シアは敏感で神経質な羊たちをなだめて家路へむかわせるのに体力を使い果たし、疲労困憊して放牧地をあとにした。
 放牧は楽な仕事のはずだった。シルグに羊をまかせてしまって、草原でねころがっていても平気だったからだ。そもそも、すべてを心得ているかしこい犬が一頭いれば、放牧に特別な素養など必要ない。手仕事に向かない者にあたえられるそれは、ある意味ごくつぶしのための仕事であるともいえた。けれど近頃ではその気楽なはずの仕事をこなすためにすら、シアはたいへんな困難を味わうようになっていた。
 吹く風に、不安がつたわっている。
 数日来、空は機嫌よく晴れわたっていた。青い色は秋の到来をかんじさせて、すこしつめたいものに変化していたが、寒気がつれてくるはずの重たい灰色の雲はいまだ姿すら見えない。
 しかし、島をおおっている雰囲気は、見えないものの脅威に怯えて、神経をとがらせているもののそれだ。
 島びとたちの顔には、不安がもっとよくあらわれていた。
 ほこりっぽい田舎道に羊を返しにくるシアの姿を見つけると、かれらはいっせいに警戒をはじめる。おかげで羊たちはなかなか柵の中に入ろうとせず、持ち主たちの目はさらに険悪な表情をおびた。いままではおざなりに自分の家畜を受け入れていたものたちが、あてつけるように頭数を数えはじめた。視線はひややかで、羊飼いに対する不審を隠そうともしない。
 あちらこちらで囁かれだした魔物の噂は、現在だけではなく、過去の事柄にもおよんでいた。
 話の切れ端をすこしずつつなぎ合わせて察するに、十数年間人々に沈黙を強いてきたのは、魔物の最期が抱かせた、呪いに対する不安だったらしい。すべてをなかったこととして葬り去るために、かれらは出来事を言葉にあらわさず、封印することに決めたのだった。今回のできごとで、ひとびとは長年の努力を嘲笑われたように感じたのだろう。
 もう、黙っているだけでは問題はなくならない。そうさとったとき、十数年分の沈黙をおぎなおうとするかのように、ひとびとはいっせいに口をひらきはじめた。それはまるで、ふってきた災いに対してなすすべのないかれらが、せめて噂で敵を討とうとしているかのようだった。
 おかげでシアは、いままで聞いたこともなかった母親にたいする評判を、あちらこちらでいくつも耳にすることになった。
 ひとびとは声を低め、まことしやかに語った。
 真夜中だった。あの女は、下僕が手綱をひく白い馬の背に、鞍もつけずに乗り、すべるように波の上をやってきた。
 風になぶられたその髪は、月の光のもと、青白い炎のようにさかまいていた。
 うら若い乙女のようにも、しわだらけの老婆のようにも見える女だった。
 その瞳は、禍々しい緑色をし、くちもとは血のように赤く、月明かりに尖ったしろい歯が光っていた。
 口の端を少しあげて笑うが、目はすこしも穏やかにはならず、かえって身も凍るような残忍さが全身からたちのぼってくるようだった。
 見たとたんに、だれもが禍々しいものを感じとった。そうだ、女は魔物だったのだ。
 魔物は島のはずれに住みつき、ときどき真夜中にさまよい歩いては鶏や羊や豚など、家畜の命を奪った。
 ひとびとは大切な財産がむざむざと殺されるのを防ぐために交代で見張りを立てたが、やってきた魔物は不思議な力でかれらを金縛りにして、行為を妨げようとする試みをふいにした。
 あのとき、賢者さまがいなければ、この島は全滅させられていたかもしれない。
 魔物の眼には理解しようのない邪悪な力がそなわっていて、みつめられると命にかかわるのだ。
 子どもがひとり、魔物の女のせいで海に落ちて死んだ。死体もあがらなかった。おそらく、魔物が手に入れたのだろう。波の砕ける岩場の影で、子どものやわらかい肉をむさぼる魔物の姿を見たものがいたらしい――
 ささやかれることばは、うんざりするほどの嫌悪と恐怖とにいろどられていた。内容に負けず劣らずの悪意にみちた口調で語られると、話はよりいっそう凶凶しく、恐ろしいものに響いた。子供たちはシアの姿を見かけただけで悲鳴のような喚声をあげ、蜘蛛の子を散らすがごとくに走り去るようになった。
 はじめのうち、ひとびとはシアの姿が近づくと息を呑んで話を中断していたが、しばらくして少女が黙って通りすぎるだけなのに気がついて、聞こえよがしに大きな声を出すようになった。シアが意識していることを確かめながら、話は不安そうに、そしてうれしげにつづけられる。
 賢者さまがまだ赤ん坊だからと情けをかけたせいで、恩知らずの魔物の子どもが災厄を呼びよせたのだ。やはりあのとき、親とともに殺してしまえばよかった。われわれは災いのもとをこんなに大きく育ててしまった。なんとお人好しだったのだろう。
 ひとびとにとって話はすでにうわさではなく、たしかな根拠を持った現実に変化を遂げようとしていた。
 ついには別の人物を放牧に雇おうと言い出すものもでた。とりあえず様子を見ようという奥方のひとことがなければ、シアは仕事をうしなっていただろう。つとめを失ったら、ますます島にいることが辛くなる。
 すべての羊を返し終わり、館の羊を柵の中に追い込んでしまうと、シアは疲れた足を引きずって裏手にまわり、台所へむかった。
 シルグのためにとっておかれる干し肉を、椀に入れたミルクに浸して、戸口で待っている犬の前に置いてやる。
 尻尾をふって食べはじめたシルグだが、あまり元気がない。ときおりシアを見あげてくるのは、ようすを確かめているのだろうか。
 シアはしばらくぼんやりと犬の食事を眺めていたが、マージに呼ばれて台所に戻った。火の番をいいつけられたので、炉端にしゃがみ込むと、シチューを煮る大鍋の下の炎の中ににたきつけをほうり込みはじめる。
