幼いころからオルジスの話を浴びるように聞かされつけており、賢者が体験したという冒険の数々をいくつもの異なった言い方でそらんじられるシアだが、いまだかつて、本当に知りたいと思うことを耳にした覚えはなかった。
 それは竜の目を見てうごけなくなったときにはどうするかとか、くちから吐きだされる高温の炎への対処の仕方のようなことではなくて、たとえば、いつもぐつぐつと煮立っている鍋の中身とか、島びとに処方している薬草の種類や見分け方とか、傷や病の手当の仕方とかのもっと日常的なことだ。
 愚痴は人間関係を理解するために役立つこともあったが、島社会から疎遠なシアにはたいして有益なものとはいえなかった。それより、老人が日々ひとびとから崇められているようすを見せられているシアが、オルジスを賢者たらしめている特別さの理由を知りたがったとしても、不思議はないだろう。
 ところが、オルジスは知識を宝石のようにしまいこんで、一片たりとも分けあたえようとはしなかった。シアはオルジスのすることをじっと観察して、わずかなりとも知識を得ようともしてみたのだが、そんなささやかな行為すら老人には盗人猛々しく感じられたらしい。勝手に奥方と契約を取りつけて、シアは谷から追い払われてしまった。
 こうしてときどきお届け物のためにやってきたところで、聞かされるのは不満かひがみか、さもなくば自慢ばかり。養い子の顔を見たところで、特別嬉しそうでも懐かしそうでもないし、物を置いたらすぐ帰れといわんばかりの応対をされることもしばしば。魔法そのものを教えてくれと、いっているわけでもないのに、話の接ぎ穂すらあたえてくれない。
 こんな人物をどうして父親代わりだとおもえるだろうか?
 シアがオルジスに感じているのは、思慕というより、長年つきあううちに染みついてしまった、どうしようもない慣れのようなものだ。未知の食べ物よりも慣れ親しんだ毒のほうが怖くない。
 シアはぼんやりとオルジスの自慢話(あるいは愚痴)が終わるのを待ちながら、庵のなかを見わたした。
 いつものことだが、ものは少ないのに雑然としている。壁は始終焚かれる火のために煤けている。けむいのは煙突掃除をろくにしないせいだろう。煙がうまく外へ流れていかないのだ。
 そこで、炉端の火と、梁から吊されているランプのあかりとでうっすらと照らしだされている部屋の隅に、目を凝らした。
 オルジス秘蔵の長持ちがひらいている。
 中から革表紙の本が半分のぞいていた。
 あの本だ。
 オルジスが薬の最後の仕上げの呪文を唱えていたとき、つねに手元にあったのはこの本だったはずだ。視線に気づいた老人は、何気なさをよそおって懐にしまい込んでいた。そんなことが幾度もくりかえされ、それでシアにもわかったのだ。
 あの本が、老人の叡知の源なのにちがいない。
 けして他人に触らせようとしない秘密の奥義が、あのがっしりと厚みのある革表紙のなかの、何十枚ものうすい羊皮紙に刻まれているのにちがいない。
 ほかの持ち物も容易にさわらせようとしなかったオルジスだったが、本にはとくに気を配っていて、こどもに簡単にみつけられるようなところにはけして置いたりしなかった。オルジスが本をひらくところは見られるのに、ひとりになって探すとどこにも見つからない。
 必死になって探しているところに戻ってきたオルジスは、それを見てにやにやと笑っていたものだ。
 あの本がいま、目の前で無防備に姿をさらしている。
 これが三年ほど前であったら、欲に身をまかせて、老人の鼻先からでも盗みとろうとしていただろう。
 いまも本の中身を知りたいという欲求に衰えはない。
 だが、いまではシアは自分では本を読めないことを知っている。
 老人は養い子に字を教えようとはしなかった。それがたくらみであったのかどうかは、わからない。薬草の効能すら教えしぶる人物にとっては、あたりまえすぎてかえって自然ななりゆきでしかなかったのかもしれないが。
