翌朝、フィアナは鎧戸を叩く雨音と雷鳴で目を覚ました。
握りながら寝た小さな革袋の紐を、首から宝玉のない金鎖のうえにかけると、寝台から乗り出して隙間から外を覗いてみる。
やはり天候は回復していない。風は唸り声をあげ、雨脚は弱まるどころかさらに激しさを増している。
夜のつづきのような薄暗い主室に一行を集めた聖騎士は、出立を翌日へと伸ばすと宣言した。
「この天候で馬を走らせるのは危ない。追っ手も休まざるを得ないだろう」
そして扉のほうを見てぼんやりとしていたフィアナに告げる。
「六の巫女。あなたにはこれを機会によくよく休んでおいてもらいたい。なにか希望があればできるだけ善処するが、何かやって欲しいことがあるかな」
自分に話しかけているのだとようやく理解して、フィアナは無理矢理意識を戻した。しかし思考が言葉に追いついてゆかない。
「……とくに、ないけど……」
返答を濁しかけると聖騎士の笑顔に迫力が増した。あわてて具体的な要望を考えてみようとする。するとくぅと腹が鳴った。
「……お腹が、空いたかも……」
一瞬後、我に返って赤面したが、ほかの二人はなるほどという顔だ。
六の巫女がいつも空腹をかかえていることはすでに一行にとっての常態であり、特別なことでも何でもないというわけだ。
階下の食堂兼酒場にところを移すと、フィアナは窓際、炉端、カウンターと視線をめぐらせて、あれ、と思う。
「なにを探しているのかな」
問われて思わず首をすくませたところで、店のあるじが朝食の注文取りにやって来た。
追求をまぬがれたフィアナは、今度こそゆっくりと周囲を見まわしてみる。
午前中の食堂に人影はまばらだった。悪天候に新たな客はなく、出立を延期してまだ休んでいるものも多いのだろう。それほど広くはない空間は昨夜とおなじように暗かったが、おなじ場所とは思えぬほど閑散としている。わずかにいるのは巡礼客のみで、かれらはつつましく静かに食事を口に運んでいた。
フィアナはそっと息をついた。安心したような残念なような、拍子抜けしたという思いがする。
それでも、大量の朝食が卓子の上に運ばれてくると、ほかのことはどうでもよくなった。
腹の虫の命ずるがまま、視覚と嗅覚と触覚と味覚を総動員して、フィアナは食べ物に集中する。
聖騎士の選んだ宿の料理はどれも美味しく、これまで外れたと思ったこと一度もなかった。おかげでフィアナの腹の虫は非常に満足させられており、いまやますます旺盛だ。
そもそも、フィアナは食事中は食べることに一心不乱になり、ほかの物事が目に入らなくなるたちだ。幼い頃からそういわれてきたし、自分でも自覚している。
だから驚いた。
なにが驚いたかといって、料理の置かれた卓子に暗い影がふいに落ちかかってきた、そのことに自分が気がついたということにだ。
そして、落ちてきた影に気づいたら、影のあるじが脇にぬっと立っているのにも気がついた。
いつのまにやってきたのか、いや、そういえばいつから席を外していたのか。
まるでかれ自身が影のような姿を呆然として見あげると、若者はざんばらな前髪の奥の真面目な顔をくずさず棒読みの報告をした。
「聖騎士。歌びとは厨房に寝床を与えられたそうだ」
「そうか、まだ寝ているのか」
予想外の人物に関する話を驚きと感じる間もなく、答えは返る。
「さっきまでは寝ていたが、そろそろやってくる」
そうしてルークのふり返った先を見ると、竪琴を抱えた男がちょうど姿をあらわしたところだった。
寝起きのようにけだるげに食堂の隅に腰を下ろそうとしていた痩せた中年の男は、大股に歩みよる聖騎士の勢いにぽかんとして足を止めた。
「やあおはよう、歌びとどの。ご機嫌はいかがかな」
陽気に話しかけた聖騎士はいつものように好き勝手に話を進めていき、相手を見事にからめとった。罠にかかった相手はあっという間にカーティス・レングラードという名の濁流に呑みこまれてしまう。
いきなりの展開に目を白黒させている歌びとをハラハラしながら見守るうちに、その流れはいつのまにか自分たちのために竪琴を演奏してくれないかというこれまた自分勝手な岸辺にたどり着いていた。
