欠けたしろい月が濃紺の天にのぼり、月光をかすかにうけた雲がゆっくりとうごいてゆく。おだやかな夜だ。
だが、館の周囲にはつねならぬ風がふいていた。暗闇と静けさの支配するイリアの時間の表情は、いつもとはあきらかに異なっている。
島長の館では広間の中央にある炉をかこみ、あるじのほか、数人の長老格の男たちが車座になっていた。かれらの表情はいちように浮かなげで、まのあたりにした出来事への当惑と不安にいろどられていた。目を伏せ、たがいの顔を見ぬようにして口を閉ざしたまま、ときおり神経質に杯をかたむける。
男たちが気にしているのは館の裏手にある納屋なのだが、けしてそれをあらわにはしない。その方向を見ようともしない。たがいに牽制しあうのはいつもどおりだったが、今夜の理由は勢力争いではなかった。
納屋には、島長が息子とともに発見した遭難者が横たわっていた。人事不肖のわかい男の姿を、男たちはすでに一度目にしている。
その姿はかれらとおなじように見えた。四肢も、顔立ちも息の仕方も、人間以外のなにものにも見えない。
だが、あれは島の外からやってきたのだ。
島によそものが来なくなってから、どれくらいの時が経っただろう。
大陸が強大な王家に統治されていたころは、やってくる船もときおりはあった。たくさんの荷を積んで、船足の鈍ったトリエステの商船は、残り少ない水を補給する代価としてめずらしいもの、貴重なもの、高価なものをもたらした。だがそれも、多くて年に数回。ならしてしまえば、一年に一回ほどのできごとだった。
ここは風向きによってうまくたどり着いたとして大陸からは四日、下手をすると未来永劫かかるともいわれる離れ小島だ。付近を大きな潮が流れているため、季節によっては大陸から近寄ることがむずかしい。本当に詳しい海図にしか存在を記されてはいないし、好事家にありがたがられるような特産品もない。
海を知りつくしたトリエステ商船が水をもとめて来なくなると、島をおとずれる船はぱたりとやんだ。
完全に孤立したまま、島はすでに数年の時を過ごしていた。
それでなくともよそ者に対する偏見のつよかった島だ。商船とのあいだはもっぱら島長がとりしきり、島びとたちは大陸人を遠巻きにして姿をぬすみ見る以外の交渉を持とうとはしなかった。意図をしたわけではないものの、閉鎖的な雰囲気はほぼ住民の望みどおりにかれらをまもる城壁のごとく高くつよく築きあげられていた。
そこに、この遭難者である。
館に集まった人々が浮かぬ顔をしているのは、ふってわいたよそ者の処遇を決定しなければならないのに、なにを基準にしてどうすればよいのか見当がつかないせいだった。
かれらは上座にいる賢者を、絶対に認めたくはなかったろうが、不安そうに見守っていた。
オルジスは呼びつけられたことがよほど腹に据えかねたらしく、島長の館にたどりついたときから機嫌が悪かった。かれの無言がまわりの不安をつのらせていることにはかまわず、目の前にすえられた特別ごしらえの夕餉を咀嚼するのにかまけている。
シアは老人の養い子という立場からそばにひかえさせられ、給仕をしていたが、マージがはこんできた湯気のたつおいしそうな食べ物が、つぎつぎにしまりのない口にくわえこまれていくのを見ているのは、気分のいいものではなかった。
それに、シアは視線を感じていた。
あからさまに嫌悪と侮蔑をふくんだそれは、下座にいる男たちのものだ。
まなざしはちょうど、さきほどのカリアスのものとおなじように、今晩はじめてシアを見たような、幾分やましげに横目から盗み見るようなのものだった。まるで気味の悪い生き物を見るかのように、炉端の炎越しにちらちらと肌や髪や瞳の色を確かめているのがわかる。
