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1 踊り子の赤い夢


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 かわいた風が、砂と埃をまきあげる。
 山の端に、真赤な太陽が溶けだしてゆく。
 色褪せた空の色が、すこしずつ、赤みをおびてゆく。そして、すべてが血の色に染まったあとで、地上は夜の闇をすいこんでゆくのだ。罪をおおいかくそうとするように。
 干し煉瓦をつみかさねて造った建物は、いつもぼやけて見えた。真昼の日のなか、陽炎のように。砂嵐のなか、かき消されるように。
 東の空に君臨するまるい月の下で、街はようやく素顔をあらわしはじめていた。
 満天の星が、息をひそめてひとびとの営みをみつめている。
 その街は、大きな都市へと通じる街道沿いにあった。大きいとも小さいともいえない中途半端な大きさの、しかし昔からある街だった。
 中心に大井戸があり、水面は夜になると星星を映していた。そのまわりに、ごちゃごちゃとなんの法則も持たずに薄汚れた建物がおりかさなっている。崩れて痕跡があるだけの城壁まで、無秩序はつづいていた。
 かつて、この街はひとびとの多く集まる華やかなところだった。そのころの面影は、いまはない。街はいまだに夢を見ているのだ。ぼんやりと。この街がはっきりと存在しているのは、おそらくその夢のなかでだけだった。
 いま、満月の下で油に火を灯し、ひとびとは闇への恐れをおし殺そうとしている。
 時みちた月は、神秘をひめて大きく、重く、いまにも頭上に落ちてきそうだった。
 知ってか、知らずか。空を見あげるものはいなかった。まがまがしい赤い月。見ずにすませられるものなら、見ないほうがよいのだ。
 街はずれの娼家の軒下から、不安な調べが漂う。こまやかで美しいウードの奏でる旋律にのせて、背筋をなぞる細い指のような女の声が聞こえる。耳をおおって、床へ逃げ込みたくなるような、声は不吉な言葉(うた)を唄っていた。


 ひとつ ふたつ みっつによっつ
 女はかぞえる 水晶の玉を
 むらさき みどり ばら色の
 竜の流す血は紅
 顔には目玉の黒い穴
 漏れる鳴咽も苦しげな
 流れ清める涙なし


 女は、窓辺に静かに座して、喉をふるわせていた。夜空を風とともに吹きぬける、むせび泣くような声はここから生まれていた。この、暗い部屋の奥から。
 褐色のゆびが、弦を弾く。弦のふるえが、空気につたわる。空気のふるえが、風に運ばれる。
 薄暗いランプの光の中で、なかば陰のなかに沈みそうになりながら、男は上体をうごかした。浅黒く逞しい身体は、壁に映る女の黒い影をながめながら敷物の上に横たわっていた。
 戸口にだらりとさがっている帳はすりきれてみっともなかったが、夜の闇の中、気にするほどのことでもない。
 それより、今宵ひとばん買いうけた女の美しさに、男は満足だった。
 すんなりとのびた手足に、ゆたかな胸と腰。美しい声。ヴェールの下からのぞいた顔は、整っているばかりでなく、艶やかだ。黒い瞳がそっと微笑むと、足をからめとられたような気分になった。極上の女だ。
「陰気な唄はやめろ。こちらに来い」
 女は優雅にウードを置くと、すすと寄ってきた。男はそれを唇をゆがめながら待ちうけた。
 クッションにもたれたまま、ほそい腕をとり、ぐいと引きよせる。ヴェールをつまんでひきはがすと、女は静かに男を見あげた。男は息をとめて女を見た。
 ひだりてから光をうけて浮かびあがった顔が、溜め息をつかせた。それほど女は美しかった。ゆるやかになみうつ長い黒髪が、曲線をえがく肉体に這う蛇のように、みだらにからまっている。熟れた果実のごとき赤い唇が、かすかに、誘うようにひらかれた。
「どうなさいました、旦那さま」
 ほとんど息のような声だった。
「おまえは…美しいな」
「ありがとうございます。旦那さま」
 男は女の眼を、じっとみつめていた。まるでとらわれの魔法にかけられたかのように。
 女の肩をかかり落ちている黒髪ごとわしづかみにして、男はやわらかな身体をさらにみずからに近づけた。女は男の身体にぴったりとよりそい、もたれかかる。男はまきつけられた衣のなかに手をさしいれた。やわらかな、ひんやりとした肌が触れた。
 月がうごいてゆく。ランプの残りすくない油は、灯芯が吸いこんだ最後の一滴まで炎にかわり燃えつきた。
 飾り格子の窓から月のあかい光がおりてきて、まろみをおびた女体を照らしだす。
 男はむさぼるように女を求めた。くちびるがかさなり、舌が絡みあう。薄笑いをうかべながら女はそれに応えた。
 荒い息をはきながら男は女におおいかぶさり、身体をひらかせる。期待をこめて待ちうける女。男を迎えいれながら歓喜の声をあげた。
 巨大な月の中で、黒い影が弓のようにしなった。


