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風鳴る塔 1


 かわいた風が、髪にからむように吹きすぎていく。
 まとめてあった色味の薄い髪は、いつのまにかほどけてばらばらになってしまい、乱れた毛先は幾度も干からびそうな口のなかにまぎれこんだ。
 だが彼女は、わずらわしいと感じながらもそれを払いのけることができない。
 めまいがした。
 つぎに踏み出すべき足下を確認するたびに、遙か下方に遠ざかってしまった赤茶けた大地が目に入る。
 それだけのことがどうしてこれほどの恐怖をもたらすのかと、彼女は苛立ちにも似た感情を抱いてはため息をついた。
 巨大な円筒の形をした塔の周囲をほそい紐のように這いのぼっていく階段は、塔と同じくこのあたりで切り出される固い石で造られているものの、長い歳月の果てに風雨に曝され、もろくなっている。
 人ひとりがやっと通れるほどの幅だ。手すりはない。乾燥した埃だらけの大地に叩きつけられたくなければ、細心の注意を払って足場をさだめる必要があった。
 頭からひいていた血液がゆっくりと戻ってくるのを、壁面にからだを預けて待った。石壁のざらざらとした手触りをたどって、すこしずつ脚を曲げて腰を落としてゆく。
 いつのまにか、彼女は石段の途中で座りこんでいた。
 荒い呼吸と心臓の音が、自分ひとりの耳をうつのに気づく。
 汗のひいて、つめたくなった頬に陽光のあたたかさがうれしかった。
 まぶしさのために段の遠近がつかみにくかったが、冷たい影の中での試練に耐えるよりはずっとましだった。
 目を閉じて、赤みを帯びたまなうらを意識しながら、ふと、思う。
 カドリは。
 あのひとは、どうしただろうか。
 ここまで彼女を送ってきてくれた若者に対する苦い感情はいまだにあって、ふきさらしの高所で風に吹きさらわれても、陽光のつよくなるなかに消えうすれてもくれなかった。
 同時に、かれへの想いをふりきらねばならない理由も失われてはおらず、身のうちを渺々と吹きすさんでいる。
 塔をのぼりはじめたのは朝、夜が明けてすぐのことだった。
 あれからどれくらいがたったのだろうか。
 塔のどこかに巣をこしらえているものか、時折鳥たちが羽ばたく音が聞こえ、滑空しながら遠ざかる姿が見えはするものの、ほかに生命のいとなみを感じるようなものは何もない。
 彼女をとりまいているのは、ただ風と、埃にくすんだ雲のない空と、粗い石壁。そして、無慈悲に彼女を待ちうける、ゆるぎのない渇いた大地だけだ。
 時間の感覚がしびれて、よくわからなくなっていた。とても長い間、のぼりつづけている気がしているが、実際はそれほどでもないのかもしれない。
 かといって、太陽の位置を確かめるのは怖かった。上をみあげたら、足下が消えてなくなってしまいそうな不安が、ずっと胸を圧迫している。
 おそろしくて。
 ここから足を踏み出して、一瞬のうちに消えてしまいたいような気持ちに駆られるほどに怖ろしくて。
 いつまでこんなことをつづけていられるだろう。そんなことは自分でもわからないと幾度も思い、それでもひたすらに前だけを見て、足を運びつづけている。
 それなのに、彼女はまだ、第一の間にもたどり着いてはいなかった。



 タトゥースは耕すには向かない土地だ。灼熱の太陽に大気はからからに渇き、利用できる水場も少ない。したがって、街道からも遠く離れている。
 遊牧の民が水場を求めて季節ごとに通る、傍目にはわからぬ道筋のほかに人の行き来は稀なため、物もとどまることがない。この地に住むものの多くは日々の営みにすら汲々としている。
 その塔は、タトゥースの西、さらに人里離れた荒野に屹立している。
 塔は古く、神代の昔からそこにあると吟遊詩人にうたわれていたが、記録は長の歳月の果てに失われてしまい、正確な来歴はわからなくなっていた。
 タトゥース以外の世界では人々の記憶からも消え去りかけた塔に、あるのは歴史ではなく、言い伝え。それも実際には塔を間近にしたこともない者が口にする、根拠のない憶測によるものでしかない。
 ごくまれに、酔狂な学者が好奇心や向学心から塔を訪れることもあったが、雲を突くようなその威容に圧倒されたあとで、塔自体にはとりつくこともできずに終わるのが常だった。
