胸のおどるような予感が薄れてしまうと、平凡な一日がはじまった。
 島の朝は早い。けっきょくシアは、島長の奥方マージにふらふら出歩いていたことを知られて、たっぷりと説教を食らうこととなった。
 マージはがっしりとした体つきの中年女で顔つきも厳めしく、意地悪ではなかったが優しさに欠けていた。下働きが仕事を怠けることを非常に嫌い、思い通りに働かせるためにいろいろと厳しい手段に訴えることがある。
 きょう、マージはシアに、朝食の後かたづけ、洗濯、家畜小屋の掃除のほかに、畑仕事もさせようと決心した。
 島の畑はせまく、島びとが共同で穀物を栽培している。島長は作男をひとり使って畑へ行かせ、自分は漁のために息子と舟で沖へ出ていた。
 作男はひとり息子とともに畑仕事をしていた。息子は島長に直接雇われているわけではないので、いわば手伝いだ。ところが先日来、作男は腰を痛め、粗末な家でふせっている。息子は父親の世話と畑の世話をひとりでこなしていた。というわけで、奥方は手伝いの手伝いをシアに言いつけたのだった。
 奥方が羊の毛を梳きに館に入ってしまうと、シアはため息をつき、ひとり遅れた朝食をとるために台所へと歩きかけた。
 そこで、裏口から出てきた島長の娘とばったり出くわした。
 イルダはシアよりひとつ上だが、背はシアのほうがほんの少しだが高かった。母親ゆずりの黒くこわい髪、黒い瞳に褐色の肌を持ち、骨太なしっかりとしたからだつきをしている――それは、この島のひとびとには共通した外見だった。
 イルダはシアの顔を見ると、顔をしかめ、不機嫌そうにへの字にむすんでいた口をひらいた。
「おまえのせいで、また晴れ着の完成が遅れるわ」
 とても友好的とはいえない言葉を、シアは黙って受けとめる。
 イルダはシアの碧色の瞳をいまいましげに睨みつけて、納屋の方へ足早に去っていった。どうやら、シアが行くはずだった羊の放牧にかりだされたのがおもしろくないらしい。
 イルダは幼い頃からシアを嫌っていて、いまでも何かにつけて目の敵にする。
 シアが島長の館の下働きになる前は、とっくみあいの喧嘩を何度もしていたものだ。
 しかしイルダに「おまえ」と呼びすてられても反論できない立場になったとき、彼女は忍耐という言葉を覚える必要に迫られた。歯を食いしばり、何度も煮えくり返るような気分を味わいはしたが、その甲斐あって、いまでは実際に平手打ちを返したりはせずにすんでいる。心の中で何度もイルダの頬の感触を想像しているだけだ。
 台所へ入ると、納屋のほうから犬のうなり声とイルダの悪態が聞こえてきた。
 シルグが事態をさとって必死の抵抗を試みているらしい。
 子犬の頃から館にいるにもかかわらず、シルグはイルダにまったくうちとけようとしない。
 イルダは、自分になつかない犬など普段は歯牙にもかけない。
 だが、放牧に行くとなると話は別だった。
 シルグの助けなしに羊をまとめるのは不可能とすれば、イルダはなんとかしてシルグをなだめなければならない。
 シアは、友人がイルダを手こずらせているところを見られないのを、残念に思った。
 無様な姿を見られたと知れば、イルダは逆上し、さらに不愉快な攻撃をしかけてくるだろう。
 暗い台所の中央の炉には、小さな燠だけが残っていた。掛けられている鉄鍋の蓋をずらしてのぞき込むと、とうに冷めてしまったスープが底のほうにすこしだけみえた。
 シアは干からびた小さなパンを棚の籠からとりだすと、炉辺のひくい腰掛けに座りこんだ。
 洗い物を減らすために鍋からじかに杓子でスープを飲み、パンをちぎりながら少しずつ食べる。
 朝食はすぐに終わってしまった。腹は呼び覚まされたひもじさに文句を言いつづけていたが、それを無視して仕事を始めた。これ以上、マージの不興を買ったら、糸紡ぎまでやらされてしまう。
 シアが洗い終えた洗濯物を籠に入れ、小川から戻るころになると、輝くメルカナンは天上の宮殿までのぼりつめ、夏の終わりの日射しが眩しいまでに地上にふりそそいでいた。
 こうして、世界が白日の下にさらけだされてみると、早朝の紫色の薄暗さの中で感じた神秘は、もはやまったく意味のないことに思えた。
 目覚めたときの感動にも似たあの説明しがたい感覚は、確信に近いものだった。
 それがあたりまえの日常を過ごすうちに、すこしずつ、すこしずつ、薄れてゆく。
 あれは夢だったのかと、疑いたくなっている。
 手を汚し、体を痛めつけて働くことは、現実を確認する作業にほかならなかった。
 そしてシアの現実とは、空腹と疲労と痛み、そのほか、ありとあらゆる平凡で不快なものが存在するだけのものだった。
 午後になって、汗みずくで畑で草むしりをするうちに、シアは朝の出来事に対する期待を大部分捨ててしまっていた。
 夢であろうと幻であろうと、どうでもいいような気分にもなっていて、そのことに少しばかり安堵してさえいた。
