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2 沙漠の夢


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 暑さは、いまや痛みに変化していた。
 かわいた大気と、灼熱の太陽に熱せられた大地とが、情け容赦なくかれを痛めつけた。
 疲労でうごかない身体を鍋のような地面に横たわらせて、シャリフは喉の渇きを思った。
 口のなかは唾液が出ないほどからからに乾燥していた。唇はひび割れ、砂がじゃりじゃりと気持ち悪かった。前のめりに倒れたときに入ったのだ。喉はひりついて痛み、唐辛子をくわえこんだように熱かった。
 最後に水を飲んでから、どのくらいの時がたったのだろう。
 目を閉じてさえはっきりと感じられるまばゆい太陽に背をむけて、かれはぼんやりと思った。
 大気には湿りけというものの存在がなかった。シャリフの身体のわずかばかりの水分さえ、餓えた大気に吸いだされた。空は晴れており、雲ひとつなかったが、埃のためにくすんで見える。地平線までさえぎるものとてない沙漠の上に、かれはひとりきりだった。
 水が飲みたい。
 現実と幻。意識と無意識が交差する。
 熱さと沙漠の魔性のために、シャリフの感覚はぼやけていった。
 その狭間で、かれは水を求めている。喉の渇きは狂おしいまでの強迫観念になりつつあった。水を求めるために、いまのかれは存在しているようだった。
 水がなければ死ぬのだとわかっていた。
 死にたくはない。まだ、だめだ。
 あれを手にするまでは――。
 手はかたい大地をまさぐった。
 熱さが、そとからうちから襲いかかってくる。逃れるすべは、どこにあるのか。かれはもう一度、腕に力をこめて体を起こそうとした。
 あのときもそうだった。
 腕はぶるぶるとふるえて、身体をささえきれない。
 あの炎。
 せまってくる赤い舌。刺すような痛みと、木のはじける高い音。
 黄土色の大地の上に、かれは身体を投げ出した。呼吸が荒くなり、胸が苦しかった。
 陽射しをさけて寝返りをうつ。
 わきあがる黒々とした煙と、人びとの悲鳴。
 視界は変化し、繰り返した。
 かれは悪い夢を見ているのだと思いはじめた。
 あざけりの声、嘲笑。背中にふりおろされた鞭の音。そして、痛み。
 くずれた柱。猫の死骸。にじみでる血液。
 悪夢は記憶の追体験だった。かれが嫌いぬき、できることなら忘れてしまいたいと思っている光景がつぎつぎ訪れた。熱さと悪寒が交互に舞いおり、意識は、夢と幻の間をいききした。


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 埃っぽい大気の中を駆けぬけた先に、その都市はあった。
 堅牢な造りの城壁に囲まれた、この地域では最大の都邑である。
 ウマルは陽にやけた顔にしわを刻んで、くすんだ城壁を斜めに見た。手下に、内部を探ってくるようにと命令する。
 シャリフは、太陽の光を避けて城壁の陰にと陣取った盗賊の首領の、厳めしくきびしい顔をちらりと見て、もうひとりとともに都市の中へと足を踏みいれた。
 街は、午睡の後のしばしのけだるさからぬけ出したところだった。
 人びとの顔は明るく、身につけているものは清潔だった。子どもたちが笑い声をあげながら通りを駆けぬけ、女たちは夕食の支度にかかりはじめるところだ。
 裕福な街だ。
 生きることに余裕をもってのぞんでいる人々が暮らしている街だ。
 アジーズの前情報は、あてにできそうだった。
 シャリフは門からつづく大通りをたどって、市場と隊商宿を探した。
 干し煉瓦や石を積みあげてつくられた建物のつづく市街を通り抜けていく。
 街の中心に近づくにつれ、建物は大きく壮麗になっていった。相棒のハサンは、もの珍しげに目をきょろきょろとさせながら後を落ちつきなく着いてくる。
 街の人びとは余所者になれているのだろう。見慣れぬ者がゆきすぎても、別段驚きもせず、好奇心をあからさまにすることもなかった。
 それでも、シャリフは人びとと視線を合わせぬように細心の注意をはらった。頭にかぶった布をさらに目深にひきおろす。自分の青い眼がこの周辺の人びとに与える印象を、かれは熟知していた。
 外見に惑わされず判断をくだすことのできる首領のウマルですら、かれの青い瞳を完全に受け入れることはなかった。迷信深く、信じやすい普通の人間に、期待できることなどなにもない。
 館と呼ばれるにふさわしい建物の前で立ちどまっていたハサンは、兄貴分がだいぶ離れてしまっていることにようやく気づき、小走りであとを追ってくる。
 シャリフは次第に人通りの多いほうへと足を向けていった。
