館はすでに夕闇につつまれており、ものの輪郭は影に溶けはじめていた。
 シアは館の裏庭を目をつむっていても歩けるくらいには知っていた。だから緊張する必要はないはずなのに、今はあたりのようすがひどく気になった。人影も気配もないことを確認して、そっと足を踏み出した。
 朝とおなじようにつま先立ちで、音を立てないようにゆっくりと歩いていく。
 まるでこそ泥のようだ、と思いついたあとで、いま自分はそのものの行為をしようとしているのだと気づく。ますます心臓の音が意識されるようになってきた。
 居間の横をすりぬけるあいだ、シアはほぼ息をとめたままでいた。何事もなく寝室の窓の下にたどり着くと、壁面に背中を押しつけてもう一度確かめる。周囲は静けさに満ちていた。
 窓の戸は、すべてが開けはなってあった。すでに暑さの盛りはすぎており、夜気はいくぶんひいやりとしてきてはいるのだが、収穫の祭がくるまでは、就寝前まで閉じないことになっている。島長が熱気のこもった寝室を厭うからだ。
 それに昨日までここにはオルジスがいすわっていた。こもった臭気を逃がすために必要以上に解放されているのかもしれない。
 オルジスが庵に帰っていてくれてよかったと、シアはあらためて思った。
 木製の窓枠にとりつくのは簡単だった。しろい月明かりに照らされて手がかりがよく見える。窓枠についた腕に力を込めて体をもちあげ、窓框にしゃがみ込んでひといきついた。
 これからは手際よくすみやかに、そして静かに事を運ばなければならない。
 だが、暗闇の中で音をたてぬように気を配りながら動きまわるのが、どれくらい困難なことなのかは、まだシアの理解の外にあった。覚悟はかためていたが、そもそも彼女は身軽なたちではなかったのだ。
 最初の教訓は、とりついた窓枠から体勢を立てなおして室内に進入しようとするときにやってきた。
 息をとめて飛び降りようとした瞬間、目測を誤ったせいで半開きの窓に肘をぶつけ、平衡をくずした拍子にどこかに膝をぶつけた。痛みをこらえてよろよろと部屋の中に入り込むと、シアはつめたい床にはいつくばった。
 どくどくとからだじゅうに心臓の音が響きわたって、呼吸は浅い。手のひらには冷たい汗がにじんできた。
 少年の信頼を得ようとするあまり、大それた提案をしてしまったのではないか。
 一瞬よぎった不安を、むりやり押しのける。
 落ちつけ、と自分に言い聞かせつつ、息をひそめて暗闇に目を凝らす。
 静まり返っている部屋のなかで、自分の存在がひどく場違いなものに感じられた。実際、そうなのだから仕方ないのだが。
 眼が暗さに馴れて、部屋のようすがはっきりと捉えられるようになるまで、ずいぶん長い時を待ったような気がした。
 そのあいだ、鼻はたしかにオルジスのいた証をかぎとっていた。反射的にくちのなかに苦い味を思い浮かべてしまう、かの庵に染みついているものと寸分たがわぬ賢者のにおい。それは鍋で煮詰められている正体不明のものと、老人自身がもっている体臭とが長年のうちに混ざり合ってできた、独特なものだ。底流にたしかに感じられる島長の気配よりも、はるかに自己主張がつよく、とげとげしている。この痕跡が薄れるためには、まだ当分かかりそうだ。
 そう思いながら、初めて足を踏み入れた島長の寝室に、その雰囲気になじもうとする。たしかに中に入るのは初めてなのだが、窓から覗いたことは何度もある。だから、どこになにがあるのか、だいたいの位置はわかっているつもりだった。
 窓から射し込むかすかな月明かりによって、黒々とした大きな影となって見えるのは、がっしりとした木製の寝台だった。壁際の大きくて頑丈な長持ちには、部屋のあるじが身につける衣類がていねいに収めてあるはずだ。その上にある、ひとまわり小さい長持ちには、装身具と、大陸からやってくる商人との取引にしか使われることのない硬貨が入っている。それを知っているのは、まだずっと小さいころ、イルダが見せびらかそうと持ち出してきたからだ。
 壁に飾るように掛けられているのは、島長がその父親から受け継ぎ、父親は祖父から受け継いだという長剣だった。島にはほかにほとんど存在しない人殺しのための武器は、祭やなにかの特別な席で、長がこの家の歴史を語るときにのみ、古びた鞘からひきだされて冷たい刀身をあらわにする。そろいの盾もあった。昔の戦いでつけられた傷があちこちに残る、古い盾だ。
