梢から見える夕日があかく溶けて流れだそうとしていたそのとき、エスカは、大陸の端にある当面の目的地、外洋を航行する船の出る港町に、ようやくたどり着こうかというところまでやってきていた。
その夜を過ごす場所を物色して、いつものように森の中を乾いた小枝を集めていた。たしかに気がゆるんでいたのだろう。
遠くないところからバサバサという翼の音がして、エスカは心臓がびくりとはねるのを感じた。
一瞬の金縛りの後、エスカは〈眼〉の位置を正確に感じとった。
二羽はかれの右後方、緑陰の中を警告するように鋭い鳴き声をあげながらこちらに向かってくる。
脳裏にむすばれた像の中で異形の黄色い双眸が光ったのを見たとき、エスカはこれまでの自制をかなぐり捨て、はじかれたように飛び出した。
女の悲鳴のようなかん高い声が後につづいた。
エスカは、力のかぎり駆けた。
木の根を飛び越え、枝をなぎ払い、行く手を遮るものを無理矢理はらいのけて走りつづけた。
鳥は騒ぎ立てて、闇の下僕たち、黒ずくめの悪鬼を自分たちのもとへと呼び寄せる。
〈眼〉の放った警告は、近くを徘徊していた黒の騎士たちにすぐに伝わった。不吉な羽ばたきは、やがてさらに凶々しい蹄の音にとってかわろうとしている。
太陽はまさに沈もうとしているところだ。
世界は流れる血に染められたかのように真っ赤に見えた。
森のはずれまでやってきて視界が急にひらけ、身を隠してくれるものがなにもなくなった。
空と大地が眼前にひろがり、脅威は背後に刻一刻と迫っている。
エスカはこの先の土手のむこうに、かなり大きな水の流れのあることを感じとっていた。太古からある尊き女神の名を冠した大河だ。
かれはそれをめざして最後の力をふり絞った。
黒い鳥はとうに追いついていて、頭上をぐるぐると飛びまわっていた。黒騎士たちに場所を知らせているのだ。
やがて、向こう岸の見えないほどに滔々とした大きな水の流れがあらわれた。
エスカは河にたどり着くと流れに沿って岸を下りはじめた。
闇のものたちは水を嫌うはずだ。
近づいてくる蹄の律動が、心なしか遅くなったような気がした。
魔法の視力をもって森の方向をかえりみると、黒々とわだかまる樹木の間から、闇の王子配下の騎士たちがその威圧的な姿をあらわしたところだった。
夕日を浴びた黒い甲冑が鈍く光り、黒いマントが翼のように風にはためき、踊っている。
まだ人の目には見分けられないほどに距離があるはずのエスカの姿を、かれらも超自然の力によって判別した。
同時に黒い影たちの持った剣が鞘ばしり、金属の反射する冷たい光が見えた。
恐怖がエスカの足を速めさせた。
心臓は口から飛び出しそうなほど激しく脈打っていた。呼吸は運動に追いつかず、胸の中は燃えているように熱い。
近づくにつれ、蹄の音は地響きのようになり、頭のなかで反響した。騎士たちのマントの黒い影が視界のすみで翻り、それほど待たずに腕をとられそうなくらいまで近づいてくるのは間違いない。
エスカは流れる河の中へ飛沫をあげながら足を踏み入れた。
水は冷たく、流れは思いのほか速かった。
エスカはいままでと同様に、浅瀬の中を足をぬらしながら、下流をめざした。
向こう岸へ渡ることはできそうもなかった。それをするには河幅も水深もありすぎる。
流れる水を目の前にして、馬の神経質ないななきが空気を引き裂いた。
乗り手と同様の存在である闇の馬は河に近づきたがらず、棹立ちになりながら手綱に抵抗していた。その身とおなじ黒々としたたてがみをふりみだし、白い歯をむき出しにして暴れている。
エスカは流れに圧されるように、よろめきながら進んだ。
あわてて前へ出ようとすると、ごろごろと転がっている石を踏みつけて平衡を失う。かれは水の抵抗の中で必死になって脚を動かした。