 外壁をつたって上部へとつづく階段はたしかに存在するのだが、それは人の身長を遙かに超えたところからはじまっていて、どんなに長い梯子をもってしても届かない。そもそも、不毛の土地は平らなばかりで人の住まいは天幕でできているのだから、この土地ではどんな梯子も滅多に眼にすることはないのである。
 のぼることができない塔など、なんの役に立つだろう。
 そして、幾ばくかの報酬のために塔への道を案内する遊牧民の言い分は、たとえそのてっぺんに立つことが叶ったとしても、見えるのは赤茶けた荒れ地だけだろうというものだ。
 戦でもあれば、こんな塔でもなにかしら用途がみつけられるのかもしれなかったが、一なる女神がまどろみはじめてこの方、この貧しい土地をめぐる争いなど一度も起きたためしがない。
 しかも、この塔は、ときおり咆哮するのだという。
 風の強い日に塔のあげる不気味で禍々しいうなり声は、耳にすればたちどころにして寿命が縮むのだと土地のものには言いならわされていた。それは塔に棲みつく魔物のあげる、人には理解のしようのない、理解すれば心を失う、とてつもなく不吉な魔のちからを含んだ声なのだと。
 塔の魔物の話は、周囲に暮らす貧しい人々が子どもを叱るときの常套句だった。星空の天幕の下、炉辺のかたわらで年寄りの語るのは、塔の怪異と出会ったがゆえに、辛苦の果てに命を落としたものたちの、おびただしい災難と恐怖の物語だ。
 幼いころから塔を禁忌として育つ遊牧の民は、なんの役にも立たず、まして命の危険があるといういにしえの廃墟から、思い出したようにひびいてくる風鳴りの音を凶兆として忌み嫌った。かれらは、迷子になった羊をつれもどさなければならなくなったとき以外、けして塔には近寄らないのだった。
 女神の夢の領土の、貧しい辺境にあると称される、ただ広いだけの埃っぽい空と大地。
 そのあいだにぽつんと立つ、神さびた塔。
 数十年、数百年。あるいは数千年もの間、塔に関心を示すものはいなかった。
 空を舞う鳥たちと、ある一部の特殊なひとびとを除いては。



 かれらは、大地に定まり住むものたちに、風聞の民と呼ばれている。一なる女神の夢の領土をさすらうものたちだ。
 自身をトゥースの民と呼び、風の大神(トゥース)の息吹にふかれて流されるのが、自分たちの生き方なのだと誇りにしている。
 トゥースの従えるさまざまな風たちに導かれ、流れ者と蔑まれながらも、けしてひとつところに留まろうとはしない。
 定住はすなわち、トゥースの民の資格をうしなうことを意味する。
 かれらはおたがいに血のつながりを持たない。風の精神を持つことこそがかれらの存在の証なのであり、大地の血液のように道をめぐって循環しつづけることが、トゥースの民に定められた宿命なのだ。
 彼女がトゥースの民に混じり、流浪の日々をともにするようになって、十年という月日が経とうとしていた。
 生まれ育った村が焼け落ち、両親を一度に失った。
 村でひとりだけ生きのびた彼女は、神殿に保護されてのち、母なる女神の島へとむかう巡礼に託された。
 けれどそのころのことで覚えていることは、ほとんどない。
 気がついてみると、彼女は旅芸人の一行に預けられることになっていた。
 わけもわからないままに、彼女はトゥースの民と日々を過ごしはじめた。
 その理由を知らされたのは、自分のいる一団が周囲に風聞の民と呼ばれていること、それはけして敬われての呼び名ではないこと、しかし、表向きにはどんなに貶められようとかれらを求めるものは必ずおり、かれらはその人々に特殊な労力を提供して多くの糧を得ていること、などを呑み込んで、彼女自身にもささやかながらトゥースの民としての自覚が芽生えた後のことだ。
 その夜。
 彼女は、トゥースの民のちいさな一行の統率者である女占い師ルカに呼ばれて天幕に入った。
 天幕では、陽光にさらされて定住民の女よりもずっとくたびれて見える顔が、ほそい粗末な蝋燭の炎に照らされてむっつりと彼女を迎え入れた。
 女のしなびた手元の古びた濃紅の天鵞絨には、商売道具の水晶の珠や、変色し端の擦りきれた骨牌が片づけられずに散らばっている。
 緊張してかしこまる彼女のすがたをしばらく眺めたのちに、ルカは言った。
「おおきくなったね。おまえももう子供ではない。頃合いだ」
