海辺の街についたのは、空がうすむらさきに変わるころ。
東から流れてくる黒い雲が、もうじき没するメルカナンの輝きを今にもさえぎろうかとしており、吹きくる風には湿った匂いがふくまれてはいたものの、まだ、雨の落ちてくる気配は遠かった。
嵐の予感を背に、かれらは太陽と月の交歓を城門の中でむかえることに成功した。
夕映えのローダの街は小さいながらも活気があった。ファリアート海の沿海貿易は、いまのようなご時勢にあってもすこしも廃れる気配はないようだ。
むしろ、トリエステがその役割をなかばむりやりおろされてから、この街は中継地としての地位をますます高いものとしつつあった。街の規模ではかなうべくもないが、華やかさという点では、往時のトリエステに勝るとも劣らず、といったところか。
陽が暮れてからも、ゆきかう人びとの数は減るどころではなかった。
常設の市場はこの時刻には閉まっていたが、たくさんの夜店が道端に出ている。食べ物屋が多いのだろうか、いい匂いがあたりにたちこめており、空きっ腹を刺激する。
じきに祭りだ。
商船の乗員あいてのさまざまな店が軒をつらねる界隈には、船乗りとひとめでわかる風貌の男たちと、計算だかい商人、かれらにしなだれかかる女たちが、宵をすごす場所を求めて徘徊している。時化を予想して逃げてきた船がかなりいるようで、それもにぎわいに貢献しているようだった。
街の建物は、旗や花づなで飾り立てられ、飾りは風に吹かれてゆれている。
このような中にあっては、かれらの存在も人目をひかなかった。
「ありがたいことだな」
竪琴をかかえた小柄なほうの人物が、連れにささやいた。
ゆったりとした自然な足どりで歩く、きゃしゃなからだつきの人物は、町のにぎわいに琥珀色の瞳を輝かせている。
フードつきのマントからのぞく肉づきのうすい顔はわかく秀麗で、からだつきともあいまって少しばかり背の高い女のようにも見える。
その声は、だが、深みのある男性のものだ。
話しかけられたほうの背の高い、がっしりとしたからだつきの男は、声をひそめ、警告するのが義務だとばかりにたしなめる。
「ここにも、流れ者はいるぞ」
視線の先には、うす汚れた皮製の甲冑を身につけた男たちがいた。腰や背中の武器を見なくとも、すぐに傭兵とわかるまちまちないでたちだ。
もっとも、これを指摘するかれのほうも、すりきれたマントの下に、似たような装束を隠しているのではあるが。
「それに、あいつらもだ」
うかれさわぐ人びとの中にあって、異質な雰囲気を漂わせているのは、おそらく自警団だろう。
ものごしは武器をあつかいなれていない素人のそれで、ぴりぴりとはりつめ、目のまえにいるもの全員を疑いのまなざしで眺めている。
戦乱の北とは別世界のように平和に見えるローダも、すべてこともなしとはいかないようだった。
ローダの領主、エイデールの警備兵の姿もそのお仕着せからわかるが、繁華街のあちこちに見える。
シルグラン伯は領地が王都より遠方にあるのをよしとして、いまだ対立のどちら側につくかの決断を保留しているが、その支配下にある小貴族たちは、事態に現実的に対処しているようだ。ここの治安も、いまは誉められた状態ではないのだ。
わかいふたり連れは、長旅のあとで疲れ、うす汚れていた。とにかく、いまは休むことだ。
「あそこにしよう」
きゃしゃなほうが、おおぜいの人でにぎわっている宿屋に目をつけた。かれは竪琴のようすを確かめて、相棒にすこし外で待っているように言った。
「きみはめだつからね、アンガス。部屋を確保するから、しばらくしたら入ってきてくれ」
めだつといえば、歌びとほど人目をひく男も滅多にいないのだが、それは言わないことにして、大柄な男はうなずいた。
街中では吟遊詩人に事を任せたほうが問題がすくないことは、これまでの経験からわかっている。トルードは、アンガスがこんな生活をはじめるまえから、旅をなりわいとして生きてきたのだ。
ひとしきりローダの街をながめて、もとの宿のまえに戻ってきたアンガスは、港町のあかるい活気のなかにも、北でつづいている戦乱の暗い影が落ちていることをはっきりとみとめていた。街では盗みや暴力沙汰が絶えず、沿海でも海賊が横行しているという噂が聞かれた。
