昼食を終えると、黒髪の若者はつと立ちあがった。無言で旅支度をととのえなおす生真面目な姿を、残りのものは当然と受けとめて無関心だ。
「ああ、美味かった」
青々とした草むらに腰を下ろしたまま、アーダナ聖騎士団の正騎士カーティス・レングラードはご満悦だ。片手に持った革袋の発酵した飲み物をのんびりと啜る宵闇色のマントの大柄な騎士のかたわらでは、二頭のこれまた立派な体格の戦馬がもくもくと草を食みつづけている。
かれらの旅の約束事は、まず第一に食事を十分摂ることだ。
移動つづきゆえにつねに居心地よくというわけにはいかないが、さいわい今日は大きく枝を差しだす一本の立派な樹にめぐり会えた。
蒼い空から降りそそぐまぶしい陽光を緑が遮り、穏やかにあたたかいその下を風がやわらかにそよいでゆく。
移動の準備がととのうまでの猶予をゆったりと過ごしていた聖騎士は、他人の労働の進捗状況を見てとると、さてと思考を切りかえ空に視線を向けた。
太陽は中天に達したばかりだが、いつのまにか風は流れる方向を変えている。この風は暗く重たい雲をはこんでくるだろう風だ。実際、空には雲が増えている。いまはまだ遠くに見える黒雲が、空を分厚い鉛色の帳で覆うのは確実だ。
経験から、そのときは意外に早くやってきそうだと聖騎士は推測する。
「これは早めに出たほうがいいかもしれぬ。すこし飛ばすか」
独りごちると、聖騎士はかつて自分の従者であり、肩書きの変化したいまもまったく同様にこき使う権利を得ている若者に、姿の見えないエリディルの宝玉の巫女について問うた。
「おい、巫女の守護騎士。フィアナはどうした」
からかい半分に肩書きを呼ぶと、いまだ従者のお仕着せをまとうざんばらな黒髪の若者は律儀に答えた。
「わからない。だが、おそらく花があるところに行ったのだろう」
花? と怪訝な顔で長めの金髪をかきあげる聖騎士に、若者はつづけた。
「六の巫女が言ったのだ。花を摘みに行ってくると」
「ふうむ。ここにも花は咲いているようだがね」
「たぶんもっと大きな花なのだろう」
若者は大真面目だ。
たしかに足もとに茂るのは牧草ばかりで、ちらほらみえる花はゆびの先程度のささやかなものばかりなのではあるが。
ふ、と笑いながら聖騎士は命じた。
「そろそろ出発だ。あとの支度は私が代わるから、ルークおまえ、フィアナを迎えに行ってこい。時間が経っているから用事は済んでいるとは思うが、不測の事態でもあれば適切に対応するのだぞ」
笑いをこらえる気配にもわずかな不信も抱かずに、若者は言われたとおりにすることにして歩き出した。
光まばゆくひろがる世界は、ひとけなく、穏やかな緑の静寂に満たされている。
やわらかな牧草を踏みつける若者のうごきは、訓練されていて音を立てない。
鳥のさえずりや風にさやぐ草の音は、大自然の静けさを破るものではなく、むしろそれをきわだたせるように遠かった。
そして、そのとき若者の耳をかすめたそれもまた、おなじ種類の音と思えた。
しかし若者は意識を耳に集めて、そのひびきを追いかける。
光の糸をひいてはじける、輝くようなそれは、かれには覚えのあるひびきだったからだ。
軌跡を追いかけてしばしのち。
青空の下に広がる草の海に、長い髪を金色の薄衣のようになびかせてたたずむ少女の姿を見つけた。
声が、天の高みで鳴る銀の鈴の音のように陽光とともに降りかかってくる。
そんな心地にひたされてしばしの沈黙をすごしたのち、ふと、若者は我に返った。
みずからの使命を思い出して足を踏み出す。
数秒後、その場には絹をひき裂くような悲鳴が大きく響きわたっていた。
(ルークのばぁか)
馬に揺られてつぶやく悪態は、ずっと同じ言葉の繰り返しだ。
忘れてしまうほど幼い頃から暮らしていた、西の果ての神殿から旅立つことすでに二週間。
母方の叔父である聖騎士カーティス・レングラードのいざないに手を取られ、夢見心地で飛び出した旅空は、世間知らずの宝玉の巫女にとって驚きの連続だった。
新しい場所、新しい景色、見知らぬひとびと、見知らぬ物事、見知らぬ匂い。すべてがめあたらしく、なにもかもが初めての体験。
石造りの仄暗い神殿の中で空を見あげて想像していたよりも、世界ははるかに広く複雑でさまざまなものに彩られた賑やかなところだった。
