シアは、半開きの戸口から入り込む太陽の光を受けて、上半身を藁の上に起こしている人物を見ていた。
 ここ数日、かなりの興味を持って眺めつづけていた顔だったが、目覚めている姿を見るのは初めてだ。
 その人物は島びとよりはだいぶ華奢なつくりのからだに、シアの上掛けをかぶって、静かに、だが明らかに警戒しながら彼女を観察している。
 みだれたくせのない金の髪の下でこちらをまっすぐに、しかし少しばかり心許なさそうに見あげている瞳は、灰色がかった青い色をしている。骨格がはっきりとわかる肉づきのうすい顔は、繊細にととのっていた。魔物というのはこんなに美しいものだったのかとふと思う。
 眠っているときにはカリアスくらいかと見当をつけていたのに、こうしてみるとイルダとおなじくらいの歳にしか思えない。多く見積もったとしてもシアよりふたつみっつ上というところだろうか。いずれにしろ、男というより、少年といったほうがふさわしい年格好だ。これならばそばにいても怖くないような気がする。
 驚きの余韻が去り、シアがようやく肩の力をぬくと、相手もおなじことをした。かすかに顔の筋肉がゆるむ。
「やっと目が覚めたんだね」
 実感のこもった言葉が口をついて出た。シアはすばやく納屋の中に入り込み戸を閉めて、病人からすこし離れた藁の上に腰を下ろした。少年が安堵したように息をついたのは、顔をあげなくてよくなったからだろうか。たぶん、かれはシアよりも背が高い。
 シアは、少年をもう一度よく見た。
 仕事を終えて、納屋に戻って髪や肌の色を見るたびに、夢を見ているような気分になっていた。暗がりでははっきりとわからない色合いを確かめるために、外へひきずりだしてみようかと思ったこともある。太陽の下で消えてなくなってしまっては困るので、実行には移さなかったのだが。
 こうして動き出した少年を見ていると、これはまぎれもなく現実なのだとあらためて感じられた。
「あたしはシア。あんたは――」
 魔物なの、と訊ねそうになって、あわててやめる。
 本物の魔物がこの問いにきちんと答えるとは思えないし、もし万が一でも間違いだったとしたら、相手は相当嫌な気分になるだろう。
「あんたは、どこから来たの」
 少年はシアの自制には気づかずに、ふりしぼるようなしわがれ声でそっけなく答えた。
「――大陸から」
 いい加減すぎる返答に、やっぱり、とシアは思ったが、なにがやっぱりなのかは自分でもよくわからない。
 それに対して今度は自分の番だと思ったのか、少年は青灰色の瞳でシアを見すえた。
「ここは、どこ」
 幾分うるおいをとりもどした声に、反射的に、島、と答えそうになったが、ふたたびやめる。
 相手は警戒しているのだから、こちらは好意をみせなければ。それにしても、魔物が地理を尋ねるなんて考えてもみなかった。シアは思案しながら一番狭い範囲の場所を教えることにする。
「…納屋ん中だよ、島長の館の」
 あたしの寝床でもある――とは言わなかった。納屋の寝床はふたりと一匹には狭かった。それでも、ひとり分の体温のおかげで、すこしだけ温かく眠れたのは事実だ。病人が意識を取り戻したとすると、今夜はどこで眠ればいいのだろう。
 少年が目をふせて考え込んでいるのを見て、シアは「とにかく」と注意を促した。
「ここからは出ないほうがいいよ。まだ眠ったふりをして、他のひととは会わないほうがいい」
 少年は怪訝な顔になった。
 シアは敵意がないことを示そうと、あわてて笑ってみせる。
「だいじょうぶ。あたしは、あんたの味方だから――」
 つづけて名を呼ぼうとして、気がついた。まだ聞いていなかったのだ。察した少年が、問われる前に教えてくれた。
「エスカ」
 少年は、とりあえず彼女を信用してくれることにしたらしい。シアはかすかに居心地の悪さを覚えたが、うなずいて立ちあがった。
 もう羊の放牧に行かなくてはならない。そのまえに、なにか食べられるものをもってきてやったほうがいいだろう。知る限りでもかれは三日間、飲まず食わずでいたのだから。
「それじゃ…エスカ。すぐ戻ってくるから」
 シアはあたりを注意深く見渡すと、納屋から出て、台所へと向かった。
 館の裏は静かだった。
 シルグは羊の柵につないできたから、彼女の姿を見つけてさわぐことはないだろう。島長とカリアスは海へ出ていったし、イルダは秋祭りのための晴れ着づくりか、さもなくば糸紡ぎをしているだろう。奥方も、賢者の世話をしていてできなかった分をとりかえそうと懸命にじぶんの仕事をしているはずだ。
 オルジスが庵に帰ってくれたのは、シアにとっては幸運だった。
