耳にわだかまるは、木の葉のざわめき。
風がひとなでするごとに、うすくかるいびろうどの青あおとした掌は、さやさやと音をたてて身をふるわせる。
陽光は梢のすきまより洩れ、ほそき帯めいて降りそそぐ。
しめった黒い地面には枯葉が散り、色とりどりの絨毯のごとくしきつもる。踏みしだくたび、かわいた小さな悲鳴が、あるいは嘆息が、かすかにあがる。
かれはかまわず、歩みつづける。
鳥のさえずり、獣の声、森につきものの生きものの音は、耳に馴れ、親しみすぎたばかりに、聞こえぬとひとしく。されば、なおのこと、樹陰にひそみし悪意の存在のこぼす、かすかな溜息など、とらえられようはずもない。
かれは騎士。馬上にあって剣を頼み、武勇の名を馳せるが本懐。
詩人の聞くかすかなものおと、感じとる気配、すべてに縁遠い。
しかし、完全にかけはなれたところに生きていたかといえば、そうも言いきれぬ。
騎士たるかれは、詩人の目耳さえもたぬとはいえ、すべてを曖昧に、ではあるが、あるがまますべてとして捉えうるちからを身にそなえていたからだ。
なればこそ、このようにしてさすらっている。
胸のうちで、なにかが疼くのだ。かすかに、とらえどころなく、燠火のように。
痛みにみちびかれるがごとく、騎士は足をすすめた。
あめがした、地上の人の郷をはなれ、いずこにあるともしれぬ、異郷の淵へと。
森をぬけ、谷をくだるうち、陽は落ちた。
騎士はあたたかさを失ってゆく大気のなかで、かつては美しかったものの、すでに長旅にて裂かれ、うす汚れたマントを喉もとまでひき、身をつつんだ。
夜の鳥のぶきみな不安をかきたてる声が、静寂にみちた暗闇にいんいんとこだまする。
翼をはばたかせる音がすると、幾度もひとりの夜を過ごしてきた騎士ですら、驚きと不安に身をすくませた。
鳥はかれの頭をこえ、しろい月の照らす暗き藍の空を、魔物のつかいのように飛び去ってゆく。
鳥影の遠くなるのを、しばし呆然と見おくったのちに、ふたたびみずからの道を歩みはじめるのである。
めざすところが何処であるのか、かれにははっきりしたことはわからない。
あるいは、知ってはいたかもしれぬ。知りながら、知らずにいようとしていただけであったのかも。
迷いなく踏みだされる両足は、ゆくさきを知らぬ者のものとしては、自信にあふれて見えた。
目をつむっていてさえ辿りつくことのできる、知りつくした土地へ向かう者としては、やや確実さを欠きはしたが。
かれの道は、まっすぐに目的地へとかれを誘っているわけではないようだった。
一度は確かに足を踏みいれた、と思われる道や光景が、幾度も目の前をすぎてゆく。
迷路ではない。入り組んでいるのでもない。ただ、そのような場所なのだ。そうとしか考えられぬ。
そのようなわけで騎士はさきほどぬけた樹間に、ふたたびの足跡をしるしている。ただ、時は昼から宵へとうつり、とりまく景色も相応の変化を遂げていた。
木もれ陽はかすかに淡い月影になり、木々に、木の葉に、あたまにと降りかかる。
乳白色の霧が、刻ふるごとに、すこしずつ濃さをまし、ながれはじめる。視界をさえぎられて、溜息をつくため、騎士は脚をゆっくりととめる。
静かに吐きだされる息。それもまた、しろく濁りて、四散する。
くびをめぐらし、かるく肩をゆすれば、額にかかりし髪は、さっとうしろへなびく。月光にきらめく、銀の額飾り。その背後にあがる、悪意と羨望のひそやかな嘆息。
だが、騎士は気づかぬ。
あるいは、気づかぬふりをする。
気をとりなおし、また脚をすすめはじめる。背後にひそみし闇は、かれの背が梢のあいだに消えてより、はじめてうごめきだすのである。
黒ぐろと繁る夜の森をゆくうち、おりかさなる樹間の彼方、騎士は灯を見つけた。
幻かもしれぬ。かような場所に、ひとの住まうはずがない。
それまで目にしたかぞえきれぬ幻を思いつつ、つよく目をこする。
目がかすみ、灯が暗がりににじむ。目のまわりの筋肉にちからをこめた。が、消えはせぬ。
そうしているうちに、灯と、灯がともされてある館が、おぼろに姿をあらわした。
その館は樹々のあいだ、草々のうえにあり、森の樹もてつくられていた。あちこちを植物に覆われ、あたかも緑の塚めいた館であった。成人となるべき若者が、試練の一夜をすごす、黒い塚である。
神秘の業のおこなわれる聖なる場のあの暗さ、陰陰とした空気が、ここにみちみちている―――かれにはそう思われた。
夜のなせる魔法だったやもしれぬ。
暗闇のもとでは、かがやかしき女神の閨さえ、凶凶しきをおびるもの。
ためらいを感じはしたものの――感じはしたが――不安をうちけす光に惹かれ、騎士は黒き館へと歩みよった。