しかも、先を急ぐかれらに立ち止まっている暇はなく、物事は次から次へと後ろへ流れ去ってゆくのだ。
フィアナにとって、それはとても奇妙な心地をもたらした。
めまぐるしく変化する晩春の景色を風を切って走りつづける日々、胸の奥でなにかが高鳴っていることに気がつくのだ。
なぜだろう。落ち着かない。ドキドキする。身体が熱くなる。
それが驚きのためなのか喜びのためなのかは知らなかった。めまいのするような変化の連続に、けれどふしぎと不安や恐怖は覚えなかった。もっとも懸念していた馬での移動も、聖騎士がしっかりと支えてくれているからだろうか、それほど苦にはならなかった。
慣れないことをしつづけているのだから、疲れないわけではない。事実、身体はあちこちがきしんでいる。けれど、夜はきちんと寝台で休んでいたし、定期的に身体を清潔にする機会ももらってもいた。与えられた男物の服はまだ着慣れないが動きやすいのは確かだったし、その服は乗馬用に鞍に当たる部分に特別な緩衝材がつけられていた。損なわれた肌を癒す膏薬も用意してあった。空腹を満たすための食物と時間は、とくに十分にあたえられた。
さまざまな配慮を受けていて、フィアナはそのことをおおよそ理解していた。
おかげで朝になればすっきりと目覚めるし、驚くほどの活力がみなぎっている。
これまでのところ、旅はフィアナの期待を裏切ってはいなかった。むしろ事前に抱いていた不安の分だけ喜びは大きかった、といってよい。
だが、問題がまったくないというわけではなかった。
問題の大部分は、いま、フィアナのすぐ近く、ほとんど背後に密着といっていいほどそばにいる人物に端を発している。
このルークという名の、まだ少年と言ってもいいくらいの黒髪の若者は、いまは宝玉の巫女――それはすなわちフィアナ自身である――の守護騎士なのだそうだ。
つい先日まで聖騎士の従者に過ぎなかったかれがこの地位につくには、さまざまないきさつがあったのだが、それはひとまずおいておく。
現在の問題は、若者が騎士としての作法に疎すぎる、ということにつきるからだ。
騎士としてはまだ初心者だから経験がないのは当然だ。あるじへの気配りのなさや、騎士ならばして当然の礼儀作法の覚束なさも、致し方ないこととしてある程度はあきらめるべきと聖騎士は諭したし、自分でも理解していた。
しかし、である。
若者からは、騎士の心得どころか社会に生きる一般人としての常識さえもが欠けおちていた。
神殿育ちの巫女が世慣れているなどとはけして言えないが、その彼女から見てもあきれるほどに物を知らないのがこの若き守護騎士なのだった。
おかげでフィアナは、守られている巫女ならするはずのない体験をいろいろとさせられている。
さきほどだって“花摘み”に行くと言いおいてきたのに、あとをわざわざ追いかけてきた若者だ。さいわい事は済んだ後で実害はなかったが、驚きと羞恥のあまり怒鳴りつけずにはいられなかった。
「ついてくるなって、言ったじゃないの!」
二人の距離がまたしても五歩離れた瞬間だ。
なのに戻ってみれば聖騎士が、午後は若者の黒馬に同乗してくれという。
つづく相乗りで負担をかけてきた愛馬を休ませたいと説明されれば、もちろん嫌とは言えない。
しかし、若者の補助は安定というにはほど遠く、細くてぎこちないその差しだされた腕の中でフィアナはぐらぐらゆれている。ふたりを乗せる黒馬のほうは気をつかってくれているようだが――普段のブラウフェルドは乗り手をふり落とさんばかりの乱暴さなのだが、フィアナが乗ると何故か穏やかになるのだ――馬の努力よりも同乗者の腕のほうが悪いのだから意味がない。
だが、フィアナを捉えていたのは、必死になって鞍とたてがみにしがみついている不安定な乗り心地よりも心理的な居心地の悪さのほうだった。
冷静になってみれば、もの知らずの若者は“花摘み”の意味を知らなかったのだと、そう思いいたるのは容易なことだった。口を極めて罵ったことも幾分後悔していた。若者はいろいろと世間知らずだが、同時に努力家であるという長所を持っている。口はダメだが手先は器用だ。さまざまな機会に目にする手際の良さは、フィアナがひそかに感心するところだった。
