Original Storeis 記念日 あとがき

記念日

ゆめのみなと・作

 その日は、ルマリックにとって歴史的な一日となった。
 もっとも、事実があきらかになるには、まだかなりの年月が必要となるだろう。
 多くのものにとってその日は、ルマリックを本拠とするレーヴェンイェルムの一族の華やかな凱旋の日として存在した。
 とりあえず、だれにとっても長く記憶される日となるだろうことは確実なその日。
 最後の秋晴れといえそうな青く澄んだ空に、輝く太陽がのぼりつめたころ、レジオン・アンドゥリスはもう一度、城内の点検をおこなおうかと、羽根ペンのインクをぬぐいとった。
 多くの領主たちが専門の右筆をかかえているが、レーヴェンイェルムの殿は代々、みずからも書をあらわすほどに学問に長けている。それはレジオン個人にとっても誇らしいことだった。
 時間が許せば、かれのしている仕事などは、かるがるとやってのけるだろう。
 書類にただおきまりの署名をして済ませることもできるのに、事実、他の領主たちはそうして日々の仕事を決済しているが、イニス・ファールの権力者たちは中身も検討せずにお墨付きを与えることはない。
 数字が書き入れられたばかりのなめらかな羊皮紙は、このまま置いておけば、あるじがサインを入れるときまでには乾くだろう。
 念入りに検分をくり返しつつ、レジオンはいま、ここにいる自分に満足していた。
 かれにとってルマリックの城は、あるじの居城であるとともに自分の城でもあった。久しぶりに訪れるあるじのために、できうるかぎりの準備をすることはつとめであると同時に誇りでもある。
 まして、今回の帰還はいつものくりかえされる巡回とはわけが違う。
 レジオンにとってありがたいわけではないが、正妃をともなっての初めての里帰りなのだ。領民にレーヴェンイェルムの威光を知らしめ、新しい殿の力強さを印象づけるためにも、骨身を惜しまず準備にこれつとめてきた。
 すでに今日一日解放されることになった中庭では、街の有力者たちが世間話に興じている。
 ルマリックの人々はここで王を迎えがてら宴会をひらく許可をも求めてきた。レジオンはだいぶ渋ったのだが、けっきょくは認めることになった。婚礼のおこなわれたアーン・アナイスは遠く離れていたし、ひとびとは娯楽に飢えている。先年にさきのあるじがみまかってから、この街は喪に服しつづけていたからだ。本格的に喪があけるのは戴冠式の時になるが、戦勝祝いでわきたつイニス・ファール全土から仲間外れになっていたルマリックが明るい話題にとびつくのも無理はない。
 中庭には入れなかった人々も、城門からはみ出るほどに集まっていた。いったい、城の警備がきちんとおこなわれているのか、不安になるほどごった返している。
 前触れは一刻おきに到着して、着々と近づきつつある行列の進度を報告してくる。レジオンに届けられた最新の情報によれば、レーヴェンイェルムの殿とその妃の一行は、あと二刻ほどでルマリックにたどりつくだろう。
 すべてを見まわるのに充分な時が残されている。そう判断して、レジオンは書類を文箱に収めると執務室から出た。
 去年以来、あるじはかれをおもく見て、つねに意見を求めてきた。遠征や外交訪問に、請われてつき従うことも増えた。伝統的にイニス・ファールの国としての意志決定に関与してきたしかるべき家柄のひとびとも、最近ではそれなりの態度で彼に対するようになってきた。
 だが、レジオンの家系は代々ルマリックの執事だ。レジオンはあるじよりもこの城に通じていると自負している。ルマリックの管理を父親からひきついで、もう三年にはなる。
 今日のこの日をルマリックの歴史に語り継がれる、輝かしい一日にすること。
 レジオンにとってこの仕事はとくに意味を持っていた。
 厨房におりて料理長にねぎらいの言葉をかけ、下働きたちにこまごまとした注意をあたえ、かれは城を下から検分してまわった。
 数週間前からの大がかりな清掃と模様替えの結果、若いレーヴェンイェルムの当主を待ち受ける城は、以前とはすっかり趣を異にしている。