 シアは暗がりに浮かびあがるこれらの品々に、わけもなく畏れを感じて身をふるわせた。島長の先祖の持ち物ひとつひとつに目があって、時ならぬ侵入者をじっと見ているような気がしてならない。
 気をとりなおして、そろそろと地面を這うように寝台の反対側へと移動した。その間中、神経は居間からの物音に集中していたが、幸いにして静寂が破れることはなかった。
 寝台のまわりを迂回して枕元にたどり着くと、シアは一息ついた。
 よし、ここだ。
 木製の枠の下へ右腕を突っ込んだ。頭を下につけてもなにも見えないので、闇の中で右、左と手をのばし、さまよわせる。何度か空振りしたあとで、中指の先が硬いものにぶつかった。
 シアは痛みに顔をゆがめた。焦りながらすばやく、思い切り動かしていたので、ゆびさきをしたたかにうちつけてしまったのだ。痺れるような痛みはしばらくすると薄れたが、そこで音が聞こえた可能性に気がついて、体はさらに緊張した。
 足音の近づく気配はないと安心できるまで、息をとめてしばらく待った。
 今度はゆっくりと手を伸ばして、寝台の下から慎重に箱をひきよせる。
 箱が目の前まで来ると、シアはため息をついた。
 それは両の手のひらでようやくつつめるくらいの大きさの、木でつくられた箱だった。なんの変哲もない、素っ気ないくらいの簡素な箱だが、重要なのは細工ではなくて、材質のほうだった。マリ・イスタは、魔よけの樹なのだ。
 シアは聖なる樹でつくられた箱の蓋にゆびをかけ、期待と後ろめたさとを感じつつ、そっと開けてみた。
 皮袋が、あった。
 ちいさな袋は、箱の中にきちんと紐を折りたたまれて収められていた。
 エスカに言われたとおり、くたくたに古びており、首から下げられるように長い皮紐がついている。たしかに、これだ。
 シアは手にとって、やわらかい皮の感触を味わった。ゆびの腹にふれるそれは、ひとの体温を分かちあたえられたもののようにやさしい。
 シアは紐を頭からかぶって首にかけると、もう一度箱を見た。そこにはもう、なにもない。
 蓋を閉じ、小さな掛けがねをかけると這いつくばり、注意しながらもとあったところに戻した。
 今度は慎重に両手両膝でいざり始める。暗くせまい部屋で方向を変えるのはむずかしく、寝台の硬い枠に肩をぶつけてしまった。うめき声を懸命にこらえる。
 窓から忍び込んでどれほどの時間がたったのだろう。
 ほんの少ししかたっていないような気もするが、すでに一晩中四つん這いで過ごしているような気もしている。窓から見える外の景色は真っ暗になっていた。胸の中で不安と焦りがきゅうにふくれあがってくる。
 できるかぎり急いで残りの行程を終える努力をしたシアは、窓枠にしがみつくと、まわりを確かめることも忘れて外へ飛び出していた。
 ひろい外の空気はひんやりとしていた。
 そこに笑い声が響きわたった。
 驚いてみまわすと、声は居間からの遠いもので、たぶんカリアスのものだとわかった。とっさに身構えた自分が滑稽に思えるほどだった。
 ずっと妙な姿勢でいたせいであちこちが軋んでいるものの、それを除けば気分は上々だ。
 ついでに羊の枠を見てこようかとまで思ったが、たぶんそんな時間はないだろう。まっすぐに台所に戻ることにした。
 大胆になったシアは、居間の横を通り抜けるときにも背筋をまっすぐに起こしたまま、大股で歩いた。それでも、奥方が料理の入った鍋や残り物をもって下がってくるまでには悠々と間に合った。シアは皮袋を隅に据えてある果実酒の壺のうしろに隠すと、ずっと火の番をしていたかのような顔をして腰掛けに座り、マージを出迎えた。
 奥方はシアのようすには無関心だった。鍋を炉に戻すと、さっさと食べて片づけるようにといつものように淡々と命令する。
 シアはおとなしく返事をしていたが、一方では残ったシチューの量や、明日のぶんにととってあるパンの数を計ったり数えたりしていた。うわのそらの使用人に、奥方は眉をひそめてただした。
「聞いているのかい」
 厳しい声音に、シアはハッと背筋を伸ばした。