そして若者が、ひとの行為にいきなり怒ったりすることは絶対にないだろう。
案の定、若者は非難を苦にしたようすもなく、いつもどおりの無表情でフィアナを鞍上に受け入れた。
いや、これはただたんに鈍感なだけなのだ。
とは思うのだが、だからといって自分のしたことが消えてなくなるわけではない。
なによりも後ろめたさがあるからだ。
エリディルの六の巫女には、ひとりになると誘惑に駆られ、ついしてしまうことがある。それは神殿にいた頃からの彼女のひそかな楽しみで、誰にも知られずにこっそりと、思う存分それをすることで彼女はいつも幸せになれた。
しばらく封印していたその行為につい及んでしまったのは、ひとりになった気楽さからだ。視界に草原と空以外なにもなく、遠目にも人影ひとつ見当たらないところで開放感にひたり、すっかり気がゆるんでいたらしい。
やってみるとそれはやはりとても気持ちがよくて、いつのまにか自分が青空の中に溶けていきそうな心地にひたっていた。
その姿を、若者に見られた。
驚いて、逆上した。
だから非は多分、いや半分は自分にもある、ような気もする。
しかし、おおもとの原因は、背後から忍び寄ってきた若者にあるはずだ。そもそもかれはどうしてあんなに音をさせずに動きまわるのか。おかげで心臓が飛び出たことは、一度や二度ではない。
なのにどうして自分が謝るのか。謝るのは若者の役目であって、フィアナのではない。
なぜ若者はこの出来事をこんなにも意に介さないのか。
それはきっと鈍感だからだ……。
だんだんいろいろと考えているのが馬鹿みたいだと思えてくる。
それだから、フィアナは口の中で愚痴を言いつづけることになる。
このところあまり頻繁に言いつづけているので、節回しのようなものができあがりつつある愚痴だ。
これを、筋肉を波うたせて上下する馬の動きに合わせてくり返すと、とても調子がよかったりする。
(ルークのばぁか、恥しらず)
身体のぬくもりどころか、なにかの弾みに吐息がかかるほど密着しているのに、どうやら若者にはこれが聞こえていないらしい。
聞こえてくれては困るのだが、あまりに気づかれないのもどこか心外だ。
だから、いっそ聞こえてしまえという投げやりな気分で愚痴をくり返していると、くり返すこと自体がどんどん快感になっていくのだった。
こんなに側にいるのに、若者の意識はフィアナには向いていない。きっと鈍感で勤勉な若者は、気むずかしい黒馬を御すことに全神経をかたむけているのだろう。端から想像してもそれはたしかに相当な難事だ。だから、それ以外のことはまったく意識もしていないのだ。
おそらくそうだ。そうに違いない。
そう思いきめたフィアナは、風に向かって走る馬上で、心ゆくまで“ルークのばぁか”をくり返したのだった。
聖騎士の決断で、その日は早めに移動を切りあげた。
終点となったのは、古びた城壁の名残のそばにある小さな町だ。
近隣領主の支配下にあるというその町は、この地方最大の都市まで急げば一日でたどりつけようかという微妙な位置にあるが、栄えた街へ入る前の緩衝地としてそれなりに人通りは多いようだった。
一行は、例によって聖騎士の先導によりとある旅籠で旅装を解いた。
そのころには空は完全に分厚い鈍色の雲に覆われ、周囲は暗く、湿気をふくんだ重い風には霧雨が混じりはじめていた。
いつもどおり、部屋は角部屋に続きでふたつとり、検分ののち六の巫女に奥の間があてがわれた。
少女が身仕度のために姿を消すと、聖騎士はひとり階下へ赴いた。旅籠の古びた酒場兼食堂の炉端にある長テーブルの席に、どかりと腰を落ち着ける。そこへめざとくやってくる宿のあるじに、たっぷりと夕食を注文する。
初めに運ばれてくるのは、果実酒の杯だ。
聖騎士が地酒としては存外美味い液体でちびりちびりと喉を潤していると、雨を避けて旅籠に逃げこんでくるものが増えはじめた。
渡りの商人や修行中の職人とおぼしき旅装の者たち、巡礼の途中らしい地味な長衣をまとった女性をかこむ数人連れ、さらには近隣のものらしいあるじの顔見知りたちまで、店内はにわかに大混雑になる。