 穀物の畑は刈り入れ間近で、風が吹きすぎると黄金の穂が金色の波のようになびいてざわめいた。
 金の海原の所々に見えている黒い浮きは、シアとおなじように黙々と作業をつづけている島びとたちだ。春の田おこしから始まって、夏いっぱい、太陽の下で地道に汗を流しているうちにすっかり日に灼けて、もともと褐色の肌は黒くなり、黒かった髪は反対に赤茶けていた。いまでは、肌と髪の色に大きな違いはなくなっている。
 小舟で漁をしに沖へ出ていくひとびとも、やはりおなじようにメルカナンの恵みをうけた容姿をしている。
 島長とその息子の、黒光りするほどに日に灼けた、頑丈なからだ。イルダの射るような瞳の色、そしてマージの厳しい眉の色。
 黒い髪、黒い瞳、褐色の肌――それは、現実のひとつだった。
 そしてシアの髪が黒くはなく、瞳は闇の色ではなく、褐色の肌をもってはいないことも、ひとつの現実には違いない。
 シアの髪の毛は、麦の波間にうずくまると見分けがつかないほどに明るい色だ。一本一本がほそくて、コシがなく、やわらかく波うっていて、すぐにもつれてしまう。瞳は繁る草草よりも濃いけれどたしかに緑。そして肌は白だ。島のつよい陽光にさらされつづけて多少は色がついてはいた。しかし、たいていひりひりと赤くなったかとおもうと皮がむけて元にもどってしまう。顔にはたくさんのそばかすが散っていた。
 島びとの骨太でがっしりとした重心の低いからだつきにくらべて、シアのそれはほっそりとして手足がひょろりと長く、やせぎすに見える。
 ようするに、彼女の外見は島びとの基準から大きく外れていたのである。
 島びとたちはふだんはそのことをとりたてて言ったりはしない。シアは生まれたときからここにいるのだし、すでに十年以上もともに暮らしてきたのだ。
 だが、シアは知っている。
 ひとびとの自分を見る目は、穏やかではあってもあたたかくはない。言葉や態度にときおり顔を出す、隠しようもない異なるものへの反感。そこにいることを認めはしても、かれらは金髪の少女を区別することをやめはしなかった。
 生まれつきそなわった容姿は、変えることも、捨て去ることもできない。ちくちくと刺してくる茨のような出来事は、できるだけ無視して痛くないふりをするしかなかった。
 こうして、おなじ作業をしていても、ひとは自然とシアのそばから離れてゆく。
 気がつくと、まわりには誰もいない。
 土埃のたつ地面を足のゆびでつかむように踏んばって、ちからまかせに雑草をひっぱると、手のひらがほそい茎とすれて、熱い痛みが走った。
 馴れない畑仕事にからだじゅうがきしんで、悲鳴をあげていた。
 体をおこすと、はるか前方で作男が水を柄杓でふりまいているのが見えた。その光景は、強い日射しの中でゆらゆらとゆらめいている。
 シアは額をながれて顎へしたたる汗を、手の甲でぬぐって息をついた。
 こんな現実が、そう簡単にひっくり返るわけがない。
 腰の痛みや喉の渇きやひもじさが、ほかのなにかと入れかわることなどありそうもなかった。
 かりに本当になにかが起きたとしても、それはきっとシアの上を素通りしていってしまうのだろう。この苦痛は永遠につづくのだ。たぶん、島が消えてなくなるまで終わらない。
「おい」
 太くぶっきらぼうな声に、シアはハッと我にかえった。
「休憩にするぞ」
 作男は浅黒い顔に表情もうかべずにこちらを見ていた。
 シアはいそいで麦のあいだをすりぬけた。
 畑から出てみると、同時に休憩をとった他のひとびとが井戸からくんできた水を飲み、ほっと一息ついているところだった。すわりこんだり、足をのばしたり、思い思いの姿勢で酷使したからだを休めている。
 シアは痛む腰をたたきながら作男の方へむかった。
 作男は野良仕事で鍛えた逞しいからだに背後から日を浴びて立っていた。シアが来るのに気づいて桶から柄杓で水をすくい、無言で差しだしてくる。
 シアは柄杓をうけとって一息に飲みほした。
 そのあいだティストは――それがかれの名だった――まるでシアが自分の飼い犬であるかのようにようすを見守っていた。
 最後の一滴まで飲んでしまうと、シアは柄杓をティストに返した。かれは真面目な顔つきで受けとると、がらんと音をさせて桶につっこんだ。
 ティストはシアより十ほども年長で、生まれたときから島長の館にいる、生まれながらの作男だ。父親が島長に雇われていて、その手伝いが幼いころからの仕事だったのだ。
 父親が年をとり、病がちになってからは、当然のようにその仕事を受け継いでいる。
 ティストがひとびとから少しばかり離れた木陰に腰を下ろすと、シアはその隣の、また少し離れたところに座りこんだ。
 まぶしい光を避け、膝をかかえて体中の緊張をゆるめると、ひとりでにため息が出た。
 ティストがいぶかしげに頭をうごかした。かれは埃まみれの少女の顔をしげしげとながめ、しばらくしてようやく「どうかしたのか」と尋ねた。
 シアは黙ってかれを見かえした。