「騎士さま、申し訳ありません。私はいまは……」
困ったような腰のひけたいらえをする歌びとだったが、相手に合わせて、はい、そうですかと引き下がる聖騎士ではない。
「ああ、もちろん今でなくともよい。我々は今日一日暇なのだ。いくらでもそなたの都合にあわせよう」
譲歩できるところは譲歩する。いくらでも別の選択肢を用意する。ただし、あくまでも最後の一線だけは譲らない。
そのことを察して観念したのか、放浪の歌びとももう無駄なあがきをすることもなく、ひかえめな笑顔とともに喜んでと受諾した。
すこしはにかむようなその態度は、歌びとの素からの性格のあらわれらしい。
こんな内気そうな質でよくここまでやってきたものだと店のあるじが漏らすのに、フィアナは考えをめぐらせる。
人前でみずからを売り込まねばならない生業には、見知らぬ者を恐れないふてぶてしさのようなものが必要なのかもしれない。たとえば、そう、聖騎士カーティス・レングラードのようなゆるぎない自信とか、相手かまわぬ押しの強さとかだ。
とりたてて眼をひくところのない、放浪の楽人の衣装がなければどこにでもいそうな容貌と体格の、若くもなく老いてもいない、会ってもすぐに忘れられそうな歌びとがこんな奥ゆかしい性格では、それは毎日が苦労の連続であるような気がする。ちゃんと毎日食事が摂れるだけ稼げているのだろうか。聖騎士の隣にいるとさらに貧相に感じるからだつきを見ると、そんなことまで思ってしまう。
しかし、ひとり勝手な同情は午後になると消しとんだ。
地味な歌びとのもつ技巧は、驚くほどに高いものだったのだ。
竪琴をあやつるほそい指は自由自在。
ゆるやかに流れるかと思えばかろやかに跳びはねる。
くっきりとした輪郭をもって響くのが身上の弦の音は、外から叩きつける雨粒にも負けず、律動的で華やかな楽曲をいきいきと奏でていった。
「すごい……」
長く速い旋律を高みへと、ひといきに駆けあがった後の楽人の晴れがましい姿に、周囲は惜しみなく拍手を贈った。
「これは素晴らしい。これほどの弾き手には都でもお目にかかったことはないよ。そなたはいにしえのグローズデリアの宮廷に招かれても恥ずかしくない芸術家だ。楽人どの」
「……恐縮です」
感激した大男に肩をわしづかまれて、歌びとは笑みを固まらせた。まるで大型の肉食獣に目をつけられた鹿のように見えるのは気のせいだろうか。
いっぽう、聖騎士は相手の都合など委細かまわず満面の笑顔である。
「謙遜することはないぞ。これだけの技術と歌心を神はそなたを選んで授けられたのだ、誇りにおもうべきだよ。私はこれでも耳がいいんだ。聖騎士団で楽隊の指揮を執ったこともあるんだから。なあ、フィアナ?」
「へっ、そうなの?」
そんなことは初耳だ。
「そうなのだよ。これは我らの血筋だ。姉上も楽器をよくされたし、歌がとても好きで上手かったのだよ」
「私の母さまが?」
「そうだよ、あなたとおなじようにね」
ささやくようにほのめかされて、フィアナははっと胸を押さえた。
笑いながら聖騎士は言う。
「ああ、わかっている。巫女はうたわないのだったな」
「……その通りです」
それから歌びとは、ひとびとの要望をうけ、フィアナはよく知らないものの皆に親しまれているらしい曲を奏でてくれた。
明るい曲、楽しい曲、踊る曲、心にしみいる曲。
どれも小品だったが、たゆたうような旋律、もの哀しい旋律、胸躍る情熱のこもる旋律、心洗う美しい旋律は、一級の楽人の手によって磨きあげられ、より鮮烈に響いた。
天候は荒れつづけていたが、食堂のランプや炉端の火灯りのゆれるもと、楽人をかこむ聴衆の脳裏には楽の音の生み出すさまざまな物語が現れては消え、陽の光や風のさやぎが通りすぎ、笑いやささやきかわす声が生まれ、居合わせたものたちはひとときの幸せな偶然をともに味わった。
ひとつだけ気になるのは、歌びとが一言も歌をうたわないことだ。
どうしてだろう。たしかに昨夜はうたっていたはずなのに。フィアナはすでに部屋にひきあげていたから、間近に聞いたわけではなかったが。