 前当主をとりまいていた重苦しい雰囲気の調度はほとんどを入れ替え、あらたなあるじにふさわしいものを取りそろえた。若殿が暮らしていた館から運び込んだものもあるが、妃の部屋はすべて新品を買いととのえた。彼女が持参したものとうまく調和するように、配慮したつもりだ。おかげで出入り商人の愛想の良くなったこと。しばらくは城の財政をひきしめる必要に迫られそうだ。そのやりくりも、彼自身の手腕にかかってはいるのだが。
 張り出し窓からルマリックのみごとな眺望を楽しめる塔の一室。
 レーヴェンイェルムの伴侶となったものにあたえられる部屋で、レジオンは検分の仕納めをしようと扉を開けた。
 透明なガラスがはめ込まれた格子窓から、あたたかな陽射しが射し込む空間は、暖色系の落ちついた色合いを基調にまとめられていた。
 レジオンは正妃となる少女に婚礼前に一度だけ会った。
 その印象をもとにするなら、この部屋はあざやかな色が混在する華やかで、落ちつかないところになってしまっただろう。
 レジオンはあえて現実を見ず、理想を具現することに心をくだいた。
 この部屋にかの人を迎え入れることができていたら。そんな夢想をしながらの作業は、思いもかけず楽しいものだった。
 いま、こうして調えられた部屋を眺めていると、現実に住人となる娘のことが皮肉に思えてくる。
 高価な羽根布団をのせた天蓋付の寝台のそばをよこぎって、レジオンは窓をひらいた。
 ガラス入りの窓の外側の鎧戸は、いまはきっちりと折りたたまれていた。出窓には腰掛けがしつらえられていて、ぴかぴかにみがきあげられた胡桃材の上に、つややかな光沢のある毛皮が敷かれている。
 彼はその上には腰をおろさなかった。
 下には色とりどりの晴れ着を身にまとい、笑いさざめく人々の小さな姿が見えた。楽士たちが奏でるかろやかな音曲がおだやかな風にのってながれてくる。
 平和で楽しげな光景。
 父親が見たがるだろうと、ふと思う。
 老アンドゥリスはいまは息子に地位を譲り渡し、ささやかな自分の土地に隠居の身だ。先代の死去とともに完全に執事の職務から退いて、それ以来生き甲斐を失ったようにも見える。あるじは古参の執事をひきとめはしたが、あまり熱心にではなかった。そのこともこたえているのだろう。
 レーヴェンイェルムの伝統にこだわる父親は、レジオンよりもこうした行事に重きを置いていた。
 老練な執事の目には、今日のルマリックはどう映っただろうか。
 先代がまだ壮健でもっとも華やかだった頃、ティリオンがまだこの城にいた頃にそのかたわらを離れようとしなかった弟の姿も、今日は見えない。
 アーン・アナイスでの婚礼に出席したのち、なにも言わずに姿を消していた。
 ダル・リース伯に世話になっているらしいが、それも人づてに聞いたことだった。弟は彼になにもうちあけない。
 ラウルがなにを考えているのか、わからなくなってしまったのは、いつごろからだったろう。
 彼の父親が先代をみつめていたように、かれも自分のあるじをみつめつづけてきた。
 アンドゥリスの生活は、レーヴェンイェルム家を中心にまわっている。家庭は、つねに犠牲にされてきた。
 かれもそんな人生を歩みつつあるのだろうか。
 レジオンの夢想は目の前をよこぎった影に破られた。
 思わず身をひいて羽ばたきのしたほうをみると、大きな体の猛禽が風をつかまえて翼をひろげているところだった。
「ラガルデ」
 つぶやいたのは、思ってもみなかった存在の名だ。
 ルマリックの街並みの上、遠ざかる黒い影を追いながら、レジオンは夢ではないことを確かめたくて何度もまばたきをした。
 まさか、いま眼にした優雅で猛々しいものが、レーヴェンイェルムの守護者であるはずがない。
 ルマリックは二方を高い山にかこまれ、この種の鳥が多いところだ。
 山に入ればかならず、小動物を狩る鋭い爪の持ち主たちに出会う。
 だが、町中にやってくることは稀だ。かれらは人の騒がしさを嫌う。
 まして、ルマリックの城はいま現在、祭りのさなか。
 そして、あの影はこの塔の上方から降りてきたように、彼には思えた。