 老人がいれば、病人に直接話しかけることなど許されなかっただろう。意識を取り戻したら、すぐに館に知らせて、けして近寄らぬようにしろと、きつく言い渡されている。
 看病と称してシアが見張りにつけられたのは、ほかのものがよそ者のそばに寄りたがらなかったためだ。オルジスは幾度か少年を見にきては、水を飲ませるようにいいつけたり、まぶたをむりやり開かせてみたりしたが、そのほかに様子をうかがいに来るものはいなかった。シアに文句を言うことを生き甲斐にしているイルダですら、納屋に近づきたがらないのだ。
 誰もいない台所のなかからミルクと干からびたパンを苦心して盗み出したシアは、用心しいしい抜けだした。放牧にも出かけずにこんなところにいるのをマージに見つかったら、手の中の食べ物を見とがめられる前にこっぴどく叱られてしまう。
 つま先立ちで台所から離れようとしたとき、畑のほうからやってくる人影に気づいて、シアは建物の影に身をひそめた。
 ティストだった。
 作男はうち沈んだ表情で、のろのろと歩いていた。肩に担いだ鍬がひどく重たそうだ。かぎられた日常に満足することを信条にしていた若者の姿は、そこにはない。
 シアはティストの様子をじっとうかがった。
 以前なら、この程度のことであれば黙って見逃してくれると確信できたのだが、いまはどうだろう。
 ティストは、ふうとため息をつくとかすかに顔をあげて前を見た。その鑿で彫ったような荒削りな顔には影が色濃く落ちていた。あながち、太陽を背に受けているせいとばかりはいえない、深い憂鬱がうかがわれる。
 いたたまれなくなって、シアはその場から離れようと身をひるがえした。
 そのとき、ミルクを入れた木彫りの椀が、石壁にぶつかって音を立てた。ぎくりとして手元を見ると、白い液体が大きく波だって、縁からこぼれ落ちそうにゆれていた。あわてて椀を静止させ、どうにかこぼさずに持ちこたえたところでふりかえると、ティストがこちらを見ていた。目があうと、男はきまり悪そうに顔をそむけた。
「ティスト」
 シアは、足早に立ち去ろうとする作男を呼び止めた。
 たくましい背中は、逡巡するようにいっとき、動きをとめた。
 けれど、ふりかえることはなく、男は重い足どりで歩き出した。まるで、一刻もはやく遠ざかりたいのに、足がいうことを聞かないとでもいうような焦ったようすだった。
 シアは、声をかけたことを後悔した。
 このところ、ティストは口をきいてくれず、姿を見かけても無視しようとするか、あわてて逃げだすかのどちらかだった。以前のように笑いかけてくれることもなくなった。
 ティストの黒い瞳は、なにかを怖れているような、不安な影を落としてシアを見ていた。深い眼窩の奥でひかる、口よりもずっと雄弁なあたたかな瞳が好きだったのに。
 ティストの態度の理由が、シアにはわからない。
 いったい、あんな目をして見られるような、なにが彼女にあるというのだろう。
――魔物の子だからだ。
 シアは首をふった。
 だって、そのことを、島の人たちはシアが赤ん坊のころから知っていたはずなのだ。
 いままでシアが知らなかったのは、たんにかれらが忌みごとを忘れたふりをしていたからにほかならない。いくらティストが普段ひとびとから離れているといっても、せまい島の中で起きた大事件をまったく知らずに過ごしてきたはずはない。
 なのに、優しかったティストが、どうして突然かわってしまったのか。
 日々の事ごとにまぎれて忘れていたことを思い出して、気を変えてしまったのだろうか。自分の態度は誤りだったと後悔しているのだろうか。そうなのだろうか。
 ティストには幾度か理由を問いただそうとしてみたが、貝のように口を閉ざした作男から言葉をひきだすのは、必要を感じたときの奥方ですら至難の業なのだ。かれは全身から拒絶感をにじませていて、ひとを寄せつけようとしない。
 それでも、シアにだけはいままで一度もそんな態度をとったことはなかったのに。
 喉の熱いかたまりをこらえながら納屋についてみると、閉めておいたはずの木戸が半開きになっていた。
 びっくりしてかけよると、少年が扉の裏に寄りかかるようにしてぐったりと腰を下ろしていた。青ざめたくちびるから荒い息を吐いている。
 シアは周囲を見まわし、見られていないことを確かめると、食べ物を中に置いてから少年の腕をつかんでひっぱった。
「いったい」
 シアは歯を食いしばりながら、自分よりひとまわり以上大きい体を納屋の中へと引き入れようとする。
「なにがあったっていうの。外へ出るなって、あれほど言ったのに」
 エスカは必死でシアの作業に協力しようとしていたが、体が思うようにうごかないようだった。ようやく安全と思えるところまで引っ込んだときには、ふたりとも肩で息をしていた。