 そして告げたのだ。トゥースの民が彼女を預かることにしたのは、一なる女神の巫女に聖なる神託がおりたためだったのだと。
「おまえはトゥースの巫女になる、と告げられたそうだ」
 驚く彼女に、ルカは榛の瞳をちらりと光らせた。その笑いには、沙漠の濃厚な褐色の飲み物にも似た、皮肉で苦いものが含まれていた。
 旅芸人を装ってさまざまな土地を移動しながら特殊なつとめを果たしつづける一行のなかで、日々の雑用以外にこれといって役割を持たない彼女はずっと肩身の狭い思いをしていた。
 役に立たない人間をお情けで養ってゆけるほどに、トゥースの民は裕福ではない。移動しつづける彼らには、蓄えと呼べるものはほとんどないからだ。かれらの財産は身につけて運んでゆけるものと、幌付の馬車のようにわずかばかりの共同財産とに限られている。
 そんなかれらがどういういきさつで彼女を受け入れることになったのか、これまでにも不思議に思ったことは幾度かあった。
 それは、いつか彼女がかれらの巫女になると信じられていたからなのらしい。
 冗談だと否定して欲しい彼女にむかって、ルカは非情につづけた。
「トゥースの巫女になるにはなにをする必要があるか、教えておこうね」
 そうしてルカは、彼女にはとうてい不可能ごとと思える試練についての話をはじめたのだった。
「もし、これがかなわないようならば、ほかの身の振り方を考えたがいい」
 最後にそうつけ加えられて、彼女はぼんやりしながら天幕を出た。
 トゥースの巫女に、なれるものならなれと、ルカは言った。
 至高のイニスの巫女は別として、他の神々の巫女ならばこの世界にはどこにでもいる。
 一なる女神は多くの神々をみずからの分身として、または子どもとして、顕現させたと伝えられている。あまたの神をまつるため各地にいくつもの社がたてられ、そして社の数だけ巫女がいるのだろう。神の賜物をしんじつ身にうけ、異能をあらわす格の高い巫女から、きまりきった約束事をまもるだけの形骸化した巫女まで、巫女の存在はさまざまだ。
 だが、トゥースの巫女の存在はとても稀だ。
 トゥースの民は流れの民。かれらのあいだに仲間意識はあっても血縁関係はほとんどなく、なぜかたがいに子供をなす者もあまりいない。もともと全体の数が少ないのだが、トゥースの巫女をつとめられる賜物を持つものはそのなかにも稀だった。沙の海原の中の金の一粒ほどに、トゥースの巫女は得難いのだ。
 だから、トゥースの民はいつでも巫女を渇望している。
 さすらうかれらに神以外のよりどころはないに等しい。神なくしてトゥースの民は生きてゆくことはできない。その身体に神の息吹を感じはしても、神の意志を意味あることばとしてうけとり、たしかに見守られていると感じて安堵したいと願うことはやめられないのだ。
 現在、トゥースの巫女は不在である。
 先代が神の元に去ってから次代の兆しは十年待ってもあらわれず、ようやくあらわれた候補は試練の果てに命を落とした。
 不安をつのらせたかれらはとうとう一なる女神の島に神夢を求めにいったという。
 そこで巫女にひきあわされたのが彼女だったということらしい。
 そうしてトゥースの民は彼女を、将来トゥースの巫女となり、神とかれらに奉仕するものとして迎え入れた。
 だから、彼女は巫女にならなければならなかった。
 そうでなければ、なんのために役に立たない小娘を押しつけられて養ってきたのか。意味がない、というわけだ。
 しかし、彼女は、自分にトゥースの巫女になる資格はないと知っていた。
 ルカもそのことがわかっていて、だから彼女に一行を離れる未来をほのめかしたのだろう。
 彼女には賜物がない。トゥースの巫女に必要だとされる、歌をうたう才がない。
 いや、才があるかどうかの問題ではない。そもそも、歌うことすらできないものが、どうして試練に挑むことができるだろう。
 ルカの天幕からでてきた彼女は、心配して待ちうける若者の顔を見て、声もたてずに泣いた。
 声は出ないのだ。
 彼女の喉は、声を出すことを拒んでいた。
 声の記憶は遠く、過去のすべてとともに彼女から隔てられていたのだった。
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