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 館の近きによるにつれ、窓よりこぼれる灯の、さらにつよく、明るくなるを目にし、騎士の胸にのこるわずかなる疑念も解けさった。
 茨のかたく絡みつきし門扉を押しひらき、館の内側へと足を踏みいれると、あたたかい食物の香ばしいかおりが、鼻をくすぐった。
 一夜の宿をもとめ、かれは扉を叩いた。
 館は、振動に一瞬、沈黙した。
 その凍るがごとき緊張に不安がよみがえったものの、時を経ずして扉がひらき、刹那のあとには、べつの驚きが騎士を支配していた。
 ひかえめな微笑を唇に刷き、かれを招き入れたるは、あるじとおぼしき美貌の婦人であったのだ。
 辺境の森に住居せる淑女は、質素ななりをしてはいたが、優雅な立ち居ふるまいに、匂いたつような美しさ。繊細で癖のない言葉遣いは、いささか古めかしくはあったものの、都人のもの。
 いかなる理由でかかる館に住まいしか、謎めいた美女は、やさしく騎士を灯のそばの広間へと誘い、火のそばであたたまるようにと言った。
 広間には、窓より見えし灯の源、琥珀色のランプの炎に、壁を穿ちてつくられし炉に燃えさかる炎とが相争い、部屋をあたたかく、居心地よいところとするに貢献していた。
 かれがすすみいると、居間ではふたりの女が顔をあげた。
 白髪の老婆と、その孫とおぼしき若い娘である。
 彼女らは騎士にかるく会釈をしたが、そのあいだ、すこしも表情の変わることはなく、邪魔のはいったがゆえに中断を余儀なくされた手仕事を無言のままに再開した。
 老婆のふしくれだったしわだらけの手は糸を紡ぎ、娘のほそくしなやかな手は、羊毛をすく。四つの手は、やすみなく規則的にうごきつづける。
 騎士は、霧を吸いしめったマントの留め具をはずし、炉のそば、ひくい床几に腰をおろして、小枝のはぜる音、糸車のまわる音とともに、みずからの溜息を耳にした。
「旅は長いのかえ」
 沈黙のあとで、老婆があたかもさだめられし手順に従うように、しわがれ声で尋ねた。
 騎士はうなずいた。
 老婆のつぎの問いも、旅人にたいするきまり文句であった。
「どこから来なすった」
 おそらく、答えを期待してはいないのであろう。そんな印象をあたえる、熱意に欠けた口調だった。
「さあ」
 記憶の底に沈めた石をひろいあげるのが億劫で、騎士は老婆にあいまいに答えてうすく笑った。
 もしかすると、あの石は、王女の手の中ではすでにくずれ消えているのかもしれぬと思いながら。
 男のふるまいになにを感じてのことか、老婆は奇怪な嗤い声をたてた。かんだかく不快な、蛙めいた響きに、騎士は胸のうちで眉をよせた。
「ばばさま。旅のおかたはお疲れですのよ」
 いつのまにか戻ってきていた女主人のたしなめを、老婆は意に介さぬ。相好をくずしての嗤い声は尾をひいた。しわだらけの顔は、さらに醜悪なしろものとなり、声の似たひきがえるにも見まごうすがた。
 そのかたわらで、若い娘は終始無言である。周囲のできごとになんの興味もない風情であった。
 騎士は女主人のさしだしたる椀より、羮をすすった。舌ざわりよく、湯気のたつ熱い汁は、狼のごとく餓えた胃袋におさまり、冷えたからだをあたためた。
 するうちにも、老婆の糸車はまわりつづける。
 女主人はこんどは杯を手わたした。
 木彫りの杯にみたされしは美し酒。薫りを楽しみ、舌にからませ、ゆっくりあじわうと、名状しがたき芳香と、熱さが、口にする者の躯をかけめぐる。
「いかがです。われら一族につたわる秘術によりて醸しました極上の酒は」
「ようやく先月に一瓶。一度にそれ以上はつくれぬのよ。あじわうがいい――高貴なる騎士どの」
 女主人のもてなしは、酒とともに極上。騎士のかたわらに腰をかけ、減ったぶんだけ杯に深紅の液体をそそぎこむ。
 微笑みはばら色。瞳と髪は闇色。年齢はさだかならず。娘ほど若くはないが、まだ老いの影もまとうてはおらぬ。その美は衰えをみせず、完熟の極みにあった。
 騎士は彼女のやわらかなからだをかたわらに感じ、あまやかな吐息を、杯をもつ手に感じた。
 酔いがあたまをも冒し、意識が輪郭を失いはじめると同時に。
「美しき騎士どの。銀の環をわしに見せてくださらんかの」
 夢は、あるいはうすれつつあった意識は、老婆より発せられし声により、現実へとひきもどされた。
 女主人は老婆を一瞥し、さらに無言の娘を見やると、騎士から離れた。
 かれが老婆に、額飾りはさるおかたからの贈り物ゆえ、はずすことあたわぬとつげると、糸車の回転が、刹那、停止した。
 一瞬の沈黙。重苦しい緊張をはらんだ、一瞬の沈黙がすぎた。
 若い娘が、うつむけていたしろい面をかすかにそらせ、老婆を見た。
 糸車がまわりはじめる。
 女主人は、寝室へ案内しようと騎士のまえに立った。いまの沈黙についての問いを耳にすることを恐れるがごとく。なにごとも起こらぬふうをよそおった。
 騎士はといえば、いまになって、はじめに抱いた疑念を思いだすにいたった。
 だが、それがなんであろう。
 女主人のさししめす寝室にむかうまえに、広間をふりかえると、燃えさかる炉の端で毛すきをつづける娘が、老婆を気遺いつつ、不安げなまなざしで見つめていた。
 瞳にこめられたなにかしらを、騎士は読みとったであろうか。
 娘の瞳も闇。髪も闇。
 彼女の不安は、かれの不安をいやました。
 ここにいたって、館にひそみし不吉な影を見過ごすことは困難となりしが、騎士はそれと認めたのみ。女主人のあとにつき、あてがわれた部屋へとすべりこんだのである。
 鍵はかけずにいた。扉の鍵である。


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