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エピローグ



 厩は馬や乾草や飼い葉の匂いにみたされていた。
 ところどころに吊り下げてあるランプには明かりがともっているのに、人気はない。
 どうやら、馬屋番は仕事を放り出して遊びにいってしまったらしい。
 支配者の婚礼を祝って、街中がお祭騒ぎだ。
 今夜は無礼講ではめをはずすのだろう。おとなしく馬の世話なんぞやっていられないという心境なのだろうが、厩に火は厳禁だ。
 馬は人間たちの不始末を気に留めることもなく、黙々と夕食をとっていた。ときおり妙ににぎやかな人間の住居が気になるのか、鼻を鳴らしてみる馬もいたが、厩はおおむね静けさを保っている。
 迷路のような館を歩きまわって迷子になるのではないかと恐ろしくなったときに見つけたなじみの空間に、アマリアは安堵のため息をついた。
 すこしようすをうかがって、だれもいないことを確かめると中にもぐりこんだ。
 馬たちは見知らぬ人間の侵入にいっせいに神経を磨ぎすませたが、中の一頭がアマリアを主人とみとめたためか空気はやわらいだ。
 アマリアは栗毛の馬に駆けよった。
 フリストは一緒に連れてこられたイニス・グレーネの他の馬とまとめられて、新しく作られたらしい区画に入れられていた。手入れはよくされているようで、どの馬も毛並みがつやつやとしている。
 鼻面をおしつけてくる大きな動物をなでてやりながら、アマリアは落ち着いた黒目がちの瞳をながめた。フリストは人参か砂糖のかけらはないかとさぐっていたが、なにももっていないとわかっても邪険にはしなかった。
 エセルが彼女の代わりに征服者に身を投げ出しにいった後で、アマリアはイニス・グレーネからついてきた使用人たちの眼をかすめて部屋を出た。
 それから婚礼の宴に酔うレーヴェンイェルムの館をさまよい歩いた。
 目的があってのことではない。部屋にひとり隠れていることに耐えられなくなったのだ。
 暗闇にとり残されれば、自分の代わりに責め苦を受けているエセルのことを思わずにはいられない。
 なんという自分勝手なまねをしたのだろう。
 レーヴェンイェルムの殿が怖いなど、イニス・グレーネの世継の口にすることではない。それは敗北を完全に認めることだ。
 だが、アマリアは認めてしまったのだ。
 彼女は弱音をはいた。もう限界だと声高に訴えて、助けを求めさえした。
 決然とした意志を秘めてゆるぎない年上の女の顔に、彼女はみずからの未熟を見せつけられた。救われたという安堵とともに。
 神殿における儀式が過去に遠ざかり、気が遠くなるほどの興奮が次第に醒めてくるにつれ、自分の弱さと愚かさがよくわかった。
 レーヴェンイェルムの殿から逃れるためにエセルを生け贄にさしだした。自分のしたくないことを、命じられれば逆らうことのできない弱者に押しつけたのだ。
 やさしく慰めてくれるのをいいことに、とりすがって泣きながら相手が言いだすのを待っていたような気がした。かわいそうな姫君に哀れみを覚えてくれることを願っていたような気がした。
 エセルが代わりを申し出ることを、心のどこかで期待していたのだ。
 運命をまっすぐに見つめるエセルのまなざしの前で、自分の卑劣さが恥ずかしかった。
 だからといって、これからレーヴェンイェルムの前に進み出て、名乗りを上げる勇気もない。
 よし褥までゆきついたとしても、レセニウスの短剣であの男を殺すことなど、できようはずもなかった。それをしたら、イニス・グレーネは破滅する。
 ならば、このまま静かに夜を耐えしのばなければならない。それはアマリアにとっては過酷な体験だった。
 自分は、いつからこんなに卑怯でよわい人間になってしまったのだろう。
 暗闇をさまよい歩きながら、アマリアは自分の居場所はもうどこにもないのだと思った。
 侍女の服を身につけて髪をふたつのおさげにした娘の姿が、祝いを楽しむ人々から怪しまれる気づかいはなかった。
 控えの間にいたイニス・グレーネの人間をやりすごしてしまえば、地元のものたちはアマリアの顔を見たことがない。広間や館の前に張られた天幕にもうけられた祝宴の会場を行ったり来たりしている侍女は大勢いたから、通りすがりの者は彼女もそのひとりぐらいにしか思わなかったのだろう。
 それでも見つかったときのことを考えて、アマリアは人気のないほうを選んで歩いていった。
