島びとに賢者さまと呼ばれている人物は、ひらたい石積みの家が集落をつくっている岬と丘のあいだのなだらかな土地ではなく、谷ちかくのちいさな庵に住んでいた。
 賢者は島長の相談役であったが、滅多にその住まいを離れることはなかった。事が起こると島長のほうが谷まで出向いてゆき、うやうやしく知恵を借りうけるのだ。
 ひとびとは自分では手に負えないと判断した怪我や病を得たときに、それぞれに庵を訪れ、助力を請うた。もう助からないと思われる病人の枕元では、賢者は終末の秘蹟をとる。それは、生をぬぎすて死への旅路をたどるものと、それを見送るひとびとにとっては、けして欠かせぬたいせつな儀式であったが、それだけではない。
 うやまうべき賢者は、ときに素人の勝手な看立てをくつがえして手当をし、死人を回復させてしまうこともあったという。
 シアは実際に目にしたことはなかったし、事実として聞いたこともなかったが、そういう噂は幾度となく聞かされている。
 そういうわけで、島において、賢者は非常にありがたがられ、崇められているのだった。
 島びとは、しばしば奇跡にあずかることのへささやかな礼として、食糧や衣服などを庵に捧げていた。
 男が老いてほとんど谷をうごかなくなってからは、捧げものは島びとの週一回のつとめとなっていた。
 「おとどけ物」をおこなうのは、たいていは島長の役目だ。
 島の暮らしは餓えとは無縁だったが、ゆたかというほどではない。ほとんどの家は、食べてゆくのにかつかつというありさまだ。ほんとうは相手が尊い賢者であっても、ただでくれてやるものなど、パンひとかけらだろうとなかった。(深刻な願い事があれば事情は別であったが。)
 しかし、である。すでに賢者は島になくてはならない存在になっている。そしていつ何時、しわだらけの手に自分の運命がゆだねられることになるか、だれにもわからない。そのとき、賢者にどれだけ好意を持って接してもらえるか。食べ物を運んで印象をよくする必要は、島のだれもが感じている。
 ちいさな社会で権力を維持するためにも、島長はひとびとに代わって定期的に義務を果たした。したがって、実際に供物をもって谷まで運ぶのは、ほぼ館の使用人の役目ということになるのだった。
 シアはいったん館に戻ると、いいつけどおりに井戸水で汚れた顔と腕を洗った。
 台所へ行くと、夕餉の支度をはじめていたマージが、パンやチーズ、乾燥肉、干し魚などを詰めた袋を背負子にくくりつけて待っていた。奥方はシアの顔を見ると、てばやく背負子を背負わせて急ぐようにと言いわたした。
 太陽はその軌道の四分の三をすでに通過し終えていた。谷までの往復には、ぎりぎりの時間だ。のんびりしていると戻ってくるまでに夜になってしまうかもしれない。
 重い背負子を背負ってよろよろと台所を出ると、放牧から帰ってきていたシルグが尾をふりながら駆けよってきた。シアのまわりをぐるぐると、うれしげに吠えまわる。歩き出すと当然という顔をしてついてこようとする。
 幾度か納屋へ戻るようにうながしたが、シルグにいうことを聞く気はまったくなかった。ふりかえると足を止めるが、歩き出すとやっぱりついてくる。
 シルグは訴えるような眼をしてシアを見た。イルダとの放牧がよほど気に入らなかったとみえる。
 シアはあきらめて、このまま犬を従えていくことにした。
 このぶんだと帰りは暗くなるだろうし、シルグと一緒なら夜道を歩くのにだいぶ心強いだろう。
 シアは、谷へとつづく道をシルグとともに進んだ。
 館から遠ざかるにつれて、あたりまえのようにしていた潮のにおいがうすれていく。
 大気がつめたい濃密さをおびてくる。
 つねに風に吹きさらされている島にあって、唯一、谷の周囲にある空気だけが吹きだまりのようにうごかない。谷底に沈んでいる大気の澱にふれると、島とは違う、べつの土地にいるような気分になる。
 するどい刃物で削られたような険しい岩肌のつらなる細い道を通りぬけながら、シアはなつかしい空気を胸一杯に吸いこみ、吐きだした。
 空気は肺から体中にゆきわたり、とけこんで、からだの一部となってゆく。
 数年前まで、シアはここの空気にどっぷりと浸かって暮らしていた。