point


 視界は大小さまざまの炎で彩られていた。
 白壁の家をつぎつぎに呑みこみ、焼きつくしてゆく赤い悪魔。
 柱の弾ける音。折れて、くずれる音。
 炎の隙間を吹きぬけてゆく風が、さらにあらたな炎をはこぶ。炎は、逃げまどう人びとを舐めてゆく。あかく熱い、その舌で。
 突然の炎の嵐。なにが原因だったのか。だれにもわからなかった。わかるものは燃えてしまったのだ。
 背後を切りたった険しい山々がおおい、正面を風にあおられて波たかい海がせまる。夜の空を焦がしてゆく、黒ぐろとした煙。それは、星を隠し、月を汚してひろがってゆく。
 燃えさかる火のいきおいはおさまらない。山のふちにまでのびはじめている。街は、炎の海だった。人びとは行き場をうしなって焼かれてゆく。くずれた屋根や柱の下敷きとなったまま、死を待つものもいる。
「いやあああっ」
 轟音とともに、あかく燃えあがる柱が倒れてくる。通りぬけることのできぬ炎の迷路へ、夫をうしない、正気をなくした女がとびこんでゆく。かんだかい悲鳴が尾をひいて響きわたった。
「かあさん」
 女の狂気にみちた悲鳴に不安と恐怖をつのらせて、小さな影がもうひとつの影にしがみついた。
「かあさん」
 母親は小さな息子の肩に手をまわして、しっかりとだきしめた、
「どこへゆくの、ねえ」
 男の子は煤に汚れた顔を母親にむけて、かすれた声でたずねた。
 もう、どれくらい歩いているだろう。
 炎に追われて逃げつづけていた。煙をさけて、歩きつづけていた。安全を求めて、進みつづけていた。なのに、右から左から、熱風が襲いかかる。
 もう、どこにいるのかもわからなかった。目印となるはずのものが、焼きつくされてしまったのだ。炭になってしまった、かつては人であったものを踏みつけて、前後のみさかいなく逃げまわった。それは、いったい、いまからどれほどまえからのことだったのだろう。母親は不安をさとられまいとして、息子の手をひいて歩きつづけた。そうするよりほかに、どうしろというのだ。
 身体があつかった。喉が焼けるようだ。煙は目を痛め、前がよく見えない。
「かあさん、かあさん」
 煤けた柱の残骸に足をとられて、母親は転倒した。男の子は母親の手をつかんで、必死でひっぱりおこそうとする。煙にむせて泣きながら、それでも母親を呼びつづける。
「かあさん、かあさん。起きてよ、はやく」
 母親は、一瞬ではあるが、意識をうしなっていた。息子のまわりで、踊るように炎がひろがってゆくさまが、彼女の脳裏をかすめた。信じがたい思いでみつめた、あのときがよみがえった。
 現実が、このまま消えてしまえばいい。
 そう考えたとたん、耳もとで息子の声が聞こえた。炎がさかまいて、まるであかい海のうねりのなかにいるようだった。母親はのろのろと顔をあげた。
「かあさん」
 ぼんやりと焦点をむすんでいなかった眼が、とつぜん大きく見ひらかれた。
 男の子はうしろになにがあるのかを見ようとして、身体をひねった。その瞬間、悲鳴をあげながら母親はかれをつき飛ばした。
 地面をころがった男の子は、なにが起こったのかわからぬまま、身を起こすと、母親のすがたを求めた。
 燃える柱の下敷きとなり、炎につつまれているものがあった。
 苦痛の悲鳴が火のなかで小さくなってゆき、緊張のあまり痙攣していた筋肉が、とつぜんゆるんでだらりと下がった。金色の髪は焼けてちぢれ、いまや溶けはじめており、顔は、顔であったものは、苦悶の表情から焼けただれて、黒く変化していった。肉の焼けるにおいが、あたりいちめんにたちこめるきなくささのあいまから、男の子の鼻を刺激した。
 炎は美しかった母親をあとかたもなく破壊して、かわりに黒焦げの醜い塊をつくりあげていった。
 男の子は、母親であったものから懸命に眼をそらした。
 炎がせまっていた。頬に熱さが感じられるほどに近づいていた。あふれる涙をぬぐってやろうと、危険な両腕をのばしてくる。
 いちどつよく目をつむると、意を決したように男の子は身をひるがえして走りだした。
 直後、母親を襲ったものとおなじ建物を構成していた柱が、すぐそばに倒れこんだ。
 あたりいちめんに血を流したかのような火がひろがった。そして、小さな影は、血の海の波間に吸いこまれていった。


