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風鳴る塔 2

 彼女の涙の理由をひとりで推測したのだろうか。あるいは、ルカからそれとなくほのめかされたのだろうか。
 町から町への移動の途中にある夕べ、若者は、ふさぎがちな彼女をなぐさめようと笛を吹いてくれた。
 カドリの笛は、一行が座を広げる前触れとして耳慣らしのような役割を果たしている。どこまでものびる澄んだ音の奏でる素朴な旋律は、田舎ではなじみ深い日常の記憶として、都ではなつかしい故郷のしらべとして、たいていのひとびとに歓迎されるものだった。
 だが、このときかれが吹いた音には、いつもの単純なほがらかさではなく、つやめいた熱い感情がのせられていた。
 その後、カドリは彼女に、どこかの街で一緒に暮らしてみないかと持ちかけてきた。ふたりで所帯を持って、ひっそりと静かに暮らしてみないかというのである。
 トゥースの民と決別する。
 それはカドリにとって、言うほど気軽に実行できるようなことではないはずだ。
 カドリは彼女よりも以前からこの一行と旅をともにしていた。まだ子どもの時分に親に売られて、ルカに借金を返しているのだと、いつだったか笑いながら話してくれた。
 いつかはどこかで、地に足のついた生活をしてみたい。
 そんなことばを口癖のようにいうカドリだったが、実現が難しいのは自身にもわかっていただろう。カドリは流れの芸人としてただ笛を吹いているわけではないのだ。
 トゥースの民はすぐれた密偵だ。そのわざを得るためには高額な財産が引き換えとされる。かれらは風聞の民の汚名の下で、各国の裏の事情に不必要なまでに通じている。
 彼女はともかく、カドリはその内実に足を踏み入れて久しかった。かれがトゥースの民を穏便に抜け出ることはまず不可能だろう。無理に願いを叶えようとすれば、その先にだれにも顧みられることのない冷たい結末が待っているのだ。
 彼女はひとりでどこかへ行くことを考えたが、記憶にある限りの年月のすべてを旅に過ごしてきたものに、定住の暮らしは想像のそとだった。つてのない身で、言葉も持たず、なにを頼りにすればいいのかもわからない。
 心細さに涙が出そうだった。
 そんな気配を察したのか、カドリは無言で彼女のあたまを抱え、乱暴にひきよせた。
 ひそめた息の下から、いたわりに満ちた低い声が言う。
「ひとりで考えるな」
 でも、私たちは話し合うこともできないのに。
 話し合うどころか、ふたりはたがいの名を呼び合うことすらできなかった。
 彼女に若者の名を呼ぶことはできないが、カドリは彼女の名前を知らないからだ。
 彼女がまだ芸人たちの仲間に入ったばかりで、生きていることすら実感できなかったころのことだ。
 周囲にうち解けるような余裕もなく、彼女はかたくなな態度をくずさなかった。
 心を閉ざしたまま、呼んでも応えない少女に接し、周囲は苛立ち、そしてしらけた。彼女に呼びかけようとするものはいなくなり、ほどなく、その名を使うものもいなくなってしまった。
 それでもいいと、彼女は思っていた。イニスの巫女が授けてくれた呼び名は、いつまでたっても他人の名にしか聞こえなかったからだ。
 だが、そのうち彼女は自分の名前を思い出せなくなった。
 そしてどこにいても存在感のない、その他大勢でしかなくなった。
 名のない彼女は、影の民のなかにいてさえ影でしかなく、そうするうちに自分でも自分の存在をかんじとれなくなることがままあった。
 彼女は薄れていった。
 彼女は自分が消えてしまいそうな心許なさをかかえたままで、いつもぼんやりとすごしていた。
 だから彼女は、カドリが自分に気づいた理由がわからなかった。
 いまもってわからない。
 なぜ、かれはこんな自分に親切にしてくれるのだろう。
 だからなのだろうか。
 かれのぬくもりは彼女の不安を少しやわらげたが、そのぬくもりをもってしても彼女は運命から逃れることはできなかったのだ。



