館の薔薇は、王都アイン・シャムスにおいて、その見事なようすはほかに類をみぬものとされていた。
まわりに立ちのぼる噂とはそぐわぬものの、伯爵夫人は薔薇園の手入れに熱心で、腕のよい庭師を雇いいれては丹念に、わが子のように世話をさせている。
中庭には薔薇の生け垣が迷路をかたちづくり、アーチや噴水など、もともとは独立したものであったはずのさまざまな小道具も、すべては薔薇の蔓にのみこまれていたが、庭師のおかげか、無秩序な野生化からは逃れて、それなりの風情をたもっていた。
セルウィス伯爵夫人は、この薔薇の館に、わずかばかりの使用人とともに住んでいた。
セルウィス伯爵は、館に住まう女性が自分の妻であるということを、滅多に思い出さない。
彼は王都の北、高級住宅街として知られる区画に豪奢な屋敷をかまえており、薔薇館に訪れたことはただの一度たりともないはずだった。
彼女が醜かったわけではない。上流階級の人々の間では、つとに知られた美女である。彼女の館には数多くの男たちが出入りしており、それはなにも隠された秘密というわけではなく、伯爵と夫人を対にして考えるものなど、すでにアイン・シャムスにはだれもいない。伯爵夫人の名が、セルウィス伯爵とは独立した呼び名となって久しかった。
ズァラームがセルウィス伯爵夫人と会ったのは、偶然からだ。彼の父であるヴェリアス公爵が彼を産んだ母の死後に迎えた妃が、伯爵夫人の実の妹だったのだ。
九年前、彼女はすでにセルウィス伯爵夫人となっていた。
そして、その美貌はあまねく都に知れわたり、醜聞の方もそろそろ聞こえだしていたはずだ。
だが、八つのズァラームは母親の死にたいする怒りに我を忘れており、ほかのことには興味がなかった。父のあたらしい妃に対する軽蔑も、まだめばえてはいず、その姉など視界に入ろうはずもない。
その彼が伯爵夫人をそうと意識したのは、二度目の子をみごもった父の妻のつきそいとして、夫人の館を訪れたおりだった。
からだの調子の芳しくないマルティネシアの気持ちを、すこしでもやわらげるために、身内のそばで過ごさせたい、というヴェリアス公の伝言をもって館に入ったズァラームは、義母と異母弟をおいての帰り際には、伯爵夫人その人の存在を鮮烈に心に刻んでいた。
彼女の美しさと、あでやかな外見とは裏腹な内に隠した暗さとが、彼の目をひかずにはおれなかったのだ。
それから、マルティネシアへのご機嫌うかがいを表向きとした館への招待状が、伯爵夫人からズァラームのもとへと届けられるようになった。
彼は気の向くままに館を訪れ、薔薇園の微妙な陰影と、回廊の日向と影、伯爵夫人のうっすらとした微笑、ディヤリスの透明な明るさの間に身を置いた。
館のものは、宰相の嫡子で非のうちどころない貴公子である彼に好意的だった。
外見に惑わされるものたちは、彼の美しさを魂の美しさと信じて疑わない。
つねにひとの好意を利用するズァラームだったが、その単純さに苛立たしさを覚えないわけではなかった。
ただひとり、セルウィス伯爵夫人だけが、彼の魂の暗さをそれとみとめた。彼女の黒瞳には、それゆえに彼を受け入れたのだとでもいいたげな、共感がほのみえる。
彼女は大輪の薔薇だった。
彼女の愛する可憐な薔薇ではなく、あでやかで誇り高く、ほかを圧する美しさと、ゆたかで暗い情念をたたえた、真紅の薔薇だ。
彼は彼女の奏でる長琴の調べにみずからの分身を見いだした。闇の中へとかぼそく消えゆく繊細な響きの中に、熱い想いを感じとることは、あまくここちよいことであるとともに、ときに耐え難いことでもあったのだが。
闇の選択…せまられ続けている決定的瞬間からの逃走は、ズァラームに不安な猶予をあたえていた。
刻は近づいている。刻一刻と。
迷うおのれの前に脅迫のようにあらわれた娘の赤いくちびるに想いをはせながら、彼はしどけなくクッションに身を委ねている。
琴の音が止んだ。
ズァラームは夢幻に漂っていた心をひきもどし、おもむろに面を上げた。
すでに日没より五刻が過ぎ、月のない夜はますます闇の色を濃くしている。部屋には香炉のほかにランプにも火が入れられ、上品な影が白い壁に落ちていた。
「もう、おやめになりますか」
問いかけは闇をはばかり、ささやくがごとく発せられた。