疑問に思っていると、宿のあるじが軽食を運びながら答えをくれた。
「ああ、申し訳ありませんねえ。どうやら風邪をひいちまったようなんで」
雨にうたれたせいで歌びとは喉を痛めたらしい。話すぶんにはかまわないのだが声を張ると枯れるという。だから始めはこの依頼自体を断っていたのだ。
それから喉の痛みにはなにそれが効くという客の世間話がはじまり、その影でフィアナは長テーブルにそっと手を置いた。
身体ではまだ、音が鳴っている。
あの律動をあの響きを、身のうちに留めずおくことがどれほど難しいことか。
幼いころ幾度もたしなめられたことを思い出しながらも、――あれはモードとの大切な思い出でもあるのにどうしてこんなに苦しいのだろう――知らずに指で拍子をとるように天板を叩きそうになって、あわてて手を押さえ込んだ。
するとすぐ隣から低く声がした。
「六の巫女」
「なによ」
フィアナは黒髪の若者から思わず身体をひいた。
いつもこうだ。ルークは普段いるのかいないのかわからない。なのに、すっかり忘れているときに突然間近にに現れる。
そして問う。真顔でだ。
「どこか苦しいのか」
「は?」
「具合が悪いようなら部屋で休んだほうがいいのではないかと思うが」
気遣わしげだと聞こえなくもない落とした声で、ルークは淡々と訊ねてくる。
フィアナは困惑しながらもつられて小声で応える。
「なんで私の具合が悪いと思うの?」
「ずっと唸っていただろう」
はっと気づいた後でばたりと倒れてしまいたくなったが、黒いざんばら髪からのぞく闇色の瞳はまっすぐだ。
「唸ってなんかないわよ、あれは……」
とつづけようとして、まずいと言いさしたことをねじ曲げる。
「……きっとなにかの聞き間違いでしょ」
「いや、六の巫女のだ。ひょっとして花摘みに行きたいのか?」
「なんでそういうことになるのよ!」
いきなり声が高くなってしまった。周りの視線に顔に血がのぼるのが自分でもわかる。
しかしルークはあくまでも真面目だ。
「昨夜、六の巫女が言っただろう。あのときしていたのは花摘みだったと」
なにを言うの、と叫びたくなったが、確かに昨夜自分はそう言った。
昼休みにしていたのはあくまでも花摘みだけだと、そう言った。
だが、ルークの言ったようなつもりではなかった。フィアナは自分は歌などうたっていないと主張したかっただけだ。なのに、どうしてそういうふうに理解するのだ。いや、誤解するのだ。
「あなた、ものすごく間違ってる」
「いや、間違いではない。巫女がそう言ったのだ」
「まあ、いやね。そっちこそ冗談言わないで」
「冗談ではない」
そう、真剣なのだ。
だからこそ、始末に負えない。
痛くなってきた頭を押さえてなんとか自分の守護騎士から逃げ去ろうとしていると、背後からゆがんでくぐもった低い声が響いてきた。
ふり返ったフィアナが発見したのは、はじけそうな笑いを周囲に悟られまいと必死でこらえている大柄な男の姿だった。
「……それはな、ルーク。唸り声ではない、鼻歌というものだ。楽曲にあわせて口をひらかずにうたう、ひとつの歌唱法だな……うむ」
聖騎士の、呼吸不全ながら意味は明快な解説に、若者はフィアナにむけるまなざしを問うように変化させる。
フィアナは顔を背けるしかない。
聖騎士の言葉はこわばる背中におだやかだった。
「いい加減に認めたらどうかな、我が姪御どの。歌が好きなら好きで、そんなに我慢をすることはないだろう」
からかう気配のない声が、こころに静かに響きいる。
「うたいたいのなら、うたうがいい。心の命ずるがままに。過去と決別し、あらたな自分になりたいと言ったのはあなただっただろう?」
出会ったときに初めに問われた旅立ちの心根を問いなおされて、フィアナは喉が熱くなる。
「……でも、モードは絶対にダメだって」
モード・シェルダイン女官長は、宝玉の巫女としてのふるまい方を一から仕込んでくれたひとだ。その言葉は絶対に正しく、ときおりずるけることはあっても逆らうことなど考えたこともない。
