その館は、騒々しい街中にあったにもかかわらず、神々の静謐をたたえて彼をむかえた。
中へ入ると、べつの世界に足を踏み入れたような、不思議な感覚が身にまといついた。館を構成する建築物のおとす影はやさしく、それまで感じていたように酷薄ではなく、彼をとりまく大気は、かぐわしい花の香りを含んでいた。
予感、だったのかもしれない。
彼の歩む回廊は、陽光をさえぎられてひいやりとはしていたが、冬のきびしさからはすでに遠かった。とはいえ、だれもが忍耐力を試される灼けつく夏は片鱗すらみせず、太陽の光はいまはまだ歓迎すべきものだった。それは彼……ズァラーム・ラソル・ヴェリアスにとってさえ。
闇へと踏みこむはずの彼の足先は、まだ陽のあたる場所とのあわいでとどまっていたのだ。そのときは、まだ。
風がはこぶ花の薫りに鼻をくすぐられながら、瞼を閉じていた。
ふりそそぐ陽光が、まぶたを通して感じられる。そのあたたかさ、あかるさに、すでに違和感をおぼえるほどに、闇になじんだ彼だ。
大気や陽射しの悪意を無視し、からみあう薔薇の生け垣に意識をあつめた。迷路のようにいりくんだ薔薇園のなかに、ちいさな弟がいるはずだ。
かくれんぼはディヤリスのお気に入りだった。
茂みの影で息をころし、身をかたくして、じっと待ちうける。
ディヤリスは隠れるのが下手だ。ズァラームは眼をつむっていてさえ、異母弟を見つけることができる。九つ違いのディヤリスは、兄が自分の名を呼ぶのを心待ちにしていて、すぐに薔薇の影から飛び出してくる。紅潮した顔に、はにかんだ笑みをうかべながら。
澄みきった青い空の下、中庭の薔薇は、深い緑のあちこちで密かにつぼみを膨らませている。
花のさかりも、もうじきだ。
あでやかな、ほかをよせつけぬ美しさと、芳醇で濃厚な香りが、あたりいちめんにひろがってゆくだろう。それは、あざやかで、見事すぎて、頭の痛くなるような光景に違いない。
早咲きの花の芳香が、ズァラームの鼻先をかすめて散った。
何者かが花にぶつかって、香りをこぼれさせたのだ。
気配は彼の背後にあった。
太陽に祝福された、どこにも汚れなきもの、後ろぐらさを微塵も感じさせぬものの魂に、ズァラームはふりかえる。
「ディヤー?」
名を呼ぼうとして、気配を読み誤ったことに気づき、立ちつくす。
薔薇の生け垣の間、彼の行為に不意をつかれていたのは弟ではなく、まだ咲き初めもせぬ固いつぼみのような娘だった 。
彼女は彼自身のものとおなじくらいに黒い髪を、春の風にもてあそばれながら、黒目がちの眼を大きくみひらいて、凍りついたように彼を凝視めていた。
ズァラームは何事もなかったように娘から弟に注意をうつしたが、思いがけない出会い…あるいは、発見…を密かに心にきざみこむのを忘れなかった。
少女の健康そうな褐色の肌は、光の中でかがやいていた。瞳には一途さが、ふっくらとしたくちびるには情熱がやどっていた。命の炎が身からあふれて出ているような、目眩のしそうな輝き。それがズァラームには見えた。
そして、彼女の心は……
彼女の心が自分へと向かいはじめたことを感じとることは、彼にとってはさらに容易なことだった。