「見つかったらどうするつもりだったんだ。みんな、あんたのこと――気味悪がってるんだよ。なにをされるか、わからないのに」
 押し殺したシアの言葉には怒りがこもっていた。エスカはその理由を知りたそうだったが、シアは自分の問いを優先させた。
「外へ出て、何をするつもりだったの」
 少しためらってから、エスカはシアをまっすぐに見て答えた。
「皮袋だ」
 血の気を失った少年の、思いがけなく強い声の響きとまなざしに、シアはかすかに気圧された。
 いままで、彼女の瞳をこれほどまでにまっすぐ凝視めてきたものは、いなかった。
「首にかけていたはずなんだ。舟に乗っていたときには確かにあった。なのに、ここにはない。あれは大切なものなんだ。絶対になくしたりしちゃ、いけなかったのに」
 不安と絶望をあらわにして、少年は手で顔をこすった。
「…探しに出ようとしたんだけど…」
 あとの言葉はのみこまれたが、青ざめた頬にかすかに赤みがさして、口は悔しそうに結ばれた。シアはおそるおそる声をかけた。
「その皮袋が、どれくらい大切なものかは知らないけど――」
「ものすごく大切だよ。あれがないと――大変なことになるんだ」
 エスカはその仮定によって導き出される未来に思いいたったためなのか、さらに情けなさそうな顔になった。
 どういう事情なのかはわからない。けれど、広い世界で自分よりもずっといろいろな経験をしてきたはずの、魔物かもしれない少年の悲痛な表情は、なぜかシアの心までも苦しくさせた。
「それなら、あたしがそれを探すから。だからあんたは、ここでじっとしてて」
 ミルクの椀とパンを押しつけながら、シアは頼み込んだ。少年の青い顔は、うつむいたままだ。なにも言わずに、差しだされた食べ物をうけとった。椀の中でゆれているミルクの表面をじっとみつめている。
 しばらくつづいた沈黙のあとで、先ほどよりは落ち着いた声がした。
「どこにあるのか、知ってるのか」
 それはかれとしてはかなり譲歩したあげくの質問だったのだろう。
「知らないけど、あんたが出て探すより、マシだと思う」
 不安がたちまちエスカの顔いっぱいにひろがった。
 よほど大切なものなのだろう。出会ったばかりのシアを信用するのが不安である以上に、自分の手で探したいのだ。島のひとびとがシアを信用しないのとは、理由がちがう。そうわかってはいたが、嫌な気分であることにかわりはなかった。
 だが、消耗しきったうえに島には不案内な人間に可能なことなど、たかが知れている。現実に、納屋の戸口でうずくまる以上のことができるとは思えない。
 そのことはエスカにもよくわかっているのだろう。
 かれは青灰色の瞳で彼女をもう一度みつめると、不安を隠そうと努力しながらかすれ声で説明した。
「袋はかなり黒ずんで、くたびれてる。首にかけられるくらいの長さの革ひもがついているはずなんだ。見つけたら中をのぞこうとはせずに、すぐに僕に渡してくれないか」
 シアも息をひそめて問いかける。
「中身を確かめなきゃ、本物かどうかわからない」
「持ってきてくれれば、僕にはわかる」
 きっぱりと言いきられて、シアはほんのすこしむっとした。けれども、エスカはこの件をシアに預けてくれることにしたらしい。頼みにされたことが意外にも嬉しくて、シアは期待に応えようと真剣にうなずいた。
「あんたの持ち物は、ぜんぶ島長が持ってるはずなんだ。でなけりゃ、賢者さまか。ほかのものも、なにかあったら取ってこようか」
 それほど行き当たりばったりの申し出をしたわけではないことを示そうと、シアは立ちあがりながらつけ加える。
「賢者? 魔法使いが、ここにいるのか」
「見つからないようにするから、平気だよ。お願いだから、ここでじっとしててよね」
 そう言いおいて、シアは納屋をあとにした。
 腑に落ちないのは、念を押すためにふりかえったときの、エスカの顔だった。
 羊たちと犬を従えての放牧地への道すがら、道にころがる石を避けながら、シアはなにが変なのかを考えつづけた。
 エスカのことばは、思わぬところで出会うはずのないものに出くわしたような、心底からの驚きをあらわしているように響いた。だが、それだけではない。
 魔物なら、魔法使いを怖れるはずだ。
 少年の表情には、恐怖と名づけられそうな感情がどこにも見あたらなかった。それが妙な感じをあたえたのだと、そう気がついたのは、ふたたびエスカがそのことを示す行動をしてからのことだった。



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