 ティストは彼女を気づかってくれている。
 無口で無愛想で、ときに鈍重であるとさえ思われているティストだが、ほんとうはまったくの反対なのだ。かれは無言のうちにひとの心を読みとった。わずかなふるまいやうかべる表情の切れ端から、ほんとうにたくさんのことを見てとるのだ。
 幼いときから知っている少女の顔から、不安や憤りやなにやかやがあらわれては消えるさまをみとめるのは、雲の形が変わるのを予測するよりもたやすいことだったに違いない。
 シアはどうしたものかと、すこしばかり思案し、答えた。
「なんでもない。疲れただけ」
 嘘をついたわけではない。
 疲労と痛みは、現に今の彼女の最大の関心事だ。それに空腹も。
 ティストはなにかを感じ取っているようだったが、いまはこの答で満足することに決めてくれたようだった。
 シアが島びとと異なっているのは外見だけではなく、そちらのほうが外見よりもはるかに決定的に両者を隔てていることにも、ティストは持ち前の目のよさでうすうす気づいているようだった。しかし、けしてそのことを口にしようとはしない。自分からはもちろん、シアにも一度としてそのことにふれさせようとはしなかった。
 おそらくかれは人の目にはみえない、あるいは見たいと望んでもみえないものがこの世にはあるかもしれないということなど、考えたくはないのだろう。
 それがわかっているので、シアは現実的な返事をした。
「イルダに嫌味をいわれちゃった。晴れ着の完成が遅れるってさ」
 ティストは鼻を鳴らし、無精ひげの生えているがっしりとした顎をこすった。島長の娘は使用人にたいしてまんべんなく尊大にふるまうので、ティストにとっても不愉快の種のひとつだったのだ。
「つとめは、果たさにゃならん」
 作男が重々しくいうのに、シアも相づちをうった。
 わりあてられた仕事をはたすことは、島びとのつとめであると同時に、ここで生きていくためには絶対に必要なことでもあった。
 いかに島長の娘であろうと、掟には従わねばならない。ティストが言っているのはそういうことだ。イルダがこのところ晴れ着を仕上げるのに夢中で、しばしばつとめをないがしろにし、マージの怒りを買っていることは、館どころか、島中のものの知るところだった。
「シルグとイルダの対決は、いい見物だと思うな。祭りの余興にやってみせてくれないかしら」
 これを聞くと、ティストは唇をゆがめた。かれも島長の娘と犬の仲のよさは知っているのだ。目尻のしわが、一瞬くしゃりと深くなる。ティストの笑顔は、滅多に見られないもののひとつだが、とても魅力的だ。
 しおたれかけていた気分に水をもらったような気持ちになる。
 シアは嬉しくなって、さらに今朝のイルダの話をつづけようとした。
 ところが、口をひらこうとしたところで畑の向こうの小道からやってくる人影を発見した。つよい日射しに顔をしかめながら、その人物は誰かを捜している。シアはおもわず、助けを求めるようにティストを見てしまった。
 本来ならば訪れる必要のない場所に足を運ばなければならなかった奥方は、人の目をはばかって感情をおし隠そうとしていたが、いらだたしげに土をけりあげるような足取りがそれを裏切っていた。
 あきらかに、怒っている。
 あたりを見まわすようにめぐらせていた視線が、シアとティストのいる木陰でとまった。表情の変化で、はためにも奥方が目的物を発見したことがわかった。
 作業を休んでいたほかのものたちは、ようすを遠巻きにしながらながめていた。どうやら、自分たちには関係のないできごとだとふんだらしい。
 シアがおもわず立ちあがると、マージはうなずいてそばへ来るようにと手招きした。
 ためらいながらティストに視線をもどすと、ほとんど黒に近い褐色の瞳が、急ぐようにとうながしていた。シアは、奥方のところまで走っていった。
 マージは腰に手を当てて眉をひそめていた。
「悪いんだけど、畑仕事のつづきは、またの機会にしてもらうことにするよ」
「どうしたんですか」
 おそるおそる尋ねると、返事はこれ以上ないくらいにいまいましげだった。
「きょうがお届け物の日だってことを、すっかり忘れていたんだよ。まったく、どうかしてる」
 どうやら、腹立ちの原因はシアではなかったらしい。少しほっとしたが、安心するのははやかった。
「おまえ、これから賢者さまのところまで行ってきておくれ」
 奥方の口調は有無を言わさぬものだったので、シアは肩を落として「はい」というしかなかった。
 マージはしばし無言で使用人を見つめた。奥方の小さな黒い瞳は、ほんのわずかな感情しかあらすことはない。このときも、はたからは慎重に次の命令を考えているようにしか見えなかった。
 そして奥方は、顔を洗ってから行くようにと言いおくと、くるりと背を向けると、さっさと館へ向かって歩き出していた。



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