 塔の外壁にへばりついたまま、めまいがおさまるのを待って、彼女は腰に結びつけてあった水筒に手を伸ばした。
 もう、上も下も見たくなかった。視線は手元だけ、もしくは塔の壁面にすえて、視界がひらけないように注意してすごしていた。
 目を閉じると、滲んでいた汗がかわいた風になでられ、すうと消えてゆく。
 陽光にあたためられた石積みに背を預け、ひゅうひゅうと音を立てている喉をわずかな水で落ち着かせようとした。
 生まれつき話すことのできない人間は、神に声を捧げたものとして聖別されるが、彼女の場合はそうではないと神殿付きの医師は看たてた。
 彼女が声を失ったのは、おそらく、両親が死んだときなのだ。
 焼け落ちた村からまだ幼い少女だった彼女を連れだしたのは、イニス・グレーネの騎士だったそうだ。騎士は、彼女はみつけたときからひとことも話さなかったと、応対をした神官に語ったらしい。
 よほどつらい経験をしたのだろうと推測し、神官たちはやさしく接してくれたようだ。
 つらかったのだろうか。
 彼女は、幼い日のことをほとんど覚えていない。
 自分がなにものだったのか、残っているのは、ぼんやりとした輪郭のない影のようなものだけだ。
 緑深い山あいの村落で過ごした冷たくかじかむ感触をともなった記憶は、乳のように濃い霧のむこうにたしかにあるのに、どれだけ懸命に手を伸ばしてもふれることはできなかった。
 巫女になるという未来に、手が届かないように。
 伸ばしたゆびさきが空白をよぎると、不安がおとずれ、寒気を感じる。
 つめたい風は、いつも遠くでなにかを叫んでいた。
 とらえることができない過去は、もどかしさとともに恐怖を覚えさせた。いまではすべてがわからないままのほうが安心だとさえ、彼女には思える。
 空白は無だが、負ではない。
 彼女はため息をつき、水筒に栓をつめる。
 日暮れまでに、どうにかして塔のてっぺんまでたどり着かなければならなかった。
 どれだけ月がしろく輝こうと、星が煌めこうと、夜の帳のもとでこの階段をのぼりつづける自信はない。
 緊張と疲労でこわばった膝に力をこめ、たちあがろうとしたとたん肝を冷やした。よろめいて、重心がなにもない空間に移りそうになったのだ。
 あわてて石壁に手を伸ばし、どうにか指のかかるところをつかんで呼吸をととのえる。
 彼女はふたたび石段をのぼりはじめた。



 この世の終わりまでつづくのかと思いはじめた壁がとぎれたのは、それからしばらくたってのことだった。
 しっかりと組み上げられた入り口に扉などはなく、彼女がであったのは、突然ぽっかりと空いた黒い穴だった。
 彼女は陽光に慣れたまなざしで中の暗がりに目を凝らした。
 おそらく、これが第一の間だ。
 トゥースの塔には、中に三つの部屋があるという。
 それぞれに何があるのか、あるいは何がいるのかは、塔を制覇して生還した巫女のみの知ることだ。そして、巫女となったものが塔の内実を語ることはけしてない。後継者のために、踏むべき手順を言い残しているだけだ。
 彼女はそのあらましを、ルカと真実を判定する審判師からと、二度聞かされていた。
 彼女はそろりと影の中にサンダル履きの足を踏み入れた。
 細かい砂でざらざらとする石床の上に、壁に手を這わせながらゆっくりと歩を進める。ほんのすこし内部に入ったところで、目が慣れるのを待った。
 とどまったのは、正解だった。
 陽光のさえぎられた塔の内部は、おどろくほどひんやりとしていた。
 だが、完璧に閉ざされていると想像していた闇の淵には、わずかに光のしずくが漏れこぼれていた。光源を求めて視線をあげると、そこには、いましがた別れを告げたばかりの青い空と太陽が、円形にひらいた天井を通してまばゆく輝いていた。
 彼女は息を呑んですぐさま視線を落とした。
 埃にまみれた足の先には、奈落の闇が口をあけている。そのまま踏みだしていたら、まっさかさまに転落していたにちがいない。
 内壁にはうっすらとした陰影とともに、階段が縄のように這いながら上へとつづいているのが見えた。
 外壁のものよりわずかに幅広だが、おなじように古びて輪郭のくずれた石段が。
 信じられないような心持ちで、彼女は階段を眺めていた。
 だが、休むことができないからといって、ひきかえす気持ちは湧いてこなかった。
 もしかすると、なにか恐ろしい試練が待っているのではと、魔物があらわれて死に至るような苦痛を味わうことになるのやもしれないと、内心ずいぶんと怖れていたのだ。
 だが、現実はこんなものなのだろうか。
 塔の内部は、風の通りすぎる音が聞こえるだけの、がらんとした何もないところだった。
 途中まで同行してきた隊商で男たちにさんざん吹き込まれた塔の怪異は、どうやら存在しないらしい。
 いっそ、魔物がほんとうにいてくれれば、彼女もろとも悩みも消え失せたかもしれないのに。
 ただ、彼女が疲労困憊して踏み越えてきた石段のつらなりは、これからもまだ延々とつづいているようだった。
 あるいは、この足の痛みと落下への恐怖が、試練そのものであるのかもしれない。
 いつしか彼女は、断固とした足どりで塔の頂上をめざしていた。

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