 老人は本の存在は口にせず、なんのために、と尋ねてきた。
 島での毎日に読み書きが必要なことはひとつもない。島びとに読み書きのできるものなど、ひとりもいない。
 おそらく、ここで暮らす多くの人間にとって、言葉とは口にされるものであって、耳や記憶に残りはしても羊皮紙に記されたりはしないものなのだ。
 本の中身を知りたいと思わなければ、シアも文字の存在に気づかないまま過ごしていただろう。
 知るかぎり、この島に本は一冊しかない。つまりオルジスの秘蔵の本だ。
 それに触れることがかなわないのなら、文字を学んだとしても無意味だ。
 胸に熱いしこりをかかえながらも、シアは現実を受け入れざるを得なかった。失望は深かったけれど、他のどんな手段もないのだから、しかたがない。諦めるしかなかった。
 だから、いま、シアは本の影に目を奪われはしても、手にとろうとは思えないのだ。この手に夢にまで見た羊皮紙の感触を得たとして、そののちに味わう感情は想像したくもないものだった。
「なんじゃ、ため息なんぞついて。辛気くさい」
 自分のことは棚にあげて、オルジスがまたも文句を言う。
「すごくいいことがあるような予感がしたんだけどな」
 ぶつぶつと口の中でつぶやいて、立ちあがろうとしたシアに、老人は鋭い視線をむけていた。眉間のしわをさらに深く刻み、その表情にはかすかな不安がのぼっているようだった。
「賢者さま、その袋をかえしてよ。奥方さまにいわれてるから」
 お届け物を入れてきた袋を奪いとろうとしたシアに、オルジスが抗議の声をあげたのと同時だった。
 外でけたたましい犬の鳴き声が響いた。
 敵意というより、不安を感じさせるその声音に、シアははじかれたように庵を走り出た。
 シルグの声は、屹立する崖にぶつかって響きわたっていた。
 太陽の光が崖にさえぎられている谷は、すでに日没後のように蒼暗さをおびていた。冷えた外気に鮮明になる意識が、シルグの視線の先を探し求める。
 谷へとつうじる一本道を、地面に落ちる長い影とともにあわてて駆けくだってくる人の影が、遠くに見えた。
 普段、谷には絶対にやってこない人物の姿に、シアは目を疑った。きょうはこんなことがもう二度目だ。
 だが、その頭上、あかく染まった空を滑空してくる鳥の姿に気づくと、驚きはべつの感情をよびさました。
 ほっそりとした肢体が金色にかがやいて見えるのは、メルカナンのもっともきらびやかな夕刻の衣を映しているからなのだろうか。
 はるか高みにいるはずなのに、ひろげられた羽根の一枚一枚、やわらかな風合いまでもがくっきりとみとめられそうだ。シアは息をとめたまま、その優雅な姿を視界にとどめようと懸命につとめた。
 なんと高貴で、なんとうつくしく、なんと威厳にみちた姿なのだろう。
 胸にこみあげるおおきな感情に、シアは喉がつまった。
 目のまわりがじんわりと熱くなり、涙がにじんでくるのがわかる。
 今朝の胸騒ぎの原因は、これだったのかもしれない。
 鳥は庵の頭上までやって来ると翼をかたむけて旋回し、みるまに向きを変えて飛び去った。
 夕焼け空に鳥影を見おくる至福の余韻にひたりかけていたシアは、犬の声によってすぐに現実にひきもどされた。
 坂をかけおりてきた人物は、いつのまにやらすぐそばまでやってきていた。
 シルグが跳ねながらまとわりついている。さきほどの険のある吠え方とはまったく違って、嬉しげだ。シルグの正当なあるじである島長の息子は、イルダのふたつばかり年かさの兄で、屈強なからだを持った若者だ。
 よほど急いで走り通してきたのだろう、真っ赤な顔をしたカリアスは、肩で息をしながら大声で悪態をついた。
「ちくしょう」