 あの鳥が戻ってきたのだろうか。レーヴェンイェルムの霊鳥。イニス・ファールの守護者。黒い神の化身ともいわれた大鷹が。
 驚きと期待が全身をふるわせた。
 伝説になりかけていた神の使者がイニス・ファールに帰ってくる。現実的な執事にとっても眼も眩むようなできごとだ。もし、そんなことが現実にあるのなら、だが。
 レジオンは鷹の行方をみまもるうちに、遠く街の周囲にめぐらされた城壁の先から聞こえてくる先触れの喇叭を聞いた。
 窓をとじてあらためて部屋を見わたし、ぬかりがないか確かめると、彼は城内の自分の部屋に戻った。あるじと妃を迎えるのにふさわしい、華美ではないが上等な服を選んで身につける。髪をとかしつけてきちんとまとめたところで、小姓があわただしく走りながら彼を捜しにきた。レーヴェンイェルムの殿が王門からルマリックの中に入ったのだ。
 レジオンは落ちつきのない小姓を叱りつけながら、身のうちにわいてくる興奮をおしとどめようとした。
 わざとひとつひとつの行為をゆっくりひきのばし、部屋を出てからも自分がじれったいと感じるほどにあちこちに視線を落とした。何度も検分をくりかえされて執事を煙たがっている下働きたちは、そのようすを遠巻きにしていたが、なにか指示をくだせるほど意識が集中していたわけではない。
 そとのざわめきが大きくなり、一行が城郭に入ってきたとわかるころには、かれの亀のような歩も中庭まで達していた。
 いったん視界に一行が入ってくると、レジオンはすぐにあるじの姿を求めた。
 旗の間から近衛のマクリスやその副官のミネロスの甲冑姿をみとめ、かれらの鹿毛のうしろからつづいてやってくる見事な黒い獣の上に、礼装の若い男の姿を目にしたとき、レジオンはため息をついた。
 それはさながら、神殿の壁を彩る絵のようだった。
 やや細身ながらひきしまった体躯の男がまとうのは、漆黒。金糸銀糸の飾り刺繍がほどこされた上着に、ほっそりとした腰に白い帯を締めている。そこには柄頭に青い石がはめこまれた短剣がさげられていた。
 はねあげられたマントが肩からうごきにあわせてゆれ、青い布で裏打ちされているのがみえる。つややかな毛並みの黒馬をひきたてる銀の馬具。
 そうしたさまざまな装身具も、ひとびとの目を奪うには充分すぎた。
 しかし、その場の視線を釘付けにしたのは、なによりも馬上のひと、そのものだった。
 レーヴェンイェルムの新しい当主は、姉巫女よりもさらに青いと称えられた瞳に、黄金の輝く髪をもつ生きた神の似姿だった。
 レジオンは眼にしているものの現実を超えた美に、人々がしびれたように歓声を送っているのを耳にした。
 黒衣に身をつつんだ男は声をかけられるとかすかに微笑む。
 鞍上のかれはどこかなげやりで、表情には翳りがみえた。それがわかるのは、つきあいの長い身近なものたちくらいだろう。近寄りがたい雰囲気はいっそう男の神秘性を高めている。人々の熱狂は、レーヴェンイェルムの殿の憂鬱に比例してゆくようだ。
 中庭にたどりついた男は、近衛の騎士たちにとりかこまれるようにして立った。今回の帰還につきしたがう護衛はかれらと、妃の馬車を護るわずかな騎士だけだ。
 レジオンはあるじの姿を見守りながら、どうしても鷹の姿を探してしまう自分に気づいた。
 風が狭い空間で舞い、色づいた落葉樹の葉が翻弄されているが、人の注意をひくようなものはなにもない。
 残念ながら、見たと思ったのは幻影だったらしい。
 少し落胆したものの、いまここで起きている現実を眼にすることができるだけでも充分に幸せなのだと彼は思う。
 半年前、ルマリックは絶望の淵にいた。創始以来の仇敵イニス・グレーネについに屈服するときが来たのだと、悲壮な覚悟をかためていたのだ。
 現実には、イニス・ファールは勝者となった。
 イニス・グレーネは膝を折り、戦の終わりを請い願った。彼らにとっては不運な敗戦だったろう。だがイニス・ファールにとって、勝利は奇蹟であり神の御業にも等しかった。