このぶんでは、かれの故郷はもっとひどいことになっているだろう。
南方系の褐色の肌をした黒髪の男は、精悍な顔をくもらせて灯りの漏れる宿の戸をくぐった。
なかに足を踏みいれようとして、耳にとびこんできたのは、聞きなれた吟遊詩人の歌声だった。
食堂のまんなかのテーブルの上に腰をかけて、トルードが歌っているのは、あかるい調子の恋の歌だ。
まわりには船乗りや荷かつぎ人夫、傭兵といった、上品とは言いがたい男たちと、あきらかに商売女とわかる女たちがとりまいていたが、かれらはすっかりトルードの歌に魅せられており、おどけた曲のあいまにははやし声や、手拍子があがっていた。
アンガスはめだたないように部屋の隅にゆき、半ばあきれながら連れの楽しげな姿をながめた。
吟遊詩人は、赤毛の盗賊や緑の頭巾のこっけいな歌をおもしろおかしく歌ったあとで、なにか歌ってほしいものはないかと、人びとにたずねた。
「海のものをやっておくれよ」
派手な身なりの女が言い、すでにしたたか酔っているあかい顔の男が、ファリアートの勲をとたのんだ。
「ファリアート。この土地につたわるクウェンティスの歌ですね」
トルードはそれまで使わなかった竪琴を膝にのせて、ゆっくりとつまびいた。
名だかき民 クウェント・ローダ
わたつみの神々の慈愛をうけし民
ろうろうと響く声。
最初のひと節で聴衆は完全に吟遊詩人のものとなった。
トルードは第一級の歌びとだ。
アンガスは何度もかれの歌を聴いたことがあるが、そのたびに自在の声と竪琴の織りなす歌の世界にひきこまれてしまう。今夜も、かれはいにしえの勇者とその勲を身にせまる現実のように歌いあげた。
おおファリアート しろがねの騎士
オルデーウスの剣佩きし うつくしき勇者
かのひとの髪は風になびき
かのひとのこころは嘆く
神々の怒りはげしく
空はいかづちにてひきさかれり
うるわしのクウェント・ローダ
裏切りのおとめ
水底に沈みしクウェント・ローダ
都の栄華はいまいずこ
酒場の二階にある安部屋にあがってきたあとで、トルードはかるくため息をついた。
闇と静けさが支配する空間は、歌びとのたかぶった魂をなだめてくれる。
ひとあしさきにひきあげていたアンガスは、寝台のうえで腕を枕によこたわっていたが、吟遊詩人がもうひとつの寝台に腰をおろすと、しばらくしてひくい声で話しかけてきた。
「ずいぶん、ながかったな」
もう、真夜中近くだ。
トルードは、夕食時をほとんど歌いながら過ごしていた。
「はやめにきりあげようとしたんだけど」
「歌いだしたらおわりだな」
アンガスは処置なしといった体で評した。
「…わるかったな。めだたぬようにする必要があるってときに」
疲れに身をゆだねつつわびる友人に、アンガスはたいしたことはないからとなぐさめた。
「吟遊詩人が歌わないってほうが、ずっとあやしまれるさ。竪琴を持ってれば、人は期待するからな。それに、歌のおかげでみんな口がかるくなって、情報集めはらくになったよ」
「そう言ってもらえるのは、うれしいよ。アンガス。なにか気になることはあったかい」
ふと真顔になったアンガスは、最前仕入れてきた事どもを数えあげるように口にする。
「ここもだいぶん物騒になってきているな。海賊が増えてる。船はみな護衛をつけてるが、人手がたりなくて傭兵を雇う。ところが、その中に賊の一味が混じってることもあって、なかなか大変そうだ。街は街で、意見の対立からふたつの勢力にわかれている」
「自警団と、エイデールだな。だが、どうもそれだけじゃない。なにかべつの、見えざる恐怖のようなものを感じるんだ」
表面はあかるいローダについて、じぶんの懸念とおなじようなことを吟遊詩人が嗅ぎとっていたことに、アンガスはため息をついた。
「それは、俺も妙だと思ったんだ。この浮かれかたは、ふつうじゃない。これを聞きだすのは、なかなか骨が折れたよ。ファリアートのおかげで、話す気になったんだな」
けげんな表情の吟遊詩人に、アンガスは人びとの口の端からひろったことを語った。