それに、フィアナは巫女の地位を下りたいと願いはしたが、現実に下りるための手続きを踏んでここにいるわけではない。いまだに胸には神の宝玉の一部を抱えたまま、勝手に神殿を出てきてしまったようなものなのだ。
としたら、女官長の言いつけはまだ、有効なのではないだろうか。
不安に迷う少女に、聖騎士は意外なことを指摘した。
「シェルダイン女官長がこだわったのはあそこが神殿だったためではないかな。役割上の体面を保つ制約というやつだ。巫女は神殿で神のためだけにうたうものだといわれれば、まさしくそのとおり、正論だ。だがここは神殿ではないし、あなたも巫女としているわけではない。女官長もここにはいないだろう?」
と、意外なことを言い始める。
顔をあげると、夏の空色をした聖騎士の楽しげな眼と眼があった。
「……ここでうたってもモードにはわからない……?」
おそるおそるの問いに返ってきた大きな肯定の笑みに、どきどきしてしまう。
なんだ、巫女でもうたっていいのか。神殿でないところであれば。
それならばそうと、初めから言ってくれればよかったのに。
一瞬不満が頭をもたげるが、フィアナが神殿以外の所にいるのはこれが初めてのことなのだ。新たな状況に対応できず、視野が狭いままでいたのはフィアナのほうであって聖騎士ではない。
さすが年の功というのだろうか。こうした正論に正面から立ち向かわない方法をどこで学んだのかは知らないが、叔父のつねに悠揚せまらぬ態度の源は、もしかするとこんな視点からきているのかもしれない。
いずれにしろ目から鱗が落ちた。
自分はうたってもよいのだ。
すっかりよい心地で、さあうたうぞという気分になったフィアナは、そこでおのれの守護騎士の闇色のまなざしと出会い、ふと現実に立ち戻ってつぶやいていた。
「私……歌の歌詞をぜんぜん知らないわ」
眠りから覚めた黒髪の若者は、音もなく部屋を出ると階段を下り、旅籠の裏へと向かった。
藍色の雲間から紅の薄日の射しこむ、晴れの予感を漂わせる明け方だった。
大気は降りつづいた雨に洗い流されており、湿り気を帯びているが冷たく新鮮だ。
すでに仕事を始めていた厨房に携行食の用意を頼むと、人目につかない場所でしばらく身体を動かしたのち、若者はおもむろに厩へと足を向けた。
二日前に預けた二頭の馬は、若者相手にふた通りの反応を示した。
聖騎士の鹿毛からは親しみのこもったふれあいを、自分の黒毛からはさんざんな仕打ちを。預けっぱなしでかまってやらなかったから、というわけではなく、これが黒毛とかれのいつもの挨拶なのだ。
若者はふりみだされたたてがみから覗く高慢な漆黒の瞳をじっと凝視める。
この馬がかれの護る巫女に執着する理由は何だろう。
いままでは思いいたらなかった疑問が突然浮かびあがったのには、昨日の出来事が関係しているようだった。
変化は、自分ではなく六の巫女のほうに現れたと、若者は感じている。
悪天候がもたらした予定外の独演会はほどなく終わりを迎えた。
惜しげなく技を披露した歌びとにひとびとは心からの讃辞を口にし、報酬として思い思いの贈り物をした。
結果として歌びとはその夜の宿として二階の一部屋を手に入れたうえ、豪勢な夕食に招待されることになった。
招いたのは聖騎士で、客人には体調を気づかって消化のよいものをと心を配る年上の男は、都でも幾度か見たことのある心ゆくまで楽しんだあとの満足そうな顔をしていた。
その後、歌びととの歓談は情報収集の場となった。様々な土地を放浪することを生業とするものは、最近の各地の出来事に気を配っているし、ときにはそのいくつかの後日譚を知っていたり、さらには枝情報をつけくわえてくれることがあるからだ。歌びとのほうも別の土地の知識を手に入れたいという動機は一致しているから、かれらの話しぶりはかなり細部に入り込んだものとなっていった。
たしかな話しぶりに今度の歌びとの人となりを信用したらしく、聖騎士はその言葉に喜んで耳を傾け、ときに細かな疑問をはさんだり、歌びと個人の見解を求めもした。