 混乱をきわめていた国を戦ができるまでに建て直し、幸運が重なったにせよ勢いのままに進軍してきた敵を撃退することに成功する。不可能と思われていたことをかの若殿は実現した。
 かれが国民に神のように崇められたとしても、不思議はなかった。
 現に戦場となった河畔の砦から大神殿の都アーン・アナイスまで、彼が見聞きしただけでもひとびとの熱狂ぶりはただごとではない。
 レジオンは期待していた。
 勝利に終わったとはいえ、凄惨なことに変わりない戦場を離れ、民の祝福とあらたな戦利品を得たら、あるじの心も晴れるのではないかと。もしかすると帰還の折には笑顔をみせてくれるかも知れないと。
 だが、レーヴェンイェルムの殿はとてもそのような快挙を成し遂げたもののようには見えない。
 人々の手前、笑顔をみせてはいるが、それはつくられたものだ。
 青い眼が語っていた。
 彼は少しもこの状況を喜んではいない。
 そう知ったとたん、レジオンの心も沈んだ。
 馬から下りて、馬丁に手綱を渡した若殿が、近づいてくる執事をみとめてうなずく。
 彼の胸の内を察しているのか、あるじはいたって平静に帰還を告げた。今度の滞在は二週間ほどになるという。
 近衛も逗留することなど事務的なやりとりをする間に、馬車の列が車廻しにたどりついた。近衛の者たちは馬車のまわりにある程度の空間を確保した。本来そんなことは警備兵の仕事なのだが、かれらはすっかり職務を忘れているらしい。人々はあからさまな好奇心を隠そうともせず、馬車を遠巻きに見守っている。
 扉が開かれて、侍女らしき若い女のおりたったすぐあとに、薄い面衣を被ったイニス・グレーネの姫があらわれた。
 レーヴェンイェルムの殿はあるかなきかのため息をつくと、ゆっくりと妃に歩み寄った。
 彼女はさしのべられた手をいっとき、受け入れようか受け入れまいかと迷ったようだったが、まわりの視線に気づいて決然と手を預けた。
「さあ、彼女がアマリア・ロゼ。私のかたわらに座る者。これからルマリックの西の塔の主人だ」
 アマリアは、背筋をのばしたまま優雅に会釈してみせた。夕日の色のドレスが褐色の髪に映えて、とても見栄えがする。これでやわらかな微笑みでもみせれば完璧なのだが、あいにく面衣の陰でどんな表情をしているのかはわからない。
 もっとも、顔を見せろというのは酷だろう。この場のすべてが知っていることは、妃とは名ばかり、イニス・グレーネの姫は戦利品として取引されてきたのだということ。そのうえ値踏みされるように衆人から眺められるときては、屈辱感もかぎりない。
 夫となった若殿も咎めようとはせず、むしろまわりから護るようにレジオンに預けた。
「部屋へ案内して、休ませてやってくれ。私の妻は疲れておられるようだ」
 そう言いつつもまなざしが傍らの妻にそそがれることはない。
 レジオンはアマリアの手に礼儀としてくちづけると、自己紹介をしつつ面衣をかぶった顔に真向かった。
 妃は彼をおぼえていた。
 おそらくは悲壮な決意とともに敵地にやってきた少女を、病み衰えた父親とひきあわせたのが彼だった。婚礼の三日ほど前のことであったか。
 推測どおり彼女にとってレジオンは忌まわしい者だったらしい。とられていた手をすぐさま引き戻した。
 そうして、アーン・アナイスにいたはずの者が眼のまえにいる理由を知りたがるように、もういちど彼を確かめた。
 そのしぐさはまだ年端のゆかぬ子供のようで、彼は内心苦笑する。
 父親の褥のそばで見た榛の眼は、息を呑むほどに激しい感情を宿していたものだ。
 そのときの印象があまりにもつよかったので、身構えすぎていたのかもしれない。
 かれはあるじや騎士たちに挨拶をすると、アマリアのそばに控えていた侍女についてくるようにいった。
 もうひとりのほっそりとした侍女がアマリアの腕に手を添え、支えるように歩き出す。
 中庭にはにぎわいが戻っていた。
 街の有力者はあるじに祝辞をのべ、楽士が頌歌を歌いだす。子供たちがリズムに合わせてはしゃぎだし、下働きたちはこれから催される宴会のためにうろうろしはじめた。
 明るさに背を向けるようにかれらは城の中へと、石積みの静けさの中へと入ってゆく。