このところ、海で行方不明になるものがあとを絶たないという。
海辺の町のことで波にさらわれるものは以前からいたが、週に何人も、海も荒れていないのにいなくなるというのは、尋常なことではない。ローダの民はもともと海の民で、泳ぎには自信があり、原因もなくおぼれるようなことはないはずだ。
しかし、今回のは死体すらあがらない、奇妙な遭難だった。
「ここまで王子の手がのびたとは、考えられないか」
闇の使徒が眼前にあらわれたときの恐怖を思いうかべて、ふたりはしばしおし黙った。
「いや、第一王子ではない、と思う」
アンガスが、考えこみながら続けた。
「ローダのものは、海人のしわざだと言っている。いままで、けっして街にはちかよらなかった海人が、ちかごろ付近を徘徊しているというんだ。何人かが、姿を見たらしい」
「海人ね」
トルードは興味ぶかげにくりかえした。
ファリアートの内海に点在するアブリディア群島。
南国のゆたかな島々だが、ほとんどが無人であるのにはわけがある。
それが、人のかたちをしながら人ではなく、海中に棲み、魔物とも異形とも言われ、恐れられている海人の存在だ。
「かれらは人には干渉しないと思っていたが」
「こちらから危害を加えないかぎりはな」
「なにかあったのか」
「いや、そこまでは」
口のかるい連中も話してはくれなかったと、アンガスは言う。
「それで妙なはしゃぎかたをしているんだな。こんどの祭りは、大祓の儀だから」
海の神にすべての悪とけがれをあらい流すことを祈願する儀式は、大潮の当日におこなわれる。それが、あさってだ。
「ファリアートの歌に人気があるはずだ」
ようやくふにおちたように言う吟遊詩人に、アンガスは階下で聴いたいにしえの海の英雄の悲劇に思いを馳せた。
いまの時代にファリアートのような英雄はあらわれないのだろうか。暗い時代をうち払うだけの力ある人物は。
「クウェント・ローダ、光の都。ひとは知らない、薄明の都市…か」
トルードの口をついてでたのは、神々の怒りをかったクウェント・ローダの都が、ファリアートの願いもむなしく海底に沈められる、歌の最後の節だった。
鎧戸が、強まった風にたたかれてがたがたと鳴った。
吟遊詩人は端正な顔をかすかにあげて、ふうとため息をついた。
「もう、寝たほうがいいぞ」
アンガスがうすぐらいランプの光のなかで、うわがけをもちあげると、トルードは大きくのびをした。
「ひさしぶりに弾きつづけて、疲れたんだろう。調子にのるからさ」
揶揄するような相棒のことばに、トルードはにやりと笑った。
「もちろん、ただばたらきのつもりはなかったけどね」
トルードはランプの光のなかで、じゃらじゃらと金のはいった皮袋を鳴らしてみせた。
「この街は気前がいいよ。なかには銀貨まであるんだぜ。これでとうぶん、食うに困ることはないよ」
荷物の中に金子をしまい込み、竪琴の具合を確かめていた歌びとは、なにか面白いことを思いついたかのように声を弾ませて相棒を呼んだ。
「アンガス」
「ん?」
「わたしのそばに赤いドレスをまとった御婦人がいたのに、気づいたかい」
「さあね」
「彼女、きみにずいぶん興味があるようだったよ」
沈黙がしばらくのあいだ部屋をみたしていた。
鎧戸のきしみばかりが、しらじらしく鳴りつづける。
「トルード」
暗がりに顔をむけたまま、アンガスは、いま思いだしたといったていでとうとつに言いだした。
「行方不明になったやつらのことだがな、みんな、おまえみたいなあかるい色の髪をしてたそうだ」
トルードは淡い栗色の髪をかきあげて声をださずに笑った。
笑ったあとで、かれはランプを消した暗がりのなかで言った。
「風は東風だ。あしたはきっと天候がくずれて、ここをうごけないだろう。調べてみればいいさ。なにが真実なのか。闇が関係しているのなら、なおさらその必要がある」
アンガスはくぐもった声で同意をあらわした。
その夜は、南の大海からやってきた嵐が雨と風をたたきつける、大荒れの闇夜となった。
しかし、旅の疲れか、ふたりは風にきしむ安普請の建物にもめげずに、深い眠りをむさぼりつづけたのだった。