた。予知夢などではよくあることではあったが、感情の生々しさに圧倒されて考えがおよばなかったのだ。
 それではこれは兆なのか。警告なのだろうか。
 いずれどこかの雪の森で、悪夢のような恐怖と、裏腹のように思える強烈な欲望の念に同時にかられる者があらわれるのだろうか。
 そしてまたその者の存在が、あるいはその出来事の発生が、なにか大きなことをひき起こすきざしなのだと、女神は告げているのだろうか。
 求める巫女の前に、明確な答はあらわれない。
 そのかわり、謎のような夢はすこしずつ形を変えていった。
 断片であることに依然かわりはないものの、アーリンが得るのはただ恐怖だけではなくなり、降りつもった雪の中にくぼんだおのれの足跡や、森のはずれに蒸気を白くたちのぼらせながら待っている葦毛の馬を見ることができた。
 またあるときには、奈落の底に黒い影を見たような気がしたこともあった。空を斬るように飛んでいった矢羽の鋭い音に耳をうたれたような気がしたこともある。心の臓の縮むような心地で呻吟する声を聞いたことも。



 アーリンは憔悴した。レウスの不安げなまなざしにほほえむことはあっても、その微笑がさらなる懸念を呼び覚ますことに気づくこともできなくなった。
 夢はひとにとってはあくまでも夢。たとえばそのうちに、だれかの現実になるかもしれない事柄が認識されることがあったとしても、ただびとにとってはそれも古から伝わる歌のようなもの。
 なのにこの夢は執拗なまでに彼女を苛み、夢のあるじとアーリンとを際限なくおびえさせつづけた。
 かれは――夢のあるじが男であることは、白くひろがる息のむこうに見た骨太な手、きれいに鞣された高価な皮手袋につつまれた手や、雪に足をとられないように慎重に踏みだされる、がっしりとした革製の長靴を履いた大きな足から知れていた――実在するのだろうか。
 だとすればどこに。
 幼い頃から神殿で暮らす巫女に、世間についての知識はない。神殿は俗世とは隔離されている。人から見れば仙界とのあわいのような場所なのだ。
 夢のあるじが踏みしめている大地が、彼女のよって立つものとおなじであると思えるのが不思議な気さえする。
 かれがいる、なだらかな丘陵や森の雪景色が彼女に思い起こさせるのは、まだ神殿に入る前。父や母と暮らした山の懐にある古い城とゆりかごの中の赤子の寝顔だった。もう二十年以上もむかしのことで、これもまた夢のような気がするほどに褪せてぼんやりとした記憶だ。
 アーリンにとって神殿の外の世界は現実ではなかった。夢を警告として受けとめ、しかるべく対処しようとするのなら、彼女の生活を夢と感じる世俗の人間に助力を頼まなければならないだろう。
 もちろん、別の方法もある。時間がかかるだろうが、彼女ひとりでことの真相をつきとめることもできなくはないだろう。いままでならばそうしてきた。そして夢がただの夢であれば……その必要は失われる。
 アーリンは怯えていた。
 彼女は意識の片隅でうすうす気づいていたのだ。夢はたんなるお告げでもなければ予知でもない。ただの夢だとかたづけることもできない。この世界にある彼女自身の存在に深くかかわっている、ある運命の流れが、とうとう彼女をとらえようとしているのだということを。
 アーリンは若い愛人の不安をぬぐいさろうとつとめていたが、身のうちにひそむ不安を癒してもらいたいと、願っていたのは彼女の方だった。
 いままで積み重ねてきた巫女としての修業をもってしても、夢の意味を捉えることはできない。彼女がもてあます夢をあつかうことのできる者など、今、この世には存在しないというのに。



 焦りながら日々を過ごすうちにも夢はつづき、アーリンは思索と称して部屋にこもるようになった。すでにレウスのことを顧みる余裕もない。危機感はつのり、なのに晴らす手立ては無い。レーヴェンイェルムの巫姫は、初めておのれの無力を真実あじわうことになった。
 そうして、ついに彼女は、決してするまいと心にさだめていた禁をやぶった。神官に命じて、弟を神殿に呼び寄せたのである。
 イニス・ファールを統べるレーヴェンイェルムの若殿は、かつてない要請に疑いをもちながらも、いたずらに時を費やすような愚は冒さなかった。
 物心もつかないうちに別れた姉とはいえ、すでに両親の亡き今、もっとも近しい肉親である。さらに緑玉石のお方ともいわれる彼の巫女は、滅多なことでは俗人と会うこともせぬ。聖なる女神の島にある古神殿の奥深く、神秘の薄衣によって隔てられた存在だった。
 ふたりきりの姉弟ではあったが、かれらは私的な時間を共に過ごしたことがほとんどなかった。そのために、別れて暮らした時間にくわえて、心理的な距離ははるかに遠かった。だからこそ、事の異常さを感じとることにもなったのだろう。
 必要最小限の供とともに神殿をおとずれたレーヴェンイェルムの殿は、神官たちに丁重に迎えられ、アーリンのこもる水盤の間へといざなわれた。
 飾り硝子をはめ込まれた窓をとおして陽光のふりそそぐ部屋。薔薇色の大理石の冷たい光沢のなかで、細くなめらかなゆびさきを水盤にひたしていたアーリンは、近づく足音に憔悴したおもてをあげた。
 背の高いイニス・ファールの長は、彼女のものよりさらに色あざやかだとうたわれる双眸に光を映して、静かに、問いかけるように向けてきた。その姿を、巫女は潰えさった希望を眺める虚ろなまなざしで見あげた。
「遅かった」
 アーリンは、相手の落ち着きはらった態度を破壊しようとするかのように水面を叩いた。
「もう手遅れよ。始まってしまったわ、止められない」
 飛沫を顔に浴びながらも、碧の瞳をわずかに瞠ったほか、レーヴェンイェルムの殿は表情を変えなかった。
 アーリンは、水盤の縁にしがみついたまま腰がくだけたように坐りこむ自分の隣で、乱れる水面を無言のままに凝視めている人物をあらためて認識した。そして、この男をゆりかごの中にいた赤子とおなじようにあつかうことはできないと、いまさらのように悟る。
 彼女は、現在レーヴェンイェルムの殿と呼ばれる弟のことを、何も知らなかった。肉親としては驚くほどにだ。イニスの巫女にとつぜん激情をさらけ出されても、眉ひとつうごかさぬ男の心に去来するものを、推測する手がかりすら持っていなかった。
 しかし、腹立たしいほどに冷静さをたもったままのかれであっても、動きだした流れの傍観者でいつづけることはできない。
 人には避けることのできない流れ。それをいま、イニスの巫女ともあろうものがわざわざ告げている愚かさは、どこから来ているのだろう。
 アーリンは、それが我が身に流れる血の絆のせいなのか、それとも共に運命の渦に巻き込まれようとしている者に、自分がすがろうとしているせいなのかとぼんやりと考えていた。
 始まってしまったのだ。
 もう、止められない。
 もしかすると、このことこそが女神の心の望むところなのかもしれない。全身をひたしてゆく無力感とともにそのことに思い至り、アーリンは今度こそからだの奥底からしびれてゆくような震えを感じた。
 神夢のしめすものは、昏い闇夜への道筋だった。

<了>
>>あとがき


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