シアは、視線をかえさないようにつとめた。反感と受けとられかねないことがわかっていたからだ。男たちのことは名前はもちろん、家族のことも生業のこともしっている。
あいてもシアをしっているはずだった。うちとけた関係にはほど遠かったものの、これほど敵意のある目で見られるような、冷たい間柄ではなかったはずだ。
抗議したかったが、無駄なのはわかっていた。彼女はオルジスの背後で、できるかぎり視線を無視して影のようにちぢこまっていた。
朝の予感がうらめしい。
期待をしたぶんだけ、損をした気分だ。
オルジスは杯の麦酒を最後の一滴まで音を立ててすすってしまうと、さて、と身がまえた。
賢者の夕餉が終わるのをひたすらに待ちつづけていた男たちも、やおら居ずまいをただした。
かれらは、真剣なまなざしで賢者の最初のひとことを待ちうける。
オルジスは炉辺をかこんでいる顔ぶれを、ひととおりゆっくりと見渡した。どの顔も、一度は庵の戸を叩き、助言を請うたことがある。日に灼けた男たちのいくぶん落ち着かなげな表情を見ると、濁った白目と色素のうすい灰色の瞳が、あかあかと燃えさかる炎をうつして人が悪そうに輝いた。
「おぬしらの問いがなんであるかは、わしはちゃんと心得ておるつもりじゃ。じゃが、それはまたのちのこととして、まずはじめに、あの男のいまの具合を言っておこうとおもう」
島長はオルジスの視線におもおもしくうなずいて同意した。
それからオルジスは右手の甲でしわのよった額をかるく叩いた。横目でいらだたしげにシアを見ている。はやく消えろというのだ。
シアは大急ぎで空になった皿や鉢をかきあつめ、炉端から逃げだした。
広間と台所をくぎる扉をぬけると、洗い桶に汚れ物を放り込んでため息をつく。
暗い台所にはだれもいなかった。奥方はどこへ行ったのだろう。闇に沈んだ空間の中にあってかすかに炉の中で燃える炎だけがあかるい。
緊張がゆるむのを感じ、シアは地べたに座りこんだ。
からだからいちどきに力がぬけてゆき、そのために金縛りにあったようにうごけなくなっていた。
鼻の奥が熱い。涙がにじんでくるのがわかる。
シアは自分を叱咤した。いままで我慢を重ねてきたのに、こんなところで泣くなんて、馬鹿げている。
みんなの視線など、思い出すまい。涙がこぼれ落ちるまえにごしごしとつよくこすった。おかげで、まぶたはよけいに腫れぼったくなってしまったが。
谷でカリアスの知らせを聞いてから、もう一年くらい経ったような気がする。
金髪の遭難者の漂着は、シアをふくめて、島中を混乱に陥れていた。
異質なものを目のあたりにした島びとは、もうひとつ、異質なものが自分たちのなかにまぎれこんでいたことを思い出していた。いままでどうして忘れていられたものか、そちらのほうが不思議だとでもいうように。
すべての島びとからイルダの目で見られることに耐えなければならないと知って、シアはゾッとした。
谷から館までの帰り道は、まるで針のむしろだった。
不安そうにそこここでたむろしているひとびとは、シアの姿に気づくととたんに口をつぐんで、困惑と嫌悪の表情で遠巻きにながめてきた。なにかしら尻尾を出すのではないかと、鵜の目鷹の目で追ってくる視線。すぐに身をひるがえして逃げだしたかったが、カリアスが急きたてるので、人を避けて迂回をすることもできない。
胸に熱いしこりをかかえながら集落の中を通りすぎ、館にたどり着いたときには、疲労困憊していた。納屋に逃げ込んで、シルグにしがみついていたいとも思ったが、それよりも作男に話を聞いてほしかった。静かにそばにいてくれるだけでいい。無骨なやさしさに、この混乱を受けとめてほしかった。
だが、シアをもっともうちのめしたのは、そのティストの態度だった。