薄い光の中、すこし離れた衝立のそば、琴を奏でていた女性は、名残のように弦をはじく。
「聴いてもいない方に、なにを言う権利があって」
額に落ちかかる髪は黒かった。そのむこうで、やはり黒々とした瞳が、彼を不満げに凝視めている。ズァラームがかすかに咎められたように身を硬くしたのをみとめ、彼女は紅いくちびるをかすかにゆるませ、琴を床に置いた。
「…聴いておりますよ、むろん。ヴィスタリス、どうぞ、おつづけください」
「こころにもないことを」
伯爵夫人はにべもなく言いはなったが、苦笑も若干ふくまれていたかもしれない。しばらくして弦は旋律を歌いだした。
ズァラームは女のゆびの複雑な動きを目で追いつつ、闇の親密さになじんでいった。
昼の光の中ではよそ者となりつつあった彼も、闇の中では心やすらえる。望みのままに下ってきたきざはしだった。
それなのに、まだ、心のどこかで悲鳴が聞こえる。
暗闇を恐れはしない。ただ…
「今宵はものおもいに沈みがち。私があててみせましょうか」
伯爵夫人はつまびくをやめずに、歌うように話しかけてくる。
不意をつかれたズァラームは、ようやく注意をひいたことに満足げな微笑みを見返した。
「なにを、あてるのです」
知れたことをと彼女は嗤う。
「あなたが、いま、心にうかべているひとを」
若者は端正すぎるがゆえに冷たさすら感じさせるおもてに、しずかに笑みをのせる。
「わかるのですか」
弦をすべる手がとまる。
「そう、思うわ」
意味ありげな黒い瞳。彼の顔をみすえ、心の中を見透かそうとでもするような、不思議なまなざしに、一瞬、捕らえられそうになる。
「だとしたら、あなたはずいぶんと自信過剰なんですよ」
すばやく身を返して、挑みかけた自分の軽はずみを自嘲する。しかし、彼女はそんなズァラームにかすかに笑んでみせただけで、弦をはじきはじめた。
「…では、言わずにおきましょう」
長琴の音が響き、しばしの静寂が空気のこまやかな振動にひき裂かれる。
ズァラームは耳にこころよい響きの創りだす空間で、伯爵夫人の幽艶なすがたを幻かなにかのように眺めていた。
曲が終わりに近づき、彼女が静かに弦から手を離したときにも、彼の瞳の焦点はあっていず、それは伯爵夫人に悟られていた。
彼女ではなく、そのむこうにいる何者かをみつめているかのように。
そんな彼を見る伯爵夫人の眼には、かすかに痛ましげな同情がうつっていたかもしれない。
「かまいませんよ」
伯爵夫人は顔をあげ、いまだ成熟しきらぬ、少年でしかないズァラームの、線の細い横顔を見た。
「おっしゃってください、ヴィスタリス。あなたがほんとうにおわかりだというのなら」
ほんのすこし、小首を傾げて、物憂げなまなざしが彼女を見ていた。
しかし、心のうごきをもらすまいとしている彼の動揺を、なぜか感じとってしまう彼女にしても、この少年のまなざしに秘められた情念の昏さはいかばかりに思えたことか。
真顔になり、息さえとめたように見える彼女に、彼は追いうちをかけようとすらする。
「それで、あなたの想っている方は、どなたなんです」
彼女はのろのろと琴を置き、身体中の力を抜いたように見えた。だが、無力な女のようにみせたのはなにかの間違いであったかのように、彼にむきなおったときには、いつもの姿をとりもどしていた。
「いけないわ、ズァラーム。あなたはわかっているはず。ここでは上の空でいてはだめなの。あなたは、誰のことを考えればいいの?」
彼も微笑した。
逃避のためにこの時間を欲しているのは、彼だけではない。
真実は、彼女のほうがより切実に忘却を望んでいたはずだ。
偽りの愛、戯れにすぎなくても。
このとき、そばにいて、肌に触れてくれるものがいるだけで、忘れられる。
自尊心のつよいズァラームがこんな役割を甘んじて引き受け、あまつさえ、楽しんですらいた。
そのときは彼も、おそらくはなにも理解してはいなかったのだ。
太陽のふりそそぐ薔薇の園にも、からみあう葉の下に闇のひそむ影があることにさえ。
薔薇の芳香を味わいながら、ズァラームは昼間の少女をもう一度、まなうらに描いてみる。
リアーナ・クルスーン。
口のなかで彼女の名をころがし、その名が自分の口から出るときの響きを想像し。
それはとても、彼の心を楽しませてくれた。