プロローグ



 世界は、あるべき姿を見失っていた。
 目にみえる景色がどうであれ、エスカはその身にきびしく感じとることができる。
 大気の組成が微妙に変化している。空の色がうつろっている。
 うかぶ雲のかたちも山並みに落ちる影すらも、馴れしたしんできたものとは異なって見えた。天蓋に底知れぬ悪意が映りこんでいるかのように。
 表向き平穏に見えるそこここに、しかし歪みは見受けられ、必要以上に鋭敏なかれの感覚はそのいちいちを逃さずにとらえてしまう。とらえて痛みと感じてしまう。
 北方からの旅はつらいものとなった。
 賢者の塔のそびえる都ディーナ・ル・サームからの道のりは、長く起伏にみち、追っ手を恐れては遠まわりを強いられる険しい道行きだった。
 幾度弱音をもらしかけ、コルに叱咤されたことだろう。
 今にして思えば、それでもまだ楽をしていたのだ。
 同行の年長者を失った現在、降りかかってきた重い責任を思うとエスカは身が震えた。
 等分にとは言えないながら、ふたりで分かちあってきた責務をすべてひとりで背負うことになってしまった。自分の無力さ、頼りなさに、ときに息がつまりそうになり、ときにわけもなく叫びだしたくなる。
 半人前のエスカと違い、すでに一応の修行を終えていたコルは、たよりない弟弟子に任務の遂行を託さざるを得ないことに、少なからぬ責任を感じていたに違いない。
 しかし、コルは頼むとだけ言い残し、かれは背くことができなくなった。
 コルはかれをかばって死んだのだから。
 息をひきとる間際の詫びるようなコルのまなざしを思い出して、萎えようとする気力を奮いたたせた。
 とにかく、進まなければと、かれは思う。



 たったひとりの行程は遅々としてはかどらないように思えたが、南下してゆくにつれ、エスカをとりまく世界はあたたかく優しくなっていった。
 太陽は輝かしく風はぬるみ、植物はゆたかに、生き物の気配はのびやかになり、北国の過酷さがべつの世界の出来事であったかのように感じられるほどだった。
 ここにとどまれば、悪夢を忘れてしまえるかもしれない。
 誘惑に似た考えがよぎることもあった。
 けれどもかれの前から歪みが消え去ったわけではなかった。
 世界が煌めいてあればあるほど、それを感じたときの違和感にははかりしれないものがある。
 たとえ使命を放棄したとしても、ここで何事もなかったように生きていくことは不可能だろう。
 北の大地に君臨する闇の力は、これほど遠く離れ、光に満ちあふれた土地にさえ影響を及ぼすものだったのだ。
 現に、エスカは絶えず何者かに見られているという感覚をぬぐい去ることができない。
 たとえ白の賢者であろうと、いまのエスカの行動を知ることは不可能であり、それだからこそ闇の王子もみずからの代わりにおぞましい黒い鳥を遣わしてくる。
 そのことを頭では理解している。
 しかし肌で感じるのはべつのより厳しい現実だった。
 はばたく音への警戒心は神経質なまでになり、黒い影への恐怖はこの前の出来事でいっそう深いものとなっていた。
 空を飛びまわるぬくもりを持たない生き物の目に映るもの、そのすべてが敵に伝わっていることを忘れるわけにはいかない。
 はたして、闇の王子の鳥たちはエスカの頭上をすでに幾度か通りすぎていた。
 あるとき、緑の葉が生い茂る木々の陰にうずくまったエスカは、息をととのえて存在を森と一体化させることでようやく難を逃れた。
 獲物を見失い、苛立たしげな鳴き声をあげて遠ざかる鳥影は、いまにも突然向きを変えて戻ってくるのではないかと思わせる不吉さをともなっていた。
 張りつめるだけ張りつめて、たしかに戻っては来ないと確信したのちにようやく体から力をぬく。
 思わず吐息が漏れる。
 いつまで続くのかわからない緊張感に、どこまで耐えてゆけるのだろう。
 すり減る神経に注意もまた、散漫になってゆく。
 蓄積した疲労がうすい膜となってわかい体を覆いはじめ、足どりからは確実さが失われていく。
 そのうちに空へ向けるべき警戒を、足下を確かにするために使わなければならなくなった。
 森の道を選んだのは敵から発見される危険を少しでも減らすだめだったのに、荒れた道には慣れているはずのエスカが、幾度となく足をとられてしまう。
 平衡をくずすたびにかれは驚き、憮然としつつ足下に気をくばることを肝に銘じた。足は自然に動いてはいたものの、もはや機敏にとはいえなくなりつつある。
 それでもエスカは一日の終わりにとる休息のほか、余分に時間を費やしたいとは思えない。
 どうせ、安心して休むことなどできはしないのだ。それならば少しでも前進したい。
 ひとりで見知らぬ土地を歩くことの心細さが、焦りとともに気持ちを前へと駆り立てていたのだろうか。
 恐怖をまといつかせたままの道行きは、重い体を引きずっての、いつくるかわからない限界への道となっていた。
 だから、気づかなかった。
 気づいたときには、もう遅かったのだ。



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