少年ものの服を着た長い金髪の少女が、二階からおそるおそるといった態で降りてきたのは、そんな喧噪の最中だった。
宿に着くまではたいそう不機嫌だった六の巫女だが、いまは見知らぬ人びとの群れに圧倒される無力な少女でしかない。背後には影をひきつれていたが、聖騎士の姿を見つけてあきらかにほっとしたようすを見せ、そろそろと大人たちの隙間をぬってやってくる。
そうして隣の席にこそっと腰を下ろし、ふたたびきょろきょろあたりを観察する。
縄張りからひきはなされた子鹿のようなほほえましい姿だが、この警戒したようすは湯気のたつ熱々の料理が運ばれてくると一変する。
少女が眼を輝かせつつ空腹を満たしているさまは、まるで飢えた小型の肉食獣だった。よほど腹が空くのだなと、食事のたびに感心させられる。
この小さな口から入った大量の食物は、この小さな身体のどこらへんでどのように消費されているのだろう。大きな謎だ。
夕暮れ間近の混雑した旅籠で幾度もこうして過ごしてきたが、あきらかに聖騎士とわかる宵闇色のマントの大男とがつがつ食べ物に食らいつく男装の小柄な少女は、懸念していたほどには目立たない。聖騎士としてのカーティス・レングラードの偉容に眼を留めるものは必ずいるが、だからこそかれにからもうとする者は滅多にいないし、そのかれに守られている少女はまだほんの子供に見える。ふたりの容姿の似通ったところにもなにかを得心するのだろう。
それにかれらはただ食事をしているだけだ。
太い梁からつり下げられたランプの灯に照り映える少女の金髪は、叔父である聖騎士のものより淡く光沢がある。そして叔父のそれよりも癖が悪く、まとめようとした形跡を残しつつもつねに奔放に跳ねまわっていた。いまも、そのひと房がしきりと口元を邪魔するのを何度も払いのけて、それでも彼女は食べつづける。
一心不乱とはまさにこのことだ。
「あなたは食べるのがほんとうに好きだね」
聖騎士のしみじみとした言葉には、いまさらといわんばかりの一瞥をくれる。食事中の彼女の注意をひくのはことほど左様に難しい。
ならばと聖騎士は話題を変える。一気に懐へと切り込む一言だ。
「それにうたうのも好きなようだ。いつもうたっているのはどういう歌なのか、教えてくれないかな?」
狙い過たず。
少女は舌を火傷したらしくさかんに息を吹きかけていたシチューの鉢から、弾かれたように顔をあげた。
「うた?」
思わず飛び出た声だったが、そこにべつの異質な音が不自然にかぶさり響いた。
ふりかえるとそこには濡れそぼった男がひとり、心配そうに楽器の具合を確かめている。
小動物のように全身を逆立てて凝固していた少女は、しばらくそのようすをあっけにとられたように眺めつづけ、そのあと聖騎士の視線に気づいて宙を見あげた。
話題は何だったかと悩んでいるようなので、助けを出してやると眉間に皺が寄った。
「え、と。歌、ですか。うたってないです、そんなもの」
明後日の方向を向いたまま、いささかの反発と逃げ腰の混じる態度に、聖騎士は俄然興味をかきたてられている。
「それは本当のことかな?」
「もちろん本当です」
「ふうん?」
疑問をこめて相づちをうつと、少女は視線を戻して眉をひそめた。
「歌はうたえないんです。うたったりしたら、怒られるもの」
「怒られる、誰に?」
そこで少女が挙げたのは、かつての保護者であり指導者、宝玉神殿女官長モード・シェルダインの名前だった。
「あなたは巫女なんだから、人前ではけして歌わないようにって。巫女の声は名を失いし神だけに捧げられるものなんだからって。それはもう何度も何度も何度も何度も」
しつこくくり返す顔は大真面目で、冗談の気配はない。真実ことあるごとに言い聞かされて育ってきたのだろう。
「しかし、私は朝の礼拝を見たのだよ――」
半月ほど前、神殿にいた六の巫女は、朝の聖堂でそのたぐいまれな声を存分に響かせていた。あれはどう考えても日常的にくり返されている光景だった。だが、少女はそれは歌ではないと否定する。
「あれは呼びかけです。眠りつづける御神に、我々はここにいていまだに敬いお慕い申しているとつたえるために名をお呼びしているんです」