 館は古い石造りのもので、ところどころ、建て増しがしてあるらしく、おそろしく入り組んだ構造になっていた。
 すこし行ってはひきかえし、右に曲がり、左に折れしてゆくうちに、使用人の区画に迷いこんでいることに気づいたが、無理に部屋に戻ろうとは思わなかった。
 冷えた大気と夜のかすかに湿った風とが戸外の存在を思い出させ、どうしても建物の外に出たくなってそのまま歩きつづけた。そして、かなりの時を費やしたのちにたどりついたのが、厩だった。
 アマリアは小馬のときからの相棒であるフリストに会って、ほっとため息をついた。
 繻子のようになめらかな肌の感触に心をあたためられながら、ひとつ角の神のことと、黒髪の従兄のことを同時に思った。
 あれは本当は夢だったのだろうか。うつつだったのだろうか。
 クレヴィンはいま、なにをしているのだろう。
 どこにいるのだろうか。彼女のことを思ってくれているだろうか。
 枯れてもおかしくないほどに泣きつづけたというのに、涙がまたもやにじみだしてくる。
 嗚咽がもれそうになり、それは静かな闇の中で場違いに大きく聞こえた。
 こんなところを見つかったらとあたりに注意をむけたとたん、人の声が近づいてくるのに気づいてアマリアは息をころした。
 ふたりか三人か、連れだって酔いを冷ましにきたものだろうか。喉が焼けてかすれ声の男たちの会話がとぎれとぎれに聞こえてくる。
 次第に厩のほうによってくる気配にアマリアはあわてた。
 厩にいるのは馬屋番。侍女がいるのは館の中だ。見つけられたら咎められないまでも不審に思われるにちがいない。
 アマリアはフリストのいる枠から出て、ランプの明かりが届かない壁際の陰に身をひそめた。念のためにと懐に隠した短剣の柄に、すぐに抜けるようにと手を添える。
「忘れることですよ、それしかありませんて」
 外の声が急に大きくなった。逃げたつもりでかれらの居場所に近づいていたらしい。
 アマリアは驚きながらも耳をそばだてた。そのとき、別の男が答えるのが聞こえた。
「おまえごときが口をはさむようなことじゃない」
 息がとまるかと思った。この声には聞き覚えがある。
 咎められた男がなにやらぶつぶつと文句を言っていた。それにかぶさるようにさきほどの声がどなりつけた。
「いいから、おまえは飲んでこい」
 おそらく主人が宴席を中座したのに不満ながらも従ってきたのだろう。怒られた男は「いいんですか」と喜びを隠さない。
 いさんで駆けもどろうとするところをもうひとつの声が釘を刺した。
「飲みすぎるなよ。あすは帰るんだからな」
 不機嫌な声を聞いて、アマリアは身を硬くした。語尾を乱暴につきはなすようなしゃべり方は耳慣れたものだ。
「クレヴィンさまも、もう戻られたほうが」
 この声はクレヴィンの従者のアルベスだ。忠告めいたことを言われて不愉快そうに口をとがらせるクレヴィンの姿が目に見えるようだった。
「言っておくが、おれはなにも気にしちゃいないんだからな」
「わかってます。あすは強行軍になりますから、もう休まれたほうがいいのでは」
「おれは年寄じゃない。休みたいなら勝手に休め」
「クレヴィンさま」
 とがったやりとりのつづいた後、しばらく沈黙がつづいた。
 それから小石が石壁にぶつかったような音が響いた。腹いせに石を蹴りとばしたのだろう。どちらがやったのかは、見なくても想像がついた。
 あきらめたようにクレヴィンが言った。
「わかったよ。部屋に戻る」
「はい」
「そのかわり、どこかから酒壼を持ってきてくれ」
「はい」
 アマリアは厩の壁に隠れたまま、身うごきもできずに遠ざかる足音を聞いていた。
 飛びだして抱きつこうと思えばできるのに、なぜだか立ちあがることさえできなかった。
 すぐそばにいる。
 けれど、遠く隔たったところにいたときよりも距離を感じた。どうしてこんなことを思うのか、理由がわからなくてせつなかった。
 クレヴィンと従者の気配は去っていってしまった。
 夜風が厩を通りぬけ、油の切れたランプが消えた。
 乾草の匂いがただよう闇が馬たちのねぐらを侵しはじめていた。宴のにぎわいが風に乗って漂ってくる。笑い声、歓声、歌人の朗ろうとした声がどこか遠くの至福の国から聞こえてくる。
 このまま、どこかへ行ってしまいたい。
 アマリアは涙をぬぐって隅から這い出ようとした。
「だれだ」
 アマリアはびくりと顔をあげた。
