第二章 罠



 大海原を小舟で渡ろうとするなど、向こうみずそのものの行為である。海を知らない者でも、波にもみくちゃにされたあげく、あわれにも沈んでいく小舟を簡単に想像することができるだろう。
 だが、その無謀な状態を、いつのまにやら受け入れざるを得なくなっていた。エスカは舟を操るすべなど知らない。気づいたときにはすでに陸地を遠く離れ、目標とするべきよすがもありはしなかった。
 木の葉のように翻弄される舟の中で、エスカは幾度か気を失ったようだった。
 南国の太陽はきびしく照りつけ、逃げ場のないかれの体から、なけなしの水分を奪いとろうとした。穏やかな気候の土地で育ったものにとって、海や空のむきだしの荒々しさは、まったくべつの世界のもののように感じられた。夜空にまたたく星のかたちづくる図形も、見覚えのないものばかりだ。
 けれど、自然は自然だ。そこにはやはり掟がある。
 ひとつの世界を構成するために存在する、ありとあらゆるものがそなえている、絶対に破られることのない掟が。
 身に深く刻みこまれた教えが、窮地にあって反射的にひきだされてくる。
 エスカは馴染みのない、素朴で精力にあふれた神々にさからわず、しずかに身をゆだねていった。
 死のすぐそばまで近づこうとしているのはあきらかなのに、不思議と行く先に不安はなかった。
 半覚醒状態のままではあったが、正しい方向にむかっている確信があった。
 荷のすべてを失ったものの、託された一束の髪の毛は、いまも懐の小袋の中にある。
 髪の持ちぬしに向かって、舟は前進しているはずだ。
 朦朧とする意識の中で、たしかに認識できるのはそのことだけだった。
 のどの渇きや空腹につつまれて、意識は夢と現実をゆききした。
 見えるのは故郷のものよりもはるかに大きく熱い太陽や、目にしみるかと思われるほどの紺碧の空であったり、陰鬱にのしかかるディナス・エムリスの灰色の空であったりした。
 小鳥のさえずり響くうつくしい緑の森や、ふるびた羊皮紙と革の香りのただよう学舎の書庫であったりもした。
 その光景の中では見知ったひとびとが、かれの記憶にあるとおりに話したり、笑ったり、怒ったり、泣いたり、絶望したりしていた。
 かれらはまた、重すぎる命令を受けて旅をするかれの身を案じてもいた。
 兄弟子のコルに、ケリドルーズ師より手のひらにおさまるほどの革の袋がそっと手わたされる。
「これは、我らが長、シーウァ・グラガードの娘御の頭髪だ」
「彼女を捜し、導きを請いなさい。ひとびとの救われるすべを――」
 うけとった任務を凝視める、兄弟子のはりつめたまなざし。
 コルの記憶がかれの中で痛みになった。
 受けて間のないあたらしい痛み。傷のありかすらはっきりと指さすことのできる、鮮明な痛み。
 エスカは痛みから逃れようと空を見あげる。
 青い空がどこまでもつづいている。しろい雲が、ぽかぽかとうかんでいる。
 この空は目にしみるようなあざやかさで、雲は水蒸気をたくさん含んでおもたげだ。
 夢のつづきだろうかとぼんやりとおもう。
 翼をひろげ、かれを導くかのように飛びすすんでいるのは、金色の鳥だった。
 大気を泳ぐようにつっきってゆく優美な姿は、見るものを魅了する。
 エスカの視線はすいよせられるように鳥を追いかけた。次第に遠ざかっていく影は、しまいにはちいさな点にしか見えなくなる。
 おいてきぼりを食らったような喪失感に、かれは思わず叫ぶ。
「待ってくれ」
 想いが解き放たれた瞬間、意識が刃物のように鋭い感覚と融合し、エスカはとつぜん現実にたちもどった。
 動悸とともにきしむ体をむりやり起こしてみると、そこは洋上に浮かぶ舟のなかではなく、二本足で歩む生きものにふさわしいゆるがぬ大地の上だった。
 かれは、粗末な寝藁の上にいた。湿っていて、かすかににおいがする。とうに入れ替え時が過ぎているのだ。このままほうっておくと、黴びてしまうだろう。いや、すでに黴びているのかもしれない。
 見まわすと、いまにも崩れそうな古びた小屋の中だった。畑仕事の道具が隅にいくつか立てかけられているところを見ると、ここは納屋であるらしい。
 あちこちの隙間や壊れかけた屋根の穴から漏れさしてくる陽光が、舞いおどる埃を金の粉のようにみせていた。香ばしいにおいは、そこら中に積みあげてある乾いた藁のものだ。
 自分が暗がりの中にいることに気づいたエスカは、一瞬、凍りつくような恐怖を身によみがえらせた。
 小屋の中は冷え冷えとしていた。影は空気をあたためはしない。けれど、ここにあるのはただの影であって、あの闇ではなかった。邪悪な感じは少しもしない。
 くたくたに年季の入ったうすい上掛けの下で、エスカはため息をつきながら身じろぎをした。
 記憶ではもうすこし厚着をしていたはずなのだが、見覚えのあるズボン以外のほかには、なにも身につけていなかった。
 腕や肩のあちこちに王子の黒い鳥についばまれた傷がある。朦朧とした記憶の中でも、熱を持って痛んでいたことははっきりと覚えていた。傷口には、何者かによって薬とおぼしきものが塗りつけられていた。それはなんともいえない刺激臭を含んでいて、エスカは思わず鼻の頭にしわを寄せた。嗅いだことのない匂いだ。傷の痛みに変化はないから害はなさそうだが、効果のほども期待できそうにない。
 体を検分し終えると、エスカはみじかく体をふるわせた。意識が戻ってからずっと、うすら寒くて仕方がない。上掛けをひき寄せて体をくるみこむ。
 体温を調節しようとしたが、うまくいかなかった。
 空腹のせいだろうか。
 目だけを動かしてあたりを探ってみたが、食べ物になりそうなものは見あたらなかった。
 口をついてため息がもれたとき、木材のきしむ音がした。
 からだじゅうを緊張させて音がしたほうへと意識を集中させる。
 さきほど出入り口と見当をつけた戸が、ぎしぎしと音をさせながら開いてゆくところだった。
 ちいさな人影が現れて、中に入ろうとし、かれに気づいて動きを止めた。
 凍りついてしまったかのように静止して、こちらを見ている。
 相手の驚きがエスカには手にとるようにわかった。が、こんなときに役に立ちそうなどんな知識も浮かんでこない。かれは時とともに金縛りがとけるのをただ待った。
 とてつもなく長い間、そうしていたような気もするが、つぎの一呼吸で一番の緊張状態は去った。かれは、やせっぽちの少女が用心深くつぎの行動にうつるのを見守っていた。



PREV[Chapter 1-5] NEXT[Chapter 2-2]

妖魔の島 [HOME]

HOME Original Stories MENU BBS

Copyright © 2002 Yumenominato. All Rights Reserved.