思い出したせいでまた涙ぐみそうになったとき、勝手口の向こうから声が聞こえてくることに気づいた。びっくりして息を呑んだが、むこうは何も気づいていないらしい。
「まったく。なんだってあんなものをひろってきたりするんだよ」
神経質な声は、イルダのものだった。
「あの髪の毛、うちの下女のよりもまだ色がうすいじゃない。肌なんて、ほとんどまっ白。不気味だよ」
「しかたねえだろ。あたまからボロ被ってて、色なんかわからなかったんだからよ」
カリアスの反論には元気がない。大事をひきおこした張本人であることに、かれなりに後ろめたさを覚えているらしい。
「そんなもん、ひっぺがしてみりゃよかったんだ。そして、舟ごとひっくりかえしてくればよかったんだよ」
「そんなこと、できるかよ」
カリアスの憤然とした声に、イルダはというと怯みもしない。
「できるさ。あれがとてつもなく厄介なものなんだってことが、ほんのちょっとでも兄さんにわかってればね。それに、あれなら、海に沈められたってきっと平気だよ」
「賢者さまは、そうとう弱ってるって、言ってたぜ」
イルダは鼻を鳴らした。
「ぜったい死にはしないとも、言っただろ。考えてもみなよ。相手は人間じゃないんだ。あたしたちとおなじように苦しむとは、かぎらないじゃないか。そもそも、あんな小さな舟で、いったいどこから来たっていうんだい? トリエステの船だって、いつも一週間分の水をここで買ってから帰ってったっていうのにさ。きっとあれは魔物だよ。魔物の仲間なんだ。うちの下女の母親だって、馬に乗って大陸からやってきたっていうじゃない。そんなことが、人間にできるとでも思う?」
「そりゃあ、できっこねえよ。賢者さまにも無理かもしれねえ」
「それごらん。やっぱりみんな魔物なんだよ。まったく兄さんってひとは、考えなしなんだから。これからなにが起こっても、あたしは知らないからね」
シアは暗闇のなかで身じろぎもせずにじっとしていた。
イルダの吐きすてるような口調が耳障りだったが、聞き耳をたてずにいられない。
ふたりが話しているのは、あの金髪の遭難者のことだと思っていた。だが…
「おまえたち、こんなところでなにをしているの」
マージの叱責がイルダの愚痴をさえぎった。
いつのまにやってきたのだろう。兄妹は母親の出現に、黙り込んだ。あのふたりも、マージには逆らえないのだ。
奥方は厳しい声で有無をいわさず命令する。
「あしたも仕事はあるんだよ。はやく部屋へお行き」
ぶつぶつと文句をたれる兄妹を追いたてると、奥方は台所でシアを見つけた。
「まだすんでいないのかい。もう、ここはいいから、納屋へお行き。あの病人の世話は、おまえがするんだよ」
あわてて立ちあがったシアは、腰に手を当てて立っている奥方の横をすりぬけて、台所から夜の闇へと走り出た。
マージに見られただろうか。暗闇が隠してくれたならいいのだが。
いったん止めたはずの涙なのに、こんどはまるで抑えがきかなかった。あとからあとから、あふれてくる。
館の裏手にきて足をゆるめた。なにも目に入らない状態なのに、ちゃんと納屋へ向かっているのがふしぎだ。シルグが気づいて駆けよろうとしたが、頸を縄で近くの樹の幹にむすびつけられていて、うごきがとれずに悲鳴をあげた。それを無視して、通りすぎた。
嗚咽で息がくるしく、納屋までたどりつくのにひどく長い時間がかかったような気がした。
シアは粗末な建物の、いまにも壊れ落ちてしまいそうな扉をみつめた。
月光が炉辺よりもずっとあかるく地上を照らしだしていたが、シアの目に納屋は水面の影のようににじんでみえた。
建物を背にし、扉の前に膝をおりまげて腰を下ろす。
頬をつたい落ちてきたなまぬるい涙を、冷えた手の甲で無造作にぬぐいとると、顔を両膝のあいだに埋めた。
――馬に乗って、大陸からきたんでしょ。