 戸口に人影が立っていた。こんなに近くにくるまで、どうして気づかなかったのだろう。
 誰何する声にはかすかな緊張があったが、慎重で落ち着いていた。人影はゆっくりと歩いてくる。背の高いすらりとした若い男だということがほどなくわかった。
 緊張とおそれのあまり身動きのできなくなっていたアマリアは、男が手の届くところまでは近づいてこないことに気づいて、すこしばかりの平静をとりもどした。これだけ離れていれば、なにかされそうになったとしても逃げだすことはできるだろう。
「こんな時間にここに人がいるとは思わなかった。おまえは何者だ。ここでなにをしている」
 男は非難するというよりは不思議そうにアマリアを見ていた。
 答えに窮したアマリアは、立ちあがって姿勢をただすとただ相手を見つめかえした。男はその様子を見てふいに表情をやわらげた。
「イニス・グレーネから来た侍女か。もう故郷が恋しくなったのか」
 アマリアは思わずくちもとを手でおおった。まぶたが腫れているのに気づかれたのだ。
 差恥に顔を赤らめている娘をそのままに、男は厩の奥へ入っていった。鹿毛の馬に短く話しかけて首をかるく叩いている。馬は男に馴れているようで、反応はごく親しげなものだった。
 アマリアはそっと移動しながら、男のうごきが見えるところを探した。そのうち男は馬に馬具をつけはじめた。ちょうどフリストの枠がいい位置にあったので、アマリアは愛馬によりかかるようにして男の手際を観察した。
 男は黙々と作業をしていた。うごきに無駄がなく、馬に負担をかけるようなこともない。すべての作業を無意識にしているようなよどみのなさにアマリアは心ならずも感銘を受けた。ドゥアラスの館の馬丁頭といっても通るほどの腕前である。
 そのうち、男はアマリアの存在を忘れてしまったようだった。
 はみの具合や鞍の留めつけ具合を点検するうちに、何度か視界に入ったに違いないのだが、無反応で通りすぎてゆく。
 アマリアはすこし身体から力をぬいた。
 こんな時間になにをしていると問われたが、この男こそなにをしているのだろう。
 見たところ、馬丁や厩番には思えない。いでたちは騎士か、騎士見習いの従者のものだ。羽織ったマントの下から腰には短剣が下げられているのがかいま見える。
 それだけの資格があれば、館の宴に出席するには充分のはずだ。なぜ、祝い酒を飲みにゆかないのだろう。
 さらに目を凝らしてみると、男はなにか考え事をしているように眉を寄せていた。有力者の子弟らしい上品な顔立ちをしているのだが、まなざしに楽天的なところがない。剛胆な戦士というより、どちらかというと思いつめた神官のように見える。
 アマリアはぶしつけに男をながめていたことに気づいたが、すぐにひらきなおった。
 自分がなにをしていようがだれも気にはしないだろうという、不敵で投げやりな気持ちがめばえていた。自分はもう、かつてのアマリアではない。厩の暗さのせいで大胆になっていたのだろうか。イニス・ファールの男に対して失礼なことをしてやりたい気分でもあった。おそらく、男はアマリアがいたことなど、とうに頭の中から消し去っているのだろう。とるにたりないことなのだ。イニス・グレーネの侍女のことなんか。
 点検を終えると男は手綱をもって馬をひきだした。馬は素直に言うことを聞き、ゆっくりと厩の外にむかった。
 アマリアは後を追って戸口に走ってゆき、そこで男が鐙に足をかけ、身軽に馬の背にまたがるのを見た。
 こんな時間に馬を走らせる気かといぶかっていると、そのまま走り去るかと思われた男がふりかえった。
「いつまでもここにいると風邪をひくぞ。明け方はとくに冷えるからな」
 よく通る澄んだ声が、藍と黒の斑の空の下に響きわたった。
 馬の息も男の息も、ほのかな月明かりの中に白くうすくひろがっていた。
 ふいをつかれているうちに、男は馬の腹をかるく蹴って飛び出してゆき、その姿はすぐに闇にまぎれてわからなくなった。
 蹄の音が遠ざかってゆくのが聞こえる。
 男はどこへ向かったのだろう。
 めざす先を思い描くことは、彼女にはできなかった。
 ここはイニス・グレーネではない。そのことが、アマリアの胸のなかに、しんと刻まれた。
 ここにいるのは彼女ひとりだ。
 アマリアは頬を両手で覆いかけ、冷えた感触に我にかえった。〈完〉



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