疲れを知らない頭上の甲高い声は、さらに狂乱の度を増している。まるで黒騎士たちの不甲斐なさをののしっているようだ。
鳥たちは待ちきれずにエスカに仕掛け始めた。
鋭いくちばしは身体のすべてを的としてあらゆるところに襲いかかってきた。
腕や肩などの一番狙いやすいところは、服を突き破って尖った先端が皮膚を傷つけた。エスカは何度も水の中に倒れ込み、頭までずぶ濡れになった。
しかし、エスカは前進をあきらめなかった。
闇の下僕と向かい合うことの恐怖が感覚を鈍くしていたものの、一方では傷の熱さや足の間を流れていく水の冷たさが鮮明だった。流れの音に導かれて、下流に船着き場を見たエスカは、くじけそうになる気持ちを奮い立たせて、必死で鳥を払いのけようとした。
小さな船着き場とそこにもやってある小舟は、夕陽のなかで黄金色に輝く水上に、青黒い影として視界に現れた。
黒騎士たちはようやく馬をなだめ終え、土手を駆けくだろうとしているところだ。
しつこく追いすがる鳥たちに水をかけ、かれは一瞬の隙をついて小舟へ向かった。
最後の力をふり絞って走りぬけ、いまや金色から夕闇の色へと変化をはじめた水の中を、飛沫をはねあげながら倒れ込むように小舟に乗り込んで、もやい綱をほどいて杭を蹴りつけた。
舟はかすかにためらうように逡巡した後、下流へと向かう流れにうながされるように動き始めた。
騎馬は河岸を流れに沿って追いかけてきたが、水の中に足を踏み入れる気はないようだった。
舟は次第に岸から遠ざかり、流れの中程へと導かれていった。
それでも、黒い鳥は恐るべき執念で食いついてきた。
エスカは不安定な舟の上で、なんとか攻撃をかわそうとした。二羽は目を狙ってかわるがわる襲いかかり、鉤爪とくちばしに直にさらされている服は穴だらけになった。むきだしの腕や足からは血がにじみ出し、傷は無数に増えていく。
鼻先をかすめて嘲笑するようにわめく黒い鳥の眼が、濃紺の夕闇の中に黄色く光る。
それは生命を奪うためにうまれてきた、冷酷な死の輝きだった。
エスカは、自分の末路をかいま見たような気がした。
傷だらけで力つき、闇の放ったただの偵察のために命をえぐり出された、無惨な骸の姿を。
迫る最後の瞬間が、まるで飴のようにのびて凝固する。
しろく柔らかい肌を切り裂いてゆく、黒いくちばし。
大きな羽ばたきとともに飛び散る黒い羽根。
赤い空にしみのように舞い踊る、その残骸。
鋭い爪の容赦ない攻撃。
しびれるような予感と恐れがエスカのなかで急速に膨れあがり、それはいままでに経験したことのないほどにおおきく成長し、そして、はじけた。
「女神の愛し子、水の乙女の名にかけて!」
まるで、何者かがかれの口を借りて叫んだようだった。
光の力を秘めた言葉が、身体の奥からわきあがるものに刻まれて発せられ、瞬間、水上は目もくらむ強い光につつまれた。
それはまるで、創始の光がよみがえったかのようなまばゆさだった。
反響する聞きぐるしい音が闇の下僕の断末魔であることを、エスカは遠のく意識のなかで確信した。
噴出した巨大な力の喪失感にみたされながら、くずおれるように舟底に身を横たえる。
光は、呼び起こされたときとおなじようにかき消えた。
ただし、そこにはもう、黒い鳥の姿はない。
黒騎士の姿も、夜の中へと沈んでいった。
周囲は穏やかな空気につつまれ、地上には静寂が戻ってきた。
小舟は、この世の始まりからつづく流れにうながされ、その行きつく果てへと進んでいく。
月と星が見守るなかで、水の乙女の奏でる調べがささやきのように聞こえる。
清らかなしろき腕に身を任せ、小舟は夜の帳をくぐり抜けていった。
流れの途絶えるところ、そこは海神の領土だ。
朝の光に意識を呼び覚まされたエスカは、それまでとは比べものにならないほどに大きく揺れる小舟に気がついた。そして、周囲が見渡す限りの大海原であることをようやく知ったのだった。