 館から庵を訪ねるようになって、もう何年も経つのに、いまだに不思議な感じがする。
 下働きになる以前、シアは賢者とよばれる男と庵に住んでいた。だから、奥方は里帰りをさせるような気持ちでおとどけ物をさせているのかもしれない。
 両親のいないシアが、乳飲み児のころから育ててくれた人物を親同然とみなしているはずだと思うのは無理のないのことなのだろう。
 マージだけでなく、島のひとびとはほとんどシアを賢者の付属物のようにあつかっている。
 シアに両親の記憶はない。赤ん坊のころに死んだのだと、それだけ聞かされている。ともに暮らしたのはオルジスだけで、館にやってきてからは、犬のシルグが納屋のなかまだった。シアにとって、これまでの人生でもっとも身近にいた人物といえば、オルジスと答えるしかない。
 だからといって、シアがオルジスを父親として認識しているかというとそれは別の問題だと彼女は思う。
 賢者は、ひとびとの相談相手や治療にいそがしいという言葉を隠れみのにして、じつは幼いシアにまったくかまいつけなかった。
 シアは、食事の時以外には関心をはらわれることなく放っておかれ、勝手に育ちつづけた。
 ときにオルジスは食事をとることすら忘れた。かれの情熱は薬草を煮る鍋にすべてそそぎこまれていたといっても、過言ではない。炉辺にはりついたまま、幾種類もの草ぐさを乾燥させたり、すりつぶしたり、そんなことを一日中やっていた。
 シアは、ひとは食べないと死ぬのだということを賢い老人が思い出してくれるまで、空きっ腹をかかえたままで暗がりで耐えていた。まだ、自分で食べ物を見つければいいのだということに気づけないほど、小さかったころのことだ。
 幼い心に強烈に焼きついた記憶は、うすれることなく、年々補強されている。館では朝晩きちんと食べていたが、成長期にある子どもの空腹をみたせるほどの量はなかったからだ。 
 賢者の庵は、道のゆきどまり、谷の底の傾斜のつきるところに、うずくまるようにして建っていた。
 高い崖に阻まれて、太陽の光はとどかない。ここに陽光がさしこむのは、昼間のあいだのごく短い時間だけだ。いまはまだ涼しいという感じがするだけだが、冬になればいっそう陽あたりが悪くなる。
 おまけに、この谷のどこかには、魔物が封じ込められているという噂もあった。こんなところに住みたがるのは、おそらくあの老人だけだろう。
 湿ったつめたい空気に触れると、肌があわだった。ここまで歩いてきたために熱を持ったからだが、すこしずつ冷えていくのがわかる。
 シルグは、シアの前を歩くことをとうに止めていた。
 行き先が賢者の棲み処だとみきわめたのち、足を止めてはシアをせかすように吠える。シルグは庵が嫌いで、シアと一緒でなければ行きたくないのだ。だから待っていればよかったのにと、すこしおかしくなる。
 石を積みあげて作られた陰気な住居は、たしかに居心地のよいところとはいえなかった。
 木製の扉をたたいて中へはいろうとすると、刺激のあるにおいが鼻をつく。
 部屋の真ん中にある炉には、いつものように使い込まれた鉄鍋が掛かっていた。その脇に背中の曲がった小柄な老人が、頭を半分たれて腰を下ろしている。ほとんど色素のぬけだした髪とひげは伸ばし放題、うすよごれた長衣の上に脂気なくばさばさとかかっていた。しわだらけの顔はふだんとはだいぶ印象が異なり、おだやかに見える。眠っているのだろうとシアは見当をつけた。
 庵の中は煮立っている鍋のせいで外よりもかなり暑かった。シアが扉を開けたまま立っているので、シルグが彼女の膝のそばから中をのぞこうと頭をつっこみかけたそのとき、老人の不機嫌な声が出鼻をくじいた。
「こりゃ、寒いじゃないか。はよ、閉めんか」
 シルグはびくりとして身をひいた。
「でも、賢者さま。すこし空気をいれかえないと。臭いよ」
「わしゃ、なんとも感じないぞ。とにかく、閉めんか」
 怒られたシアはしかたなく扉を閉めかけた。扉と戸口のあいだに挟まれそうになったシルグが、困惑の面もちで見あげてくる。
 シアは外で待っているように言って、鼻先で扉を閉めた。妙なにおいのするせまくるしい小屋の中にいるよりは、少しばかり寒くても外にいたほうが犬にとっては楽だろう。
