虚空にしろい月が出て、どれほどの時間が経ったろうか。
ジーナは全身をおそれに緊張させたまま、ときが過ぎるのを待っていた。
みょうに静かな夜だった。
ゆがみかけた古い建物の軋む音が、いまにも崩れそうに大きくしたかと思うと、とおく潮騒の音が、かすかな地響きのように聞こえてくる。
暗く闇に沈んだ家屋のなかに、病に疲れた壮年の男の寝息が溶け消えてゆくのまでが聞こえるようだった。
冷たくなったゆびさきで、ジーナは乾燥させた薬草の葉を砕いていく。粉々になって落ちたそれは、土鍋の底にわずかに汲みあげられた清水のうえを覆い隠すようにひろがっていく。
ときおり、なにかに打たれたように、水面に輪が広がった。
原因は、彼女のふくよかな胸のうちにある、ちいさな心の臓だ。
張り裂けんばかりに激しく脈打ちつづける心臓が、直接触れているわけでもない鍋の中の水を、ふるふると震わせている。
――そんなに心配なら、見に行ったらいいじゃないかね
頭の隅から、我慢しきれずに曾祖母が話しかけてきた。
――おまえの男は、いま、相当ひどいめに遭おうとしているよ
ジーナの愛する男が向かい合っている困難を知らせる声音には、期待と興奮と毒が満ちていた。
「うるさい」
思わず口からでた声は、意に反してたよりなげに闇の中に消えていってしまう。
――このまま放っておいたら、あの男は死んじまうかもしれないねえ。そうじゃなくても、あの子どもたちとともに、島を出てしまうかもしれないねえ
喜色満面でつづけるかつての島の夢見は、曾孫娘の畏れをズバリと突いて高笑いだ。
「だまってったら」
そうなったら、やっぱりおまえが私の跡を継ぐんだよ。
何度も言われつづけた言葉が、ふたたびくり返されるのを感じて身構える。
今度こそ、なにかを言い返してやる。
曾孫娘のささやかな決意を嘲笑うかのように、曾祖母は含み笑いをしながら囁きつづけた。
――だいじょうぶだ、だいじょうぶ。島の夢見が、これで滅びることはない
大陸のひとびとにジョドルと呼ばれるその島は、南洋のただなかにぽつんと浮かんでいる、小さな島だ。
ここには、いにしえより夢見と呼ばれる女たちが住みつき、竜の時代の力の脈を鎮めるために築かれた礎石のひとつを護りつづけてきた。
礎石は夢見の女たちによって秘匿され、人の目に立つことはない。
だから表面上、夢見の女は礎石ではなく、島びとの夢を司る存在として崇められてきた。
ところが、最後の夢見であった彼女の曾祖母が、齢九十の生をまっとうし終えたときに、つぎの夢見となるものはいなかった。
夢見の力は、血筋によって伝えられる。曾祖母の娘は素質を持たずに生まれた。その娘は、素質はあったものの勝手に島を出ていって、そのまま帰ってこなかった。夢見の力は、護る礎石と結びついたものだから、土地から離れたものからは夢見の資格が失われる。
残されたのは、素質を持たずに生まれた夢見の娘と、その孫のいまだ物心もつかぬ赤ん坊。
そうして、島からは夢見の女が失われた。
礎石の存在を知らぬひとびとは、なんの不安を感じることもなく、あっさりと夢見の存在を忘れはてることに成功する。
なにしろ、最後の夢見は口うるさくて、権高な、横柄ばばあだった。
まちがったことはしなかったが、だれにでも公平に辛辣な言葉をとばし、ことに当時の島長には嫌がられていた。意見が対立するたびに、子どもの頃の粗相を島中のひとびとの前で蒸し返されるのだ。夢見の婆のおかげで島長の権威はボロボロだった。島長はあるときとうとう我慢の限界をこえて夢見の婆と絶交すると、そのまま関係を修復しようとすることもなく亡くなった。
島の誰もが、多かれ少なかれ、おなじような経験をもちあわせていた。夢見はそのころはまだ島の冠婚葬祭には欠かせなかったから、婆はその機会を逃さずまんべんなく平等に暴言をまき散らしていたのだった。もしかすると、夢見の婆にとっての、それは数少ない娯楽だったのかもしれないが。
夢見がどれほど昔の人に大切にされていた存在だったかは、この際どうでもかまわない。
現在、夢見がどれだけ必要な存在なのかが、今を生きるひとびとの問題だった。
そうして、夢見の婆が天寿を迎えたとき、その後継者について頭を悩ませるものは、島にはひとりもいなかったのだ。
死んだばかりの、当の夢見をのぞいては。
ジーナが、自分の頭のなかに曾祖母がいることに気づいたのは、いつのことだったろう。
――まったく、なんて恩知らずな輩なんだろう!