「私はレーヴェンイェルム家よりこの城をまかされています」
 正確には城壁内のすべてが彼の管理下にあるが、それは彼女には興味のないことだろう。とにかく、知っていてもらわねばならないことを伝えるべきだ。
「最終的な決定は殿の意志によりますが、日常のことについては私が判断を下すことになっています。要望がおありなら、私にお伝え願います。よろしいでしょうか」
 塔への通路にさしかかったところで、レジオンはいったん足を止めた。
 返答を求めてふりかえると、アマリアは侍女にもたれかかるようにしてため息をついていた。
「わかりました」
 代わりにこたえたのは侍女だ。
「申し訳ございません、アンドゥリス様。アマリア様は大変に疲れておいでなのです」
「そのようですね」
 面衣のせいで確かめることはできないが。
「手をお貸ししましょうか」
 侍女の視線にアマリアは小さく首をふる。
「せっかくですけれど」
 すまなさそうな侍女に気にしていないことをつたえて、それではと妃と侍女ふたりを用意された部屋へと導いた。小娘の意地は、好きなだけはらせておけばよい。
 西の塔の伴侶の部屋は上から二番目の階にあり、それはともかく塔の中のぐるぐるとまわる階段を二階分のぼらなければならないということだ。
 三階の目的地に達するまでには、アマリアの息の乱れがはっきりとわかったが、もう助力の申し出はしなかった。
「さあ、ここです」
 レジオンはどっしりとした樫材の紋様を浮き彫りにした扉の、取っ手をぐいとつかみ、押し開ける。陽光が暗かった階段にもこぼれだし、妃がかすかな安堵の溜息をもらした。
 かれはアマリアが部屋に入るところを見なかった。彼女は侍女に支えられたまま、目の前をすり抜けていった。ドレスの裾が彼の足先にかすってゆく。
「まあ、すてき。アマリア様、ごらんになってくださいな。ここの眺めはすばらしいわ」
 侍女が窓を開けたのか、風がふわりと通りぬけ、白い面衣をなびかせた。ちょうどアマリアが面衣を留めていた環をはずそうとしていたところで、薄布が彼の目の前に流されて落ちた。
 腰をかがめてわだかまった面衣を拾おうとして、やわらかな布の目地にひっかかっているものをみとめた。
 すばやくひきぬいて手の中にいれると、面衣だけを侍女に手渡した。
 侍女は執事のふるまいになんの疑問ももたず、礼を言ってうけとった。
 晩餐の時刻までゆっくり休んでくれと言いながら扉を閉める間、どんな顔をしていたのか。あとで思い返して不安になるほどにレジオンは動揺していた。
 彼が見つけたのはひとめで大きな猛禽のものとわかる、黒い羽根だった。
 こんなふうにこっそりと持ち去らず、尋ねてみればよかったのかもしれない。
 アマリア本人にではなくとも、侍女のどちらかに。
 だが、すでにきっかけを失っていた。わざわざ大鷹に会わなかったかと尋ねるために戻ったら、不審をかうことになる。
 それに、そうだ。この羽根があの大鷹のものである可能性は、なきに等しい。先代の前から大鷹が姿を消して、三十年にはなる。そのあいだラガルデの姿を見たものはいないのだ。若殿はおろか、今は神殿にその身をおく巫女姫ですら、かのイニス・ファールの守護者を眼にしたことはない。レジオン自身の記憶もごく幼いころのおぼろなものだ。
 いまではラガルデの存在は伝説になっていた。年代記の中や、年寄りの昔語りの中でだけ息づいている、過去の幻。
 だからこれはただの鷹の羽根だ。
 だが、レジオンはそれを捨てはせずにとっておき、折にふれては取り出して眺めるという行為をくり返すことになる。
 のちに尋ねてみた限りでは、その日、鷹を見たものなどいなかった。
 それにずっと妃とともにいた侍女たちが、なにも気づいていなかった。
 なにより、アマリア自身がかれの行為を気にも留めなかった。
 かれは夢を見ていたのか。
 しかし、羽根は現実にあり、消えることなくレジオンの手元にありつづけた。
<了>


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