 水運び人やカフワ売りのゆきかうバーザールヘの門が、すぐそこに大きな口を開いていた。人間の背丈の五倍はあろうかと思われる大きな扉をくぐり抜けると、中は何千何百もの商店が軒をつらねる大市場である。天蓋の下は、限りなく入り組んだ、迷路のようだった。大きさも種類もさまざまな店が、子宮のような暗がりのなかに所狭しと並んでいる。
 野菜、果物、肉、魚。服や装身具、日用雑貨まで、ありとあらゆるものが、ここにはあった。人びとは思い思いに品物を検分し、値段を交渉した。威勢のよい声があちこちでとびかっているそのそばで、大きくふくれた皮袋を下げた水運び人が、客に応じて杯に水を汲む。カフワ売りは湯気のたつ液体を小さな杯に軽業のようにそそぎ入れる。
「ひえ−、すげえなあ」
 ハサンのすっとんきょうな声は、市場のにぎわいに心底感心してのものだった。
「兄貴ィ。おれ、こんなにいっぱいのモノを見たの、はじめてだ」
「あんまりきょろきょろすんな」
 シャリフは弟分のうわずる声を聞きとがめた。
「あやしまれるぞ」
 ハサンの興奮も、無理はない。目の前にひろげ並べられた品物は、かれらがいままでに危険をおかして奪ってきた戦利品すべてをあわせたよりも、まだずっと多いのだ。
 品定めをするうちに気が昂ぶってくるのをシャリフも感じていた。だが、できるかぎりおさえこもうとした。ここでもめごとを起こすわけにはゆかない。
 シャリフはハサンをたしなめて、周囲に目をくばるのを忘れなかった。さいわい、市場全体の薄暗さのおかげで、瞳の色に気づかれた様子もない。あとについてくるハサンは、あいかわらず銀細工や血のしたたる羊の肉を見つけては目をまるくしていた。
 商人のはぶりのよさ、服装の質。太いゆびにいくつもはめられた指環には、天窓からさしこむ光にきらめく宝石がある。シャリフは市場のにぎわいに手応えを感じていた。
 かれらの懐はかなりあたたまっていることだろう。行動は夜間に限られているし、市場は夕刻には閉じられてしまう。とすれば、狙うのはやはり、隊商宿ということになる。
 ひととおり市場の中を歩きまわった後、シャリフはカフワ売りの所作を眺めているハサンを呼びつけて喫茶店(マクハム)の中に入っていった。
 男たちが集まってのんびりとカフワや水煙管をのんでいる喫茶店は、一種の社交場でもあった。
 うっすらと砂埃をかぶった椅子や卓がまばらに置かれている薄暗い店内。水煙管の煙と、カフワの中の香料、そして男たちの体臭が、せまい空間を満たしていた。
 シャリフとハサンは隅に近い空席に腰を落ち着けた。初めての喫茶店に、ハサンは少々戸惑い気味だ。落ち着けと命令するシャリフに、おそるおそる尋ねてくる。
「首領に内緒でこんなとこに入っていいのかよ。兄貴」
「これも偵察のうちだ。びくつくこたあない。遊んでるわけじゃ、ねえんだからな」
 なおも不安そうなハサンに、シャリフは顎をしゃくった。
「あいつの言うことを聞いていろ」
 それはひとめで商人とわかるなりをした、壮年の男だった。卓をはさんでむかいあっている男は、商談の相手らしい。ふたりの会話からは、かれがティーラスの町から絨毯を積み荷としてやってきたこと、隊商宿に泊まっていること、ここ二日で五十ディーナールの売り上げがあったこどなどが容易に察せられた。
 ハサンは理解のしるしにシャリフにニヤッと笑ってみせた。
「なるほどね」
 市場の片隅の喫茶店に、入れかわり立ちかわり訪れる商人たち。その口からでてくる、さまざまの情報。
 盗賊たちはカフワをすすりながら聞き耳を立てるだけでよかった。商人たちの舌のまわりは速い。隊商宿の様子は、シャリフの前に徐々に開けてきた。門番の様子、部屋の配置、隊商の規模、ラクダにくくりつけて運ばれてきた荷の中身。
 太った抜け目のない男たちの自慢話は割り引く必要がある。そのうえで、それでも、獲物に事欠かないという手応えはあった。ハサンは頬を紅潮させてシャリフを見た。
「首領がどんな顔するかな」
 シャリフは不用意なひとことを鋭い一瞥でたしなめた。入口から、ちょうど恰幅のよい中年の男が入ってきたところだった。
「やあ、マスウーディー。ひさしぶり」
「景気はどうだい」
「息子は元気か」
 店内のあちらこちらから声がかかった。男は愛想よく応えながら奥へ進んでいった。黒い長衣がうごきにつれてゆれる。精緻な金糸の刺繍がほどこされた高価なものだ。
 シャリフは脇を通りすぎる男の顔を見あげた。顎の張った威厳のある顔がかれを見おろした。
 一瞬のことだった。
 シャリフは何気なく視線をそらした。
「マスウーディ、こっちだ」
 男は通りすぎた。
「ディマシュクヘ行ったんだって。ハリーファの加減はどんなだい」