 父親によく似た線の太い顔ににじんだ汗をぬぐいながら、ぶっきらぼうに怒鳴る。どうやら、呼吸困難になるほど走らされたことが突然いまいましくなったらしい。自分に高貴な道連れがいたことなど、少しも気づいていないようだった。
「浜からぶっとおしで走ってきたんだぜ。賢者さま、どこだ!」
 興奮しきったカリアスは太い腕でシアを払いのけた。庵の戸口に影のようにわだかまる老人の姿に気づいたのは、そのあとだ。
 オルジスはさきほどの騒ぎの原因をみきわめようとして、ようやくそこまでたどりついたところだった。
「まったく大げさな犬よ。あるじを見つけたくらいで吠えまくることはなかろうに」
 オルジスの苦々しげな述懐は、カリアスの耳まではとどかなかった。
 カリアスはすぐさま賢者のもとに進みでて、ひざまずいて顔をふせた。オルジスは小柄なうえに腰が相当曲がっているので、そうしなければ、ふたりにはほぼ正面にたがいの顔が見えたはずだ。
「賢者さま。出迎えてくだすったんですか。おれが来ることがわかっていたんだな」
「まあ、そういうことかな。島長の息子カリアスよ。おもてをあげるがよい」
 オルジスは着脱可能な衣のようににわかに威厳をまとい、島一番の知恵者のおもおもしげな態度で突然の訪問者を迎えた。
「じゃあ、なにがあったのかはわかってるんだろ。どうしたらいいのか、教えてくれよ」
「カリアス。わしは神ではないのじゃぞ。性急に求めすぎることは、災いをまねく要因ともなろうぞ」
 老人は苦々しげに若者に釘をさす。
「すいません、おれはてっきり――」
 カリアスは魔法すらよくするという賢者の言葉に、目をまるくして少し声を落としたものの、自分が何をしにきたのかを忘れはしなかった。
「とにかく、たいへんなんだよ。賢者さまにきてもらえねえかって、親父が言ってる」
 言い終えるがはやいか、カリアスはすくと立ちあがり、老人のほそい腕をわしづかみにしてひっぱった。オルジスは驚きと怒りで目を白黒させている。
「わしに歩けというのか、島長どのの館まで。いったいなにごとじゃ。なにがあったのかをいうてみい」
「どざえもんだ」
 思わず口からでた言葉に自分でおどろいたように、カリアスは首を横にふった。
「ちがった、まだ死んでねえ。生きてる。漁に出たときにみつけたんだよ。親父とふたりでさ。今日はいつもよりぐあいが良くなくて、ちょっと沖まで出たんだよ。岬よりもむこうだったんだ。そこでみつけたんだよ、まだ生きてる」
 オルジスとシアは、辛抱強く耳を傾けたが、事をつたえようとするほどに、カリアスの頭は混乱してゆくようだった。
 もともと得手ではない説明をさせられて、困っているのは若者自身もだった。まとめようとすると言葉にならないので、しかたなく、思いついたことをかたはしから口にしているらしい。聞き手はなんとか言葉をつぎあわせて、状況を思い描かねばならなかった。
 こんがらがった出来事をのみこむのが賢者よりもがはやかったのは、たぶんシアのほうがよぶんにカリアスの人となりを知っていたおかげだろう。
「死にそうなの?」
 思わず横から尋ねたシアに、島長の息子はふたたび首をふろうとし、はっとなった。
 かれは、いまはじめて存在に気づいたとでもいうように大きく目を見ひらいて、ゆっくりとシアを見返した。濃い褐色の瞳は、少女のすがたをあらためて認識しなおそうとしているようだった。その目つきに、シアはひどく不安を感じた。
 さきほど見た金いろの影が、まなうらによみがえった。
 もしかすると、あの鳥は、このことを告げにやってきたのだろうか。
「おんなじだ、おまえと」
 カリアスは呪いの言葉を吐きだすように、ゆっくりと青ざめたおももちで言った。
「顔がしろくて、麦みたいな髪のやつだ…小舟にのって、流れてきたんだよ。なあ、賢者さま。教えてくれよ。いったい、あれをどうしたらいいんだよ」



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