はじめて彼女が聞いた曾祖母の言葉は、これだった。
まだ祖母の後をくっついてまわる幼い子どもだったジーナは、間近に響いた声に息が止まるほどびっくりしてふりかえったが、あたりには誰もいない。ただ、人気のない緑の雑木林に、かすかに遠く鳥のさえずりが聞こえてくるだけだった。
いまもそうだが、声だけの曾祖母は突然話しかけてきたかと思うと、何の前触れもなく黙り込んしまう。存在を忘れかけた頃にふいとやってきて、多大な迷惑を掛けて平然としている、無駄飯ぐらいの風来坊のような存在だ。
そのとき、ジーナは正体のわからない声に不安になり、つぎにしばらく声の放った言葉の内容に悩むことになった。
ちょうど、そのころ、島にひとりの男が居つきはじめていた。
大陸で魔法使いの集う〈賢者の塔〉に籍を置いたことがあるとうそぶく、痩せたガラのような男で、夢見の女をうしなって久しい島びとの関心を独り占めにしていった。
素質は受け継がなかったものの、薬草の知識と治療の技術をひととおり夢見の婆から伝授されていたジーナの祖母は、ひとから男の処方する「霊験あらたかな秘薬」を見せられては、顔をしかめていた。
しかし、島びとは、新来者の奇妙な薬を珍重した。忘れ去ったといっても、長年の間にしみこんだ夢見の婆に連なる者に対する警戒心は、まだ抜けきれてはいなかったのだろう。
〈賢者〉をもてはやす島びとを横目にしながら、祖母はジーナに、あの男にはけして近づくなと言い含めて育てた。
「あれは、賢者の名を騙るとんだ食わせ者だ」
というのが、祖母の言い分だった。
だから、ジーナははじめ、声を祖母のものかと思ったのだったが、そのとき祖母の姿は近くにはなかった。なによりもあれほど辛辣に人を罵倒するような言い方は、祖母のものではない。
しばらくしてふたたびその声を聞いたとき、最初の時よりもすこし成長していたジーナには、それが祖母の声ではないことがすぐにわかった。
頭から陽射しを浴びながら、家の裏にこしらえた小さな薬草畑の手入れをしていたときだった。見まわしてみると、やっぱり、ほかには誰もいない。
――ここも、ずいぶん寂れてしまったねえ
ジーナは、頭の中に響いてきた不思議な声に、しばらく耳を傾けた。
――私のときには、この何倍もの種類の草を育てていたんだったのに。力がないくせに、草の世話もできないなんて。情けないねえ。小さい頃からあの子は目配りのできない質だったよ。地べたばっかり見ていて、ちょっと先にある石に気づかないんだから
こうなることは目に見えていたとばかりの、ため息のようなものまで聞こえてくるに及んで、ジーナは勇気を奮い起こして尋ねた。
あなたはだれか。どうして頭の中にいるのか。なんで愚痴ばかりこぼすのかと。
――ああああ、やだやだ。おまえ、気づいていなかったのかい。ずーっと話しかけていたのに、もしかして全然聞こえてなかったんじゃないだろうね。あたしは、あんたが赤ん坊の頃に死んだ、あんたのひいばあさんだよ!
