第一章 予感



 目が覚めると、シアはなんだか不思議な気分だった。
 これまであったような、悪いことの起きる前触れとはすこしちがう。なにかがある、という感じにかわりはなかったが。
 日の出前の大気は冷たい。いつもならばもう少し床の中にいるのだが、そうするわけにはいかないような気がしていた。
 すぐ隣でぬくもりを分けあって眠っているシルグにも、彼女の不安な気持ちがつたわっているようだった。落ち着きがない。
 おなじ感覚を共有しているものの同志愛的な親密さで、黒い犬はシアにすり寄ってきた。頭をなでてやると、なぐさめようとしているのはこちらだといわんばかりに鼻を鳴らして文句をいう。
 シアはシルグをするがままにまかせ、納屋から外へ出た。
 すきま風のひどい間に合わせの建物であっても、外気をまともに受けるよりははるかにましだ。
 夜のあいだに充分に冷えきった空気は、眠っているあいだにぼやけてしまった感覚を研ぎ澄ませる役には立つものの、粗末な服しか身につけていないものにはあまり楽しくない影響をおよぼした。
 つよくはない風がひと吹きするたびに、シアは身をちぢめてやりすごす。
 空はまだ暗く、そこはまだ星の支配する夜の世界だった。
 東のほうだけがかすかに白み、夜明けの近いことを告げている。夜行性の生き物たちが動きまわる気配があちこちから感じられた。かれらはこれからねぐらへと帰るのだ。
 そして、ひとびとのやすらかな寝息の気配。目覚めはちかいけれど、まだ片足を夢のなかにとどめているような、あまやかな気配。
 それだけのものが確かに感じられるというのに、あたりをつつんでいるのは静けさだ。
 なにか不安を抱かせるような、そんな静まりかただった。
 シルグが先に駆けはじめた。まるで風に呼ばれているようだ。
 シアは誘われるままに岬へと足を向け、砂利道を犬の後を追った。
 海からの風は、物心ついてからずっとなじんできたものだ。
 潮の香をふくんだ海神の吐息は、この島に生きるすべてのものに等しく与えられるもののひとつなのだ。
 朝の海風を胸一杯に吸いこんで、シアは岬の突端に立った。
 波の砕ける音がくりかえし、くりかえし、足の下で響いている。
 顔をあげ、冷たい風と、ときおりふりかかる飛沫とに頬をさらしながら、遠く水平線を眺める。寝乱れた髪がなぶられ、顔にかかってくるのを何度もはらいのけながら。
 月は沈んでいて視界は暗い。濃紺からしだいに紫にかわりはじめた海と空のほか、とくべつなものはなにも見えない。
 シルグはぴんと耳を立て、鼻を空へと突きだして、じぶんを落ち着かなくさせているものを探り出そうとしている。
 依然として、奇妙な感覚はあった。
 しかも、海のほうから、それは感じられる。
 このむこうに、なにがあるのだろうか。
 このむこうから、なにか来るのだろうか。
 島のいちばん端から見る海。
 こうして足元を見ずに視線を先へとのばしていると、おしよせる波を掻いて前へ前へと進んでいるような気持ちになってくる。
 そのずっと先には、見たことのない大陸があるはずだった。
 この感覚は、そこからやってくるものなのだろうか。
 シアは考えた。
 陸地から来るものなら、それはよいきざしなのかもしれない。
 そんな証はどこにもありはしないのに、シアは外から来るものに対する無条件の期待を抱かずにはおれなかった。
 島びとたちは、こんな思いを知ったら、眉をひそめたに違いない。
 島の暮らしはつつましやかではあるが、それなりに満ち足りていた。
 変化を望むシアのようなものは、それだけで非難されるに値する存在とみなされよう。
 吹きぬける風のつめたさに腕を組みながら、彼女はゆっくりと水平線から視線をはずした。
 東の空はぼんやりとあかるみはじめていた。もうすぐ、日の出だ。視界もだいぶひらけてきている。草草は露に濡れ、周囲には靄がたちはじめていた。
 シアは、まだ原因を突きとめられずに不満顔のシルグを従えて、岬を駆けおりた。
 なにがおきるにしても、
 素足で湿った地面を踏みしめながら、彼女は現実的に考えた。
 朝の仕事に遅れて、マージに嫌みを言われるのだけは、ごめん蒙りたいものだった。



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