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 おしよせる熱い炎の波をかぶるまえに、女は暗闇にもどってきた。
 そこはよごれてほこりっぽい娼家の一室で、かわいた沙漠のはしの街にあるのだった。
 照らす月影も、そのために生じるものの影も、落ちる角度がすこしばかり変わっていた。
 だが、部屋のせまくるしさやみすぼらしさに変わりはない。じつのところ、それほど時がたったわけではなかった。すぐうえで苦しげなうめき声をあげている男の熱さや、汗臭さすら、寸分たがわない。
 身体をはなしてからも、男は女の肌をなでつづけた。女は声をあげ、誘うようなしぐさをしてみせ、男にすりより、その気にさせた。
 男は乳房をなぶりながら入っていった。が、女はふたたび炎のなかへ戻ることはなかった。
 月がすっかり西へかたむくまで、男は飽くことなく女を求めた。幾度めかの交わりのあと、男はみちたりた気分でかたわらの女の肢体をながめた。すべてをゆだねきっているかのようなその姿が、男をわれ知らずほほえませた。
「こよいは一睡もできぬようだな」
「もうしわけございませぬ」
 女は男の汗ばんだ裸の胸をなでた。男はひくくわらって女のほそい顎に手をかけ、おもてをあげさせた。
「おまえ、名はなんという」
 うすきみの悪い笑みが、かたちのよいくちびるに浮かぶ。
「もうしあげても詮ないことでございます、旦那さま。じきに夜明けをむかえます、このときに」
「明日も来るさ。いや、おまえ――おれのところへ来んか。おまえは美しい。身受け金がいくらであろうが、おまえのためとあらば惜しいことはない。どうだ」
 男はすっかりその気になっていた。二度めよりのち、女がどのような目でじぶんを見ていたか、まるで気づいていなかった。
「ありがたいことでございます。旦那さまのように立派なかたにそのようなことをいっていただいて……」
「そうだろう」
「わたくしはお役にたちまする。ごらんのようにウードを奏でますし、唄をうたいます。舞を舞ってさしあげることもできるかとぞんじます」
「ほう、舞をな」
 女はそろそろと腕を男の首にまきつけた。
「ええ、さようでございます。わたくし、踊り子なんですもの」
「それは楽しみなこと一―」
 とつぜん女は男のうえに馬乗りになると、太い頸に両手をかけて絞めつけた。
 男のくちから苦しげなうめきが洩れた。
「わたくしの身受け代は、高こうございましてよ。だんなさま」
 ひくく、冷ややかにささやく声。
 男は女の腕をつかみ、ひきはなそうとした。だが、女の手は頸にぴたりと吸いついてはなれない。そうするうちに、ゆびが皮膚に食いこみはじめた。なぜだろうか。つよく絞めつけられているわけではないのに、呼吸ができない。
「ああ…っ」
 顔を醜くひきゆがめ、真赤に染めながら、喉が苦しげな音をだす。
 女は冷たい微笑を浮かべたまま、ゆびで喉をつき破った。がくん、と顔がのけぞり、男は絶命した。
「私を買おうとはな――うぬぼれがすぎる」
 つぶやくように独りごとを言うと、女は骸から手を離した。ころがった、かつては男であった死体は、精気を失い、みるみる老いさらばえて骨と皮ばかりになった。
 女は眼をそむけ、美しい顔をかすかにゆがめた。
 中途半端な夢しかもたらすことができなかった男は、残りの勘定をむりやり払わされた。
 これは取引なのだ。快楽には、代償が必要だ。
 骸はひからびて、こなごなになりはじめた。
 すべてが塵となれば、風にさらわれてゆくだろう。この男は故郷に――かわいた沙漠に還ることができる。
 母親を失くし、燃えさかる海辺の街を生命をまもるために駆けていたおさない子供。
 かれはどこへ行っただろう。
 火のなかで行き場を失い、果てただろうか。煙にまかれ、未熟なからだを炎に舐められて、炭になってしまっただろうか。
 いや。かれは生きている。
 女は知っていた。かれは生きている。そのそばに、水晶球もひそんでいる。そうでないとすれば、なにゆえ、かれの夢を見るだろう。
 肥大した月は空の一点で留めおかれ、変わりはてた男のみじめなすがたを非情に照らしだした。
 女はゆっくりと立ちあがると、部屋から去っていった。足音もさせず、たち消える煙のように。

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