 肩の荷をおろしてむきなおると、オルジスは鍋の中に指をつっこんで、煮出された汁をなめているところだった。
 ひからびた指がすくいとる奇妙な色の液体は、歯の欠けた口の中へ吸いこまれたかと思うと、ねちゃねちゃと嫌な音を立てた。
 オルジスは眉根をよせ、垂れたまぶたのために半開きにしかならない目をいっそうほそめて思案にふけった。
 幼いころからあきるほど見たおなじみの光景に、シアは当時とおなじ疑問を条件反射のようにとりだして反芻していた。これは薬だろうか、それともオルジスの夕餉だろうか。
 自分を冒涜するその考えをはっきりと耳にしたかのように、オルジスがやおら顔をあげた。
「いまいち、じゃな。まだ塩気が足らん」
 うなり声は、鍋の中身にむけられていた。
 シアは動揺をおし隠しす。
「賢者さま、お届け物を持ってきたよ」
「うう、お届け物とな。塩はあるか。このところ残りが少のうなって、けちっておるものだから、ろくな食べ物ができあがらん」
 ぶつぶつと文句を言いながら、老人は尻の跡がつぶれてぺったりとした毛皮の敷物の上で姿勢を変えた。
 シアは鍋の中身を詮索するのをやめて、袋の中身をひとつずつ取り出してみせた。
 今朝焼いたばかりのパン。チーズひとかたまり。干し羊肉。干し魚。穀物とは別に、館の裏の小さな畑でとれた葉野菜。残念ながら、塩はなかった。
「ないね。奥方さまに言っておこうか」
「まったく、気が利かんの」
 老人はそれでもひろげられた品々をためつすがめつしながら、ひとつずつ大切そうに長持ちの定位置にしまいこんだ。養い子の視線を感じたのか、オルジスは仕事を終えると咳払いをひとつした。
「いつまでここにいるつもりじゃ。メルカナンが家路についたら、暗くなるのはすぐじゃぞ」
 きまり悪そうに居ずまいをただすと、今度はいらだたしげに横目でシアを見る。
「なにか言いたいのか。仕事がつらいとか、人間関係のきしみなんぞの相談事を持ち込んでも無駄じゃ。愚痴は聞きたくもない。おまえの相談にのってやっても何の得にもなりはせんからな。ほかの者なら仕方ない、相手もしてくれようが。しかし、わしはこれでも〈賢者の塔〉を出た、魔法使いのはしくれじゃぞ。あやつらときたら、嫁の愚痴やら遺産相続やら畑の境界線や羊の所有権やら、この間なんぞ子どもの喧嘩の仲裁まで、なんでもかんでもわしのところに持ちこみよる」
 えんえんとつづく愚痴にうんざりしたシアは、反対側の炉辺に腰を下ろし、膝を抱え込んだ。
「じゃあ、魔法使いにふさわしい仕事って、なんなの」
「ふふん。ふさわしい仕事とな。それはこの島にいては絶対にめぐりあえん、不可思議の領域の出来事じゃ。闇夜に徘徊する魔物や、自然にひそむ精霊たちにかかわる、超自然のことどもじゃ。魔法使いには不可能を可能とすることができる。身に秘めた魔力をふさわしき言葉によりひきだして、人ならぬものの脅威にたちむかうのじゃ」
 さっきまでの陰鬱なさまはどこへやら。老人は胸をはり、声を高めて得意げに演説をぶちはじめた。
「いにしえの力ある魔法使いの話をしたことがあるじゃろう。なに、聞いとらんとな。かれらは異界のものとまじわり、獣を捕らえ、竜と語り、大岩を砕いたという。大地の女神を娶った真の王と対等の地位をもち、天が下の平和を影よりささえてきたのじゃ。その方々の創った学舎が、いまの世に繋がる魔法学の中心〈賢者の塔〉なんじゃぞ。わしはそこで学んだ誇り高い方々の末席につらなるものである。自分でいうのもなんじゃが、こんなちっぽけな島にはじつにもったいない人材なんじゃ。それを――」
 シアはふたたび愚痴に逆戻りしたオルジスの言葉を、右から左へと聞きながした。老人は気がむくとよく喋る。自分の語りたいことに関しては、とくに饒舌でとめどがなかった。そしてその内容は、酒の味の良し悪しであったり、おそらく大昔の若かりしころの冒険談であったりしたが、なんといっても愚痴がいちばん多かった。自分に対する島びとのあつかいが粗雑にすぎると、老人はいつも不満たらたらだったのだ。



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