アーン・アナイスのレーヴェンイェルム家の一室が、名目上は妃となったアマリアのために用意されていた。
西向きのこじんまりとした居心地のよい部屋で、しかし、花嫁はやがて訪れる夜の闇をおそれて泣いていた。
格子窓からさしこんでくる雲間からの夕焼けの光が、意地悪くアマリアの泣き腫らした顔を照らしている。
「気をお鎮めになってくださいな」
エセルは寝台に浅く腰かけて、横になったアマリアの肩をそっとなでた。
アマリアはかすれた声で訴えた。
「こわいの」
「アマリアさま。レーヴェンイェルムの殿はならず者ではありませんよ」
なだめることばもそろそろ底をつきかけていた。エセルは辛抱強く言い聞かせつづけていたが、アマリアのこわばった心にはなんの効きめもなかった。
「盗賊とイニス・ファールのやっていることはおなじよ」
「アマリアさま」
「どっちもわたしを好きなわけじやないわ。女でありさえすればいいのよ」
そう言ってアマリアはくちびるを噛み、おそろしいものを思い出したかのように身体をふるわせた。
「絶対に行かないから。あんな男のところになんか」
つぶやく少女に――そう、アマリアはまだ少女にすぎないのだ――エセルはため息とともに言った。
「それでは、ここまでやり遂げた儀式が、すべて無駄になってしまいますわ」
暗に彼女を頼りにしている者の存在を匂わせて、義務感を目覚めさせようとするのだが、アマリアは反応しなかった。
「どうしてもと言うのなら、短剣をもっていくわ」
思いつめた青い顔でアマリアは宣言する。エセルは不安になった。
「いけません。命を粗末にしては――」
「殺してやる」
榛の瞳に殺意がひらめくのを目撃してエセルは息を呑んだ。
これまでかかえてきた不安は、的中したと言ってよいだろう。
いまのアマリアに初夜を耐え忍ぶ気力はない。
蒼白な顔は見るも哀れなほどにおびえきり、反対に瞳は極度の恐怖にぎらついている。婚礼の儀式で自制心をつかい果たしてしまったのだ。
このまま初夜の褥に行かせたら、とりかえしのつかないことになるかもしれない。
ささくれだったアマリアの顔を見ていると、そんな不吉な思いが胸をよぎった。
黙って泣き寝入りするような姫君ではないのだ。衝動にまかせて髪の毛を切り落とした前例がある。
異常に昂ぶった感情をかかえたままで恐怖の対象とむきあったら、なにをしでかすかわからない。
もしこの婚儀が不成功に終われば、イニス・ファールは和議を不成立とみなして態度をかえるかもしれない。お館どころか姫君まで虜にされてイニス・グレーネは窮地に陥るだろう。
それでなくともいまのイニス・グレーネにディアドレの裔と相対する力はない。身代わりまでたてて遂行しようとしたことが、すべて水泡に帰すことになってしまう。
エセルは眼を閉じた。
怖れていることではアマリアにひけはとるまい。
イニス・ファールの悪鬼が彼女を犯したのは、まだ十にも満たないときだった。あの時の恐怖は、十年たったいまでも焼けつくように痛む。
けれど耐えることはできるだろう。彼女は小娘ではない。たったひとつの出来事でたちなおれないほどの傷を負うことはもうないはずだ。
あのとき死ぬしかなかったはずの彼女の運命にべつの道を開いてくれた人物のためにも、かれの忘れがたみのためにも、彼女自身の恨みをはらすためにもこの婚儀は成功させなくてはならない。
そっと手をにぎられて、アマリアは侍女を見あげた。
「私が代わりにまいります」
なにを言われているのか理解できずにぼんやりしたアマリアは、一瞬後、眼を大きく見ひらいた。驚きと安堵がすぐに懸念にかわるのが手にとるようにわかる。
エセルは安心させるためにもう一度くりかえした。
「面衣を被ってゆけば大丈夫、わかりません。アマリアさまの顔を存じあげているのは、私どもだけですから」
それに暗闇の中で顔を見られる気づかいはない。
エセルは自分に言い聞かせながら、なんの苦労もしたことのないやわらかな手の感触に、ひるんでいた。この手の代わりになりおおせることができるだろうか。
まとめて上げてあった髪を解き、アマリアの夜着を身にまとって出てゆく前に、アマリアのためにつくってあった蜜湯を飲んだ。
薬の味はかすかな苦みとして感じられた。
恋人の不安も故のないことではなかったわけだ。
エセルは心の中でジァルに詫びた。現実には、これから起こることをかれに告げることなど、けしてないだろうけれど。
夜の儀式の進行役が扉をたたいて合図をした。
部屋を出ようとするエセルに、かわりに侍女の服を身につけたアマリアが後からだきついた。
すでに宵闇の藍に沈んだ世界に、かすかに香のかおりが漂う。
背中に感じるあたたかみに、息がとまるようないとおしさを感じて彼女はとまどった。
アマリアは小さな声で耳元にささやいた。
「……」
それは詫びの言葉だっただろうか。
年下の少女の手をちからづけるようににぎりしめると、エセルはレーヴェンイェルムの殿の待つ新婚の褥へむかって、歩きはじめた。