 頭の中では魔物についての噂がめぐりつづけていた。
 蒼い月夜の砂浜に降りたつ魔物の幻影が、脳裏にうかびあがっては消える。
 赤いくちびるからのぞく、とがった牙や、長くのばされた爪や、人間というより肉食の獣のような、光彩の小さな瞳は緑色だ。
 闇にいろどられ、奇怪にねじれたみにくい姿が、心の中にうかびあがる。
 想像の中の魔物に、うっすらとうかんだひややかな微笑以外の表情はない。くちびるがかすかにひらかれた瞬間、そこからなにが飛びだしてこようとも驚くことはないような心地さえする。
 だが、その魔物が自分の母親なのだと考えたとたん、像はくずれ、溶けだしていった。
 もう一度まなうらに描いてみる。おなじことだ。母親だと思うからこそ、こんなにも魔物のことが気になる。それでも、やはりじぶんの母親が魔物だとは考えたくなかった。
 だいいち、シア自身は全然魔物らしくない。
 爪は日々の労働ですり減ってまるまっているし、なかには洗ってもとりきれない汚れがつまっている。牙と名づけられそうな歯も生えてはいないし、そうだ、暗闇で目を光らせることもできはしない。
 いま一番仲がいいのは犬のシルグだ。羊たちともうまくやっている。鶏をつぶす手伝いをさせられたときは、自分が絞め殺されそうな気分になって怖くてしかたがなかった。隠れて泣いているところをイルダにみつかって、ひどく馬鹿にされたことははっきりと覚えている。
 けれど、すべてはなにかの間違いだと、言いきることができない理由もあった。
 シアが生まれたときから持っているあの感覚を、イルダやマージや、その他の島のひとびとすべて、オルジスでさえもが理解できない。
 明日の天気や風向き。麦の出来具合や、井戸の水位。ときには嵐や大波の前触れまで、シアにはただなんとなくわかる。しかしそれは、ひとびとにとっては手の届かない、神々の領域のできごとであるらしい。
 まだ小さかったころ、無邪気に口にしたひとことがどれだけ奇妙に思われていたことか。大人にたわごとだと聞き流されて、幼いシアは不満だったが、それでよかったのだ。ただひとり、まともに受けとめたのはイルダだけだが、そのたびに恐怖の混じった嫌悪のまなざしをむけられたことを覚えている。島長の娘がシアを嫌うようになった、大きな原因はこれだったのだといまにして思いあたる。
 しばらくして、自分には当然のことが人にとってはそうではなく、むしろ自分のほうが普通ではないのだと気づいたあとでは、感じたことをひとり胸におさめるようになった。それからずいぶん経っている。だから、イルダも、他のひとびとも、そんな事実があったことなど、たぶんもう忘れているだろう。
 だが、シアはまだその感覚、名づけようのない、自分でもよくわからない感覚をいまでも持ちつづけている。失くしてはいない。
 これは、魔物である証拠になるのだろうか。
 けして認めようとはしなかったけれど、ティストが気づいていることはうすうすわかっていた。
 もしかすると、だからかれは、シアを遠ざけることにしたのだろうか。
 考えは堂々めぐりをつづけるばかりだった。
 いっぽうで、シアは、人びとが自分を見るときにうかべる表情の意味が、いまになってようやくわかったような気がしていた。
 納屋にいる少年の青い瞳は、島びとの濃い色のそれを見なれた眼には、とても奇妙に見えたからだ。
 自分の姿を自分で見ることはできない。他人の眼にこの髪やこの瞳がどれだけ異質に映っているか。エスカに見つめられたときにはじめて体験した驚き。心にうまれる違和感を自分のものとしたとき、腑に落ちたこと。それは自分に対するすくなからぬ不安へともつながっていた。
 エスカは魔物なのだろうか。自分もそうだったのだろうか。
 ふと現実に立ち戻ったシアは、炉の炎が小さくなっていること気づいた。あわてて木ぎれをつっこみ、管で空気を吹き込むと、弱まりかけていた火にパチパチと勢いが戻ってきた。焦げつかないように長柄の杓子でひとかきまぜしていると、奥方が近づいてくる気配があった。
「シチューはどうだい」
 シアはもう少しだと答えた。
 背後ではマージとイルダが忙しくたち働いていた。台所中に魚の焼ける煙やソースや、野菜の煮える匂いが充満している。庵とちがって煙突がしっかりと掃除されているので煙たいことはないが、火に熱せられた部屋はずいぶんあたたかくなっていた。
 館は一見平穏を取り戻したようだった。オルジスがいるあいだに狂ってしまった秩序が、ようやく回復しつつあった。いちいちつっかかってくるイルダも、母親にとがめられたのと忙しいのとでいまは構ってこない。
 騒ぎそのものはむしろ大きくなりつつあるというのに、島の中心にあるはずのこの館では、なんと物事が簡単におさまっていることだろう。奥方の努力のたまものだろうが、まるでここ数日の喧噪と混沌が、老人とともにすべて去っていったように思えるほどだった。
 夕食ができあがると、奥方とイルダは料理とともに居間へと消えた。島長一家の夕餉の時間だ。
 夕食になる残りものが戻ってくるまでに、家畜のようすを見に行く仕事があったが、そちらを無視して台所から島長の寝室へ向かうことにした。
 エスカの皮袋が館にあるとすれば、そこだろう。代々つづく長の館といっても、そんなに大きな建物ではない。個室を持っているのは島長だけだ。他に貴重品を置いておけるようなところはなかった。すくなくとも、シアの知る限りでは。



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