とうの昔に死んだはずの曾祖母を名乗る声だけの女を、さして疑問にも思わず受け入れたところは、ジーナもこの婆の血縁にはちがいなかった。
思い出したのは、祖母がときおり話してくれた、祖母の母親に関する昔話だ。
それは、おもに気にくわない島びとたちにたいする、意趣返しの意味を持っていたので、夢見の婆の武勇伝といったものになりがちだった。
――そうだよ、おまえのばあさんは、あたしの娘だ。あの子もろくでもないことばかりを孫に吹き込むんでないよ。娘をつなぎ止めることもできなかったくせに。死ぬ間際にあれほど頼んでおいたのに、おまえにはぜんぜん夢見の修行をさせようとしないし! なんのためにあたしがまだこんなところに留まっていると思っているんだい。まるで意味がないじゃあないか
憤懣やるかたなしとばかりに愚痴をぶちまける声に、ジーナはただ呆然としていた。
言っていることはまったくわからないが、どうやら曾祖母は、祖母に腹を立てているらしい。
ジーナは祖母が大好きだったので、なんとか怒りを解かなければと思った。このままではやさしい祖母がどうにかされてしまうと心配したのだ。
どうすれば怒らずにいてくれるのかと、おそるおそる尋ねるジーナに、曾祖母は言い放った。
そんなことは決まっている。自分の言うとおりにすればいいのだと、声は傲慢に告げた。
――いいかい、おまえは、あたしの跡を継ぐんだよ!
一方的に宣言した頭の中の曾祖母は、それからはことあるごとにしゃしゃりでて、ジーナに話しかけるようになった。
まず声は、自分がまだ生きて――このことばにジーナはたいへんな違和感を持った。声だけの存在が、はたして生きているといえるのだろうか。そこらへんに生きている人間よりもはるかにうるさいことは確かだったが――いることをけして他言するなと命じた。
ジーナ以外の者に曾祖母の声はまったく聞こえないようだったから、なにもそんなに神経質になる必要はなかったのだが、夢見はあくまでもそう主張して譲らなかった。
どうやら、曾祖母にとっては言いつけを守ることよりも、彼女が素直にいうことを聞くことのほうがたいせつだったようだ。
このように、曾祖母の話はたいてい命令で始まった。
つぎに命じられたのは、夢見が代々護ってきたという礎石のある場所を毎日詣でることだった。
礎石は、夢見の女が住み暮らしてきた古い館――つまり、ジーナが祖母と住んでいる家の敷地内にあった。はじめに曾祖母の声を聞いた近くである。
そうと指摘されなければ気づかないような、生い茂る草の深みに、まわりとはあきらかに異質な存在感と質感を持った石に触れたとき、ジーナはなんともいえない不思議な脈動を感じた。
この石は、見えないところでなにか大きな存在につながっている。
ゆるやかにおおきく波うつような、それがどこかでべつの脈動とあわさって、とてつもなく広い世界に繋がってゆくような、気の遠くなるような深淵と高みに同時につれてゆかれるような、おそろしさと慕わしさとに意識が遠のいてゆきそうな――不思議な感覚がからだをつつむ。
ジーナが感じたことを曾祖母も感じ取ったようだった。
はじめて満足そうに、声が言った。
――そうそう、間違いない。おまえには素質がある。あたしの見込んだ通りだ
赤子の頃に母親に見捨てられたジーナにとって、この言葉は、たとえ頭の中にいるだけの曾祖母の発したものであっても、なんとはなしに心を満たしてくれるものだった。
このとき、軽はずみに夢見になるなどと言わなければ良かったと、のちに何度もジーナは思う。
夢見の婆は、年端のゆかぬ少女の気まぐれなどといって、聞き分けてくれるような甘い存在ではなかった。
曾孫娘の言質を取って、立派な夢見の跡取りに育てるのだと意気込んだ曾祖母は、ジーナのすることなすことに注文を付けるようになったのだ。
そのひとことひとことは、代々夢見に受け継がれてきた事象に関する考察であったり、長い経験と深い英知に裏打ちされた知恵であったりするのだが、ジーナにとっては、自分の行動にいちいちケチを付けられているようで、あまりよい気分のするものではなかった。
もっとも反発させられたのは、初めて抱いたあわい恋心を辛辣に批判されたときである。