詭弁ではないかという気がしたが、おそらくこの反論も女官長仕込みなのだろう。母親代わりに少女を守り育てた女官長は、一度定めたことは必ず守り通す強い意志の持ち主であり、他人のたわごとには冷淡な人物だというのが聖騎士の評価だ。
その薫陶よろしき素っ気なさでもうこの話は終わりとばかりに会話を切ると、少女はふたたびシチューとの格闘を始める。
少女に影のようにつきそってきたのち、無言で向かいの席に着いていた黒髪の若者はといえば、聖騎士の視線に意味をふくまぬ闇色の眼をもって応えるのみだ。
思わず肩をすくめそうになったとき、ふたたび弦をはじく音がした。
音はすずやかな風のように食堂に響きわたった。
驚きにふたたびふり返ると、それまで慎重につづけられていた調弦が済んだらしい。歌びとの竪琴を奏でる姿はやすらかに安堵したもののそれで、指は愛おしげに愛器の弦をつま弾いていた。
つらなる音は、聖騎士のよく知る古謡の旋律と変化した。
始めはかなり控えめだった演奏は、ひとびとの無言の承認を得て穏やかにつづいた。
乾いてあたたかな薄暗がりに、弦の音がかろやかによく響く。
一節一節をゆっくりと、けれど歯切れよく、うたうように、踊るように。
ひとときの驚きのあとに奏者が最後の音を残すと、余韻ののち、どこかから拍手が起きた。それは静かにひろがって、うたびとは四方にむかって丁寧なお辞儀をくり返した。
鳴りやまぬ拍手の合間に聖騎士がそっと隣をうかがうと、金髪の少女は頬をほんのりと紅潮させたまま無言で演奏者を凝視めている。
「フィアナ?」
少女はぎょっとして飛びあがり、その後すぐ、いまの失態を抹殺したいといわんばかりにむきになって食事に邁進した。料理と飲み物へ鋭い攻撃をひたすらくり返し、テーブル上の皿と鉢と椀と杯のすべてをしりぞけた後は、なにかを成し遂げたようにぼうっとしてしまう。
ぼんやりとして黙りこくる少女に、部屋に戻って休むかと訊くとこくんとうなずいた。
守護騎士という名の下僕たる若者に彼女を部屋まで送るように言いつけて、遠離るふたりを見守っていると、宿の主人に許しを得たらしく、先ほどの歌びとが今度は歌をそえて演奏をはじめた。
空気はすこしばかり煙たかったが温かく、食堂はすっかりくつろいでいた。ほどよいざわめきと弦の響きが混じりあい、夕べのときは和やかに刻まれている。
「なあ、ルーク」
いつのまにか戻ってきて、自分の食べ物を確保している黒髪の若者に、聖騎士は問うてみた。
「おまえのあるじは、歌をうたっているよな?」
「……」
「たとえば馬に乗っている時、いつも鼻歌をうたっているだろう?」
「……」
「もしかして気づいていなかったか?」
人一倍耳ざといかれにそれはなかろう、と思うのだが、若者はまなざし一つ変えず最後まで無言のままに去っていく。
行く先は六の巫女のいる部屋だろう。守護騎士というつとめを考えるなら当然の行動だ。
「さては口止めされたか」
若い後ろ姿に独りごちると、ふたたび杯に口をつける。
神の賜物を心地よさそうに披露する歌びとのすがたを眺めつつ、聖騎士は思いをめぐらせた。
食べ物を手に二階に上がってきたルークは、個室の扉がわずかに開いているのをみとめて気配を探った。
「六の巫女?」
声をかけながら中に入ると、奥の間へ通じる扉に小柄な人影が飛び込むのが見えた。
「なんだ、あなただったの。脅かさないでよ」
ぞんざいな言葉とともに戻ってきたのは、やはり六の巫女だった。
奥の部屋から出ないと言っていたのに何かあったのか。しかし、かれのあるじは護衛の疑問にはまったく関心を払わない。
「べつに、何にもないわよ」
金髪をなびかせて脇をするりと素通りすると、またも扉をわずかに開いて床にちょこんとしゃがみこむ。
何をしているのだろう。
うずくまる小さな後頭部が、ランプの光をほのかに照りかえす。
ルークは仕方なく歩み寄ると、幾分距離を置いて片膝をついた。
肉づきのうすいはかなげな顔のもちぬしは、そんなかれの行動に気づいたようすもない。
まぶたを閉じてなにごとかに集中しているようすに、さらに疑問が深まった。
いったい何があるのだろうか。
「静かにして」
問おうとすると絶妙の間で命じられる。
仕方ないので息を落とし、周囲に感覚をほどいてみた。