周囲の世の中を知るものはそんなようすをなるほどと思い、自分の糧ともし、知らぬものは語られる言葉をめずらしい物語のように楽しんで受けとめているものだ。
旅籠の食堂に集った人びとは、すっかり聖騎士と歌びとを中心にうごいていた。
ただ、六の巫女だけが別だった。
少女は交わされる会話をおそらくまったく聞いていなかった。夢中で食べ物を口にする姿は見慣れているが、昨夜はそれとも勝手が違っていた。ずっとうわのそらで匙からスープをこぼしたり、ときおり深呼吸をしたり、眉をしかめてみたりと不審な行動がたてつづく。食卓で食事以外のなにかに心を奪われている少女をみたのは初めてだ。
その理由が判明したのは、歓談が一段落ついたときだった。
なけなしの勇気をかき集めたように立ちあがり、六の巫女は切り出した。
歌びとに教えを請いたいと。歌を教えてほしいと言い出したのだ。
願いを口に出したとき、ちいさな身体はがちがちに緊張してふるえていた。
歌びとは驚いたように目を瞠ったが、しどろもどろな理由の説明を聞きながら少女の顔を眺めていたかと思うと承認を得る一瞥を聖騎士に投げたのち、いいですよ、と穏やかに了承した。
それから、炉端の席ににわか師匠とその弟子の姿が出現した。
赤い火灯りを背に、風雪にさらされた衣をまとう細身の師匠は静かな顔を、奔流のごとき長い金髪を衣のようにまとう小柄な弟子は硬い顔をして。
歌びとの節くれだった細いゆびがゆるりと奏でる音に、少女は懸命に歌詞を習いあわせた。
始めたときのふたりのあいだにはいくばくかの距離があったが、とぎれとぎれにつづいた楽の音に流れが生まれるにつれてそれも縮まり、それぞれの面が明るく輝きだしたころには、そこには部外者の立ち入ることのできないひとつの場ができあがっていた。
不思議だった。
なにを不思議と感じるのかその理由もよくはわからず、若者は謎めいたここちでまどろむ気分のまま、おだやかにつづく親密な光景を見まもりつづけた。
それからだ。
少女の身のうちから滲みだすようにひろがる、かすかな力の感触が消えなくなった。
それは初めて触れるものではなかった。いままでにも一度感じたことがあるものだ。
ただ、過去のそれは瞬時の出来事で、激しく眩しい強烈な爆発ともいうべきものだった。だから、そのことをこの小さな少女と結びつけて考えてはいなかった。
そして、すでにあれは夢だったのだと思いはじめてもいた。
だが、そうではなかったのだ。
今、かれの感覚は告げているのはそういうことだった。
少女にばかり敬意をはらう黒馬は、獣ならではの賢さでこのことを見抜いていたのだろうか。
若者は、隙あらば攻撃をしかける黒馬から俊敏に身をかわし、表向き無表情のままに仕事を終えた。
頭の中でなにを思い煩おうと、身体は自動的につとめをこなしていくようにできている。
「おい、あんたあの聖騎士どのの連れだよな」
立ち去ろうとしていた若者は、声をかけてきた厩番の話題が昨日の宴のことだと知って足を止めた。
「あのお嬢ちゃんの歌はいいなあ、うん、とてもいい。なんて言えばいいのかわかんねえけど、とにかくいいよ。あの楽人の演奏もすごかったけど、お嬢ちゃんの歌にはなんてえか、しあわせな気分にさせられたよ」
相手の無愛想にも気づかない満面の笑みでそうつたえてくれといわれ、背中をぽんと叩かれる。
「都に行くと言ってたが、道中無事でな。有名な歌い手になったら、またこの町にも来てくれよ。待ってるよ」
複雑な心境になった。
六の巫女は歌い手になりたいのだろうか。
しかし、かれらの旅はそんな個人的な願いを許すようなものではないはずだ。
旅の統率者は聖騎士であり、巫女の守護騎士となったはずの若者の指揮権も、少女が無造作に預けたため聖騎士が握っている。
だから若者は聖騎士の意向に従う。そのことに変化はないはずだった。多分それは、かれらをこの旅に送りだしたアーダナの大神官――若者のかつてのあるじ――の意向を汲みとることにもなるはずだ。
だがそれは、今のあるじにとってのよいことなのだろうか。
初めて覚える疑問に、階段をのぼる足が止まる。