 マスウーディーと呼ばれた男はふり返らなかった。だが、シャリフにはわかっていた。鉄のような黒い瞳は、かれの眼の色に気づいた。眉間がかすかに緊張し、邪視にたいする嫌悪をあらわしていたのだ。次の瞬間には、跡形もなく消え去ってはいたが。
「ディマシュクなんぞ、いつもとおなじ、変わらんよ。そんなことより、だれかわしの血族のことを教えてくれんか。フェズのティルミサーウは、なにをしとる」
 ひくい声に尋ねられると、
「ティルミサーウじゃ、みな息災だ。若いイスハークの奥方にゃ、今度は双子が生まれたと」
「おお、イスハークに! わしはあいつに五年も会っとらんぞ」
「ウスマーンの娘は、もうじき祝言じゃ」
「ウスマーンの娘というと、アーミナか」
「いやいや、それはこの次だ。ハルクのハリムと一緒になるのは、ルカイヤだよ」
 マスウーディーのまわりには、にぎやかな人の輪がたちまちできあがっていた。シャリフは油断のないまなざしの富裕な商人にいわれのない反感をもった、
「ハサン、カフワ、もう飲んじまったか」
「あ。ああ、兄貴」
 ハサンはシャリフの態度の急変をいぶかしんでいた。だが、シャリフを突き動かしているのは理屈ではない。かれは、本能が不吉の影をかぎあてて、ここにいてはいけないとささやく声を聞いたのだ。
 マスウーディーをとりかこんでの世間話は、シャリフの警戒をよそになごやかにつづいていた。
「そうだ。ウスマーンは先頃、ちいっと変わったものを手に入れたんだぜ」
「どんなものだ」
「そうさな……。これくらいの、両の掌でようやく包めるくらいの水晶の玉よ」
「ほう」
 好奇心を刺激されたらしいマスウーディーの声とは反対に、シャリフは話を聞くまいとして席を立った。
「見る角度によってよ、色が違って見えるんだと」
 ハサンは、大股で歩み去ろうとするシャリフを、あわてて追いかける。
 水煙管の煙がもやのように漂う店内は、霧の中のように足元が不安で、思うように進むことができない。シャリフはあやしまれない程度にできるかぎりのはやさでうごいていたが、ひびく声から逃げおおせることはできそうもなかった。
「伝説の、竜のめだま、なんだとさ」
 ことばは、耳のなかにくいこむようにして入ってきた。ことばはかれを捕えた。もう、どうあがいても、締め出すことはできないだろう。ことばはシャリフの身内を、いやおうなしに侵していった。
 そして、水煙草の匂いが、カフワの薫りが、理性を狂わせる。
(おまえの背後には、竜が見える)
 唐草紋と幾何学紋のからみあう市場の装飾
(だから、おまえは探さねばならぬ)
 天蓋をつらぬく、明かり取りの光と、半永久的につらなり続ける列柱と
(おまえは眼球を探さねばならぬ)
 頭のなかでこだまする声。
 あれは市場で商人があげる声なのか、それとも、洞窟の中で聞いた老魔術師の声なのか。
 その夢はときどき訪れた。
 さして重要なこととは思えなかった、老魔術師と暮らしていたときには。
 だが、いまでは夢はかれを内から蝕んでいた。
 触れるたび、夢はその鮮明さと耐えがたい内容でかれを苛む。
 苦痛は欲望であり、拒否であり、希望であり、そのいずれとも異なっている。
 かれを十二の歳まで育ててくれた老魔術師は、よく言ったものだ。
 おまえの背後に、竜が見える。眼窩に球のない竜だ。
 だから、おまえは探さねばならぬ。おまえの眼球、おまえの眼を。
 現実感のともなわない言葉。だが、いまシャリフが味わっているのは、それよりも遥かに現実味のない苦痛だった。
 眼球への渇望は、ときにかれの視力を奪い、ときに蜃気楼のような幻覚を見せる。シャンシャンと鳴る鈴の音とともにのたうつ、蛇のような女体と、その手のなかでぬめる血液を浴びて光る水晶の玉――
 あれは、眼だ。
 自分の眼なのだ。
 女は意地の悪い笑みをうかべ、踊りつづける。
 みだらに、誘うように、求めるように、しかし、しっかりと水晶球を手にしたままで。
 かれの焦りに気づいていながら、舞をやめようともしない。かれの赤い血が、旋回する踊り子の手のなかからはじけとぶ。
 踊り子はうごきを妨げられることを望まず、手のなかの玉を自分の物と主張してやまず。熱い瞳で、かれの理性を溶かそうとする。
 女の瞳は語る。
 これは私のもの。
 私の竜の瞳。美しい透明な水晶球。
 シャリフにこの主張をうけいれる気はなかった。眼球は自分のものだ。彼女のものではない。視力の欠落が示しているではないか。眼窩の痛みは、なにをものがたる。
 幻覚に対するなかば本気の拒絶反応は、実際には存在しないはずの女の顔を歪ませた。燃えさかる熱い怒りによって。
 その美しい顔は、幾度となく感じたことのある恐怖を、シャリフにふたたび体験させるのだった。

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