イルダの言葉がひきおこした波紋は、からだのすみずみにまでおよび、いっこうにおさまる気配がなかった。
オルジスが語りたがらない謎のなかでも、当然ながら両親については最大の関心事だった。
けれど、いくら尋ねても答が得られないのもいつもとおなじで、その口は魔法についてたずねたときよりもさらに重かった。
ならばとたずねる相手を変えてみても、どの島びとも、知りたいことを教えてはくれなかった。押し黙るかはぐらかすか、不機嫌に追っ払うかである。
住人のほとんどが顔見知りの小さな島で、シアの両親について知るものはいないのだ。それが不思議だと感じたことはあるれど、成長するにつれて、いつしか訊ねることの無意味を悟った。答えてもらえないことは、ひとつだけではない。
シアは羊の放牧ついでに昼寝をしながら思いえがいていた。わからないのだから、でっちあげても誰も文句は言うまい。想像の中で、彼女にはやさしく美しい母親と、つよくて大きな父親がいた。けれど不幸な出来事が両親と彼女のあいだを引き裂いて、だからいまはひとりぼっちなのだと自分を納得させていた。
なのにいまになって。こともあろうに、イルダの口からとは。
探し求めていた言葉は、ささやかな幻のしあわせをすらうち砕いた。
馬で海を渡ることのできるものなど、存在するのだろうか。その存在は、人間だといえるのだろうか。母親は、では、人間ではなかったのか。
イルダがその目で見たことを話したとは思えない。けれど、イルダに吹き込んだ者がいるということは、ほかにもそうした考えを持っている者がいるということだ。そしてイルダですら知っているということは、おそらく、島びとほとんどが知っていることなのだろう。
島びとがじぶんを対等にあつかわないのは、外見のせいなのだと思っていた。
でも、それはただの淡い期待でしかなかったらしい。
いまになってみると、自分が島びととまったくおなじ存在なのだと言いきることは、ひどくむずかしいように思われた。
胸の中にふくれあがった熱いしこりが、次第に熱を失い、重くつめたく凝っていくようだった。
どれほどの時が経ったのか、冷えた腕になまあたたかいものを感じて、おもむろに顔をあげた。
見ると、シルグがピンクの舌でなぐさめるように舐めていた。黒くぬれた瞳が、理由をさぐるように覗きこんでくる。
シアは毛むくじゃらの頸に腕をまわして、頬をすりよせた。
「なんでもないよ。平気」
口にだした言葉と、生きもののぬくもりが、こころをわずかに鎮めてくれた。
ほんとうは、全然平気ではなかったけれど、ふりをすることならなんとかできそうだ。
なめらかな毛皮をゆっくりとなでながら、シアはシルグにささやいた。
「ありがと。心配してくれて」
犬は、どういたしましてとでもいうように、くうんと鳴いてみせた。
ティストには見放されても、まだ自分にはシルグがいる。
そう思うと、かすかに微笑むことができた。
それに――
きしむ戸を開いて、そっと納屋に足を踏みいれる。
暗がりに目が慣れるまで、シアはじっと待った。
奥には、これまではなかった人の気配がある。
いつもはシルグと共有している寝藁の上に、よこたわっているものがいる。生まれてはじめてみる、自分以外の金の髪、白い肌のわかい男。
ひどく衰弱しているのは、オルジスの見立てなど聞かずともみればわかる。小舟で漂流していたところ発見されたときから、こんこんと眠りつづけているのだ。意識は戻らない。
表情はどこか苦しげなままだ。
どんな夢を見ているのだろう。
どうして、こんなところまでやってきたのだろう。
島びとの期待どおりの魔物だったとしても、かまいはしないと、シアは思った。
たったいまから、かれは、彼女の最後の希望になったのだから。