そのとき、階上から声がかかった。
銀の鈴をふるようなきらきらとした輝きを持つ声が、自分の略称を薄暗がりの湿った空気に響かせる。
「ルーク、なにしてるの。支度は終わったの」
いきなり現れて詰問する少女の金の髪は、強風の中で散歩でもしてきたのかと思うほど乱れまくっていた。
ブラシ片手のしかめ面には、自分なりに奮闘したつもりが成果を得ることができない事態への憤懣があふれている。
こういうときには少女を手伝うべきなのだと、最近ようやく理解にいたった若者は、そこで慣れない思考を停止した。
つとめに専心すれば余計なことをする暇など無くなる。
それからしばらく、若者が現実以外の物事と対峙することはなかった。
旅籠を発つ一行には、別れを惜しむ見送りがあった。
思いがけない時間を共有したひとびとの間には、あたたかい親近感が芽生えていた。
とくに六の巫女の、歌びとに対する名残の惜しみようはひときわだった。
わずかに一晩、歌をおしえ、おそわっただけの間にどれだけの交流をもったものか。
西へ行くという歌びとをひきとめて同行することは叶わなかったが、人見知りするたちと認識していた少女がすっかりうち解け、心をひらいているさまは同行者のひそかな驚きだった。
師匠の歌びとも同じように感じていたらしく、弟子となった少女にかける言葉は丁寧で親切なものだった。流れ者にしてはすれておらず、ふるまいも折り目ただしい歌びとだったが、事なりわいに関しては妥協のない性格らしい。ふたりのやりとりはあたかも学院の生真面目な師匠と弟子のそれのようだった。
「私のおしえたことは初歩の初歩ですよ。学ぶことはもっといろとありますが、まずは基本を反復することが肝要です」
「わかりました、練習します。どうも……ありがとうございます。昨夜はとてもためになりました」
「私のできることなどたかが知れています。望むならもっと経験を積んだ格の高い師についたほうがいいでしょう。できうることなら我が師を紹介したいところなのですが、あいにくと今どこをほっつき歩いているのかわかりません」
放浪の歌びとならばそれが普通のはずなのに、その途方に暮れた言われようはなんなのかという疑問がその場にいた全員の脳裏に浮かんだが、それも聖騎士のほがらかな問いにかき消された。
「そなたの師匠であるなら、素晴らしい楽人なのだろうな」
「それは、もう! 私などは足もとにもおよびません。なにしろ、あのかたは真の歌びと《リーヴィル》なのですから」
誇らしげに師匠を語る歌びとは、もしその人物に出会ったら自分の名前を出してくれと別れ際に口にした。
「あなたにはまさしく神の恩寵があります。お励みなさい」
この言葉に、少女はことのほか感激したようだ。
おかげで午前中の道のりは順調に過ごすことができた。
共乗りしている鹿毛の上で、蹄の律動に合わせくぐもった声をひびかせて、少女はほんとうに生き生きとして楽しげだ。ゆれる金髪までが歓喜をうたっているように見える。
そんなようすを目の当たりにすれば、保護者として叔父として嬉しくないはずはない。
それほどまでに望んでいたと知っていれば、さっさと明るみに出して許可してやったのにと、カーティス・レングラードは思っていた。
女官長の言いつけを律儀にまもっていた姪の、融通の気かなさがいじらしく、懸命にうたう姿がまた愛おしい。これは叔父馬鹿というヤツだろうかと感慨に耽る聖騎士である。
雨上がりの道は状態が悪く、さすがに速度はそれほど出せなかったが、馬もまた少女に感化されてかじつに機嫌良く走りつづけた。
おかげですこしばかり休息をとるのが遅れたが、宿の料理人特製の携行食がまた豪勢で美味かった。
高くなった陽射しを浴びてきらきらと光るのは髪だけではない。
その笑顔もまた、生の喜びに満ちあふれ輝いていた。
この娘は、やはり巫女なのだ。
その懐に神の宝玉を抱き、ときに神の器となりうる、神の娘のひとりなのだ。
いまさらながらにそんなことを考えていた聖騎士は、その守護者はと視線を移し、普段となんら変わらぬ姿に苦笑を覚えた。