すぐに浮かびあがるのは後にしてきた食堂の喧噪と、そこに馴染みながらもけして埋没することのない、楽の調べだった。
弦をはじくことて生みだされる楽器の音には、くっきりとした存在感があった。その音のかたちづくる旋律は、かろやかで歯切れがよく、軽快に空間を刺激する。
しばらく耳を傾けていると、しだいにゆるやかになっていた旋律がふいに切り替わり、また別の曲がはじまった。
すると、硬質な音の波にあわせて、べつの音があわく震えるようににじみはじめた。
それは生身の声であり、あたたかさとやわらかさをもって、ここちよくかれの周囲の空気を震動させている。
ルークはそっと目をひらき、金髪の巫女がその声の持ち主であることを確かめた。
少女は、自分が響きを生みだしていることに気づいていないようだった。
目を閉じて、ひたすら楽器の響きに身を任せているだけで、自分がそこになにかをつけ加えていようとは、それも驚くほどに効果的にとは、思いもしていないのだろう。
ルークはただ、見ていた。
少女の存在が、いつもとは違うなにか特別で不思議なものへと変化したようだった。
疑問に視線が強くなったのだろうか、曲の合間に意識を戻した少女が若者に気がついた。
「……なによ」
驚きととまどいをあらわに目を瞠ると、少し咎めるようにちいさく唇を尖らせる。
その姿はいつものちょっとひねくれ者の六の巫女で、ルークは自然に言葉を発することができた。
「何をしているのか、聞いてもいいか」
少女は呆れた顔をしたが、説明はしてくれた。
「なにって聴いてるのよ、竪琴の曲を。エリディルでは絶対に聴けなかったもの。歌びとがあんなど田舎に来ることはほとんどないし、来たとしてもあんないい楽器持ってるようなひとじゃないし、それに聴けるとしてもお祭りのときだけだったんだから。こんな機会は滅多にないのよ」
熱弁をふるいだすのに、ルークは歌びととはそんなに珍しいものなのかと思うだけだ。
「それならば、食堂に戻って近くで聴いたほうがいいのではないか?」
「うっ……いいわよ、ここで」
至極当然の提案と思ったが、少女は眼にみえて怯み、あげくに均衡を失って床に尻餅をついてしまう。
「ここにいるよりずっとよく聞こえると思うのだが」
「だって、巫女はうたっちゃいけないんだから……」
「聴くだけならばいいのではないか」
「……それは、たぶんそう……だけど」
指摘に同意はするものの、まだおよび腰だ。疑問を抱いたルークはさらに言葉を継いだ。
「ところで六の巫女は今、うたっていたのではないか」
「えっ、いつ? どこで?」
「今、ここでだ」
一瞬にして顔を強ばらせた少女は、崩した体勢からいきなり、がばと立ちあがった。
「ばっ、馬鹿言わないで、私はうたってない。いい? 私は歌なんかうたってないの。昼休みのときだって、うたってたわけじゃないんですからね、間違えないで。あれはそう、ちょっと花摘みに行くって言っておいたじゃない。カーティス卿にも余計なことは言わないでよ、……って、さっきも言ったわよね。まさかもうなにか言ったんじゃ?」
みだれた長い金髪のふりかかるしろい顔はいまは衝撃にこわばり、淡い眼はほとんど色がないようにランプの火灯りを反射してかっと光っている。
気圧されたルークは反射的に応えた。
「何も、言ってはいない」
「そ、そう。ならいいの。私はもう寝る」
少女はテーブル上のランプを乱暴につかむと奥の間へと逃げていった。途中よろけてたたらを踏んでいたが、どうやら持ちこたえたようだ。
長い金の髪が光をはじいて消えると、焦り気味の音をたてて扉が閉じられた。
唯一の光源を持ち去られたルークは、暗闇のなかで閉ざされた扉にゆっくりと背を預けた。手にした食料を無意識に囓りつつ、何が悪かったのかと考えるが謎は解けない。
そのうち、外界からの風と雨、階下のざわめきにまじって、ひそやかな寝息が聞こえはじめた。
気づけば閉じた鎧戸を叩く雨がずいぶん強くなっていた。これでは道はさぞかし荒れるだろう。馬が安全に通れるようになるまで、すこしばかりここで足止めを食らうかも知れない。
そんなことを思いながら楽しみを終えた聖騎士がやってきて、黙然と座りこむ若者をみつけたのは、すでに深更を過ぎた頃だった。