「おい、ルーク。さっきから何をしているのだ?」
黒髪の若者はとうに食事を済ませ、いまはあるじの金の髪を真面目な顔で検分している。
「考えているところだ」
「何をと、訊ねてもいいだろうかな」
「はめっ!」
毛先をとって確かめだしかねない雰囲気に、ベーコンと青菜を挟んだパンを口に収めたばかりの少女が悲鳴をあげた。
いまのは駄目といったのだろう、おそらくは。
リスのように頬を膨らませた状態で顔をひきつらせた少女は、大あわてで食べ物を咀嚼し呑みこむと、若者をキッと睨みつける。
「今朝あなたに手伝ってもらったのは! あせっててうまくできなかったからで! 金輪際、こんなことは頼まないから、余計なことは考えないで、口に出したりもしないで、いいわね! って言ったじゃないの!!」
「ふうむ。ではこのみだれた原型をつくったのはおまえというわけか」
「そうなのだ。だから今、もっと形をたもつための方法を思案しているところだ」
「なるほど」
「だから、それ以上言うなと言ってます! カーティス卿もけしかけないでください!」
「だが、毎朝髪に苦労しているのは事実だろう。これはあなたのためにいるのだから、もっといろいろ使ってやったほうがいい。そのほうがはやく慣れるぞ、おたがいに」
「そんなの、騎士の仕事じゃないでしょう! だいたい身仕度くらい自分でできます!」
「そうかなあ」
可笑しそうな視線が髪に向けられるのを感じて、少女はすでに赤らんでいる顔をさらに赤くした。
「それに、これからも旅はつづくのだ。手に負えぬ事は任せたほうがよいように思うよ。現在あなたのしもべはひとりきりなのだからね。本人もべつに嫌がってはいないようだし」
「そういう問題じゃないでしょうっ!」
いきなり立ちあがったかと思うと、少女はくるりと背を向け、肩を怒らせてずんずんと歩き出した。
十歩ほど進んだところで、突然ふり返る。
「お花を摘みにいくんだから! ついて来ないでよ!!」
憤怒の背中が遠離るのを眺めていた聖騎士は、暫しののち、ほれ、と若者を叱咤した。
「あれはきちんと連れ戻してこないと、いつまでたっても出発できないぞ?」
「たしかに手伝ってもらってたわよ。けど頼んだわけじゃない、自分からするって言い出したのよ。だいたいひとの髪を整えたなんて男が口に出して言うこと? 信じられない。恥知らず、物知らず、ルークの馬鹿ーっ!!」
叫んでいるのが聞こえたのは、歩きはじめてほどなくのことだった。
休憩所からはかなり離れた草むらの影で身をひそめ、若者は少女が愚痴りつづけるのをじっと聞いていた。
罵られているのが自分であることにはむろん気づいているが、その内容についてはあまり気にとめていない。少女の言い分の根拠がよく理解できないからだ。それよりも、出ていく機会がつかめないことのほうが問題だった。
ついてくるなとはっきりと言われたのについてきたのだ。
聖騎士に従ってしたことだったが、あるじの命令に真っ向から反している事実に変わりはない。
しかも、あるじは宣言した用事をまだ終えていないらしい。
らしい、というのはただの推測であって、もしかしたら終えているかもしれないのだが、それはそれで残念だという気が、若者はしている。
終えているのであれば、堂々と姿が現せるのだからそのほうがいいはずなのに、自分は何を根拠にそう感じるのだろう。
そんなことをぼんやりと、思っているとも気づかぬままに、若者は耳を傾けつづける。
「まったくもう、なんなのよ。ひとがせっかくいい気持ちでいるところに水を差すようなことばっかり。もういい、あんなヤツ。もう絶対に謝らない。謝らないし、感謝もしない。そんなこと思ってた私が馬鹿だった。一瞬でも思ってたことに腹が立つ。ああ、もうっ、野暮で無神経で最低最悪! なんであんなのが守護騎士なの! だいたいなんであたしに守護騎士がいるの! そんなのどこに必要あるわけ! どこにもないじゃない!」
叫びの後にばさり、と音がして沈黙が訪れた。
長びく静寂に若者が身を起こして近づいていくと、草むらに仰向けに倒れていた少女が、ああ、と気の抜けたような顔をして見あげてきた。
「……やっぱり、いたんだ」
「……」
「あなたいったい私の命令をどう思ってるの」
「……」
「私があるじだなんて、本当は思っていないんでしょう」
「そんなことはない」
「だったらなんでついてくるのよ」
「……それは……すまなかった」
「謝るくらいならしないでよ。もう、守護騎士だなんてお芝居も、やめてよね」
「お芝居ではない。宝玉の巫女に守護騎士は必要なのだ」
「私は巫女でいたくないのに。カーティス卿も巫女でいる必要はないって言ったのに」
「それでも六の巫女は六の巫女だ」
「もしかして、これがあるから?」
少女は胸の真ん中を押さえてみせた。
無言の若者に少女は溜息をつき、ゆっくりと身を起こそうとする。若者はすばやく支えに入った。草露の湿った香りにつつまれた細い身体は、するりと距離をとった。
「言っておくけど、さっきのは全部本気ですからね。あなたは本当に無神経で無遠慮で無礼な人間よ……否定しないの?」
「六の巫女がそう思うのなら、そうなのだろう」
「その、六の巫女っていう呼び方、やめてほしいって言ってるんですけど何度も」
「すまない」
「なんでも謝ればいいと思ってるんじゃないわよ」
「……すまない」
謝罪の言葉しか知らないような若者に、少女はふんと鼻を鳴らしてみせたがしばらくして言葉を継いだ。
「でも……私も悪かった……のよね」
かすかにゆれる闇色のまなざしに、淡い色の瞳は空に逸れた。
「……髪で困ってるのはいつものことだし、自分では上手くできないし、だから結果的には手伝わせてたんだし。あなたはなんでも効率よくやりたい質だから、上手くいくように研究したくなったんだってことはわかる。髪結いにまで向上心をもつ男なんてかなり変だとは思うけど、それがあなたなのよね。でも、カーティス卿相手になんでも話すのはやめてちょうだい。あのひとはとんでもない面白がりやなんだから」
お願いだからと言われてうなずいてみせると、かなり懐疑的ながらもいちおう納得をすることにしたらしい少女は、それでも凝視を解かない若者に疑問を口にした。
「なあに、まだ何かあるの」
問われてつい口に出した言葉に、かれはひどく後悔することになるのだが、そのときはなぜかとても大切なことを訊ねる気持ちだった。
「六の巫女の、用事がすんでいないようなのだが、いいのか」
「用事って」
「花摘みだ」
瞬間、空気が凍りついた。
「…………カイリオンのヴェルドルーク。そこに跪きなさい」
銀の鈴をふるような、声がかれの真名を呼ぶ。
それから若者は、顔を朱に染めた小さなあるじに、花摘みという雅な言葉の現実的な意味と使用法を両の平手とともにたたき込まれることになった。
非力な少女の仕業にしてはくっきり残った赤い痕をみとめ、聖騎士はひとり馬鹿笑いをつづけ、黒馬は蔑むように嘶いた。
もうこれで何度目のことだろう。
六の巫女に非常識を叱責され、同行者の笑いものになるのも片手に余るほどに体験しているが、それが嫌だと感じる感性が若者にはない。
守護騎士として至らないところは、ひとつひとつ努力しようとつとめるだけだ。
ただ、金髪をなびかせふり返り、怒った顔でかれを盗みみる、宝玉を抱いた少女。彼女の存在が自分を現実に落ち着かせ、世界に縫いとめてくれている。
灰藍色の濃淡の波めく雲の切れ間から陽光のふりそそぐ田舎道を、かれは東をめざして駆けつづけるだろう。
蹄の律動と風の音にゆるく絡まるように響いてくるかすかな声とともに。
たとえそれが延々とおのれの悪口を連ねていようとも、聞こえるだけで心地よいと感じている。
それだけでいいと、いまのかれは思うのだ。
そんな若者の跳ねる黒馬に手こずる姿を見て、聖騎士はニヤリと笑んだ。
「さあ、いくぞ」
拍車をかけると鹿毛がいななき応える。黒毛は仕方なさげに鼻を鳴らす。
運命に追いつかれる前にどれほどの行程が稼げるかは、かれらの脚が勝負だ。
雲間をゆく鳥影は、一行を見まもるように頭上高くを舞っている。
――『天空の翼』銀の鈴ふる 〈了〉――