「はい、わかってます」
 奥方はシアがときおり陥るこんな状態をことのほか嫌っていた。真剣味が足りないといい、怠けていると非難する。
 シアは、小柄で実際的な女性の体温をそばに感じながら、自分を戒めた。
 マージにだけは疑われてはいけない。
 カリアスやイルダならごまかしおおせる自信はある。だが、奥方だけは駄目だ。
 一家の主婦という立場でつちかわれた貫禄に気圧されるせいなのか、つねに監督され、命令されつけているためなのか。理由は判然としないものの、シアはマージがとても苦手だ。
 なにかの拍子に奥方の眼に注意深さをとりもどさせるようなことになれば、すべてが露見するのも時間の問題となるだろう。マージの前では、どれだけ用心しても、したりないということはない。
 シアが考えなしにかきまわして散らかしてしまった灰を、火かき棒であつめている横顔は表情に乏しく、なにを考えているのかさっぱりわからない。そのわからなさは、なにか人が気づかないでいることをひろいあつめて吟味し、つみあげているような雰囲気をもっている。
 シアが杓子で鍋の底の残り少ないシチューを焦げつかないようにかき混ぜたときに、どきりとするような言葉が奥方の口から飛び出した。
「そういえば、椀がひとつ足りないんだよ。おまえ、知らないかい」
 顔色が変わるのが、自分でもわかる。エスカに手渡した椀のことだ。シアは、普段通りに見えているようにと、祈りながら顔をあげた。
「お椀ですか。知りません」
「ほんとうかい」
「もしかしたら、シルグのを持ってくるのを忘れたのかもしれないけど」
 暗に犬のせいにしてしまったことに心がとがめた。よけいなことを言ってしまったような気もした。
 マージはむっつりとしたまま、炉の燠火をかき回しつづけた。シアはその間無言でシチューをかき混ぜつづけた。
 ほかにすることはなかったし、不自然なことをしているわけでもないのに、息が苦しくなってきた。薪のはぜる音、杓子が鍋にぶつかる音が、緊張した耳の中で実際よりも大きく反響する。
 マージがため息をついた。
 一瞬遅れて、シアは身をちぢめた。
 火かき棒が立てかけられた。
「椀はあとで確かめておくれ」
「はい」
「食べたらおやすみ」
「はい」
 確認の二言三言の後に、奥方の姿が台所から消えた。
 足音が遠ざかってゆき、寝室の扉が開き、閉まる。
 マージの声音は、怖れていたほど尖ってはいなかった。
 シアはようやく緊張をといて、息をついた。奥方がとりあえず日常を信じる気になってくれたことに感謝しつつ、鍋を火から下ろす。棚から椀を取り出すときに少しためらいはしたものの、今度はすぐに戻しておくことを肝に銘じつつ、作業をつづけた。
 籠の中のパンは、きっちり五個しかなかった。考えたすえにひとつだけとって、あとは元へ戻しておく。夕食前にくすねておいた、塩漬け肉と乾燥豆を椀の中にほうりこみ、そのうえからシチューの残りをたっぷりとかける。あたたかくて美味しそうなにおいが、鼻孔をくすぐった。
 いつもなら、ものすごいごちそうだ。
 シアはしばし椀を見つめてため息をつきそうになったが、エスカのこけた頬を思い出してなんとか思い切ることにする。
 それから果実酒の壺の影から皮袋を取り出して、自分の胴回りにゆわえてある紐にくくりつけ、あたりを見まわした。
 暗い台所の光源となっているのは、炉で燃えている火だけだったが、まんなかに汚れた鍋がごろりと下に転がっているのは、いかにもまずいような気がした。もし、奥方が気を変えて最後の点検をしに戻ってきたら。
 結局シアは鍋を裏の洗い場までもっていき、炉の火を弱めてから、ようやく安心して台所を離れた。
 空には、月が出ていた。
 夜も更けたはずなのに、イリアのしろい衣が大地を覆い、くっきりと周囲が見えた。まるで夜明けのように。
 暗くなるとうごきはじめる生きものたちも、この明るさにはとまどっているようだった。狩りのできない肉食獣の不安げな声がかすかに聞こえたような気がする。
 だがシアは、なにも気にとめずに納屋へと急いだ。
 神経は、みたした食べ物をこぼさないように椀に集中している。空腹の病人のために、一滴たりとも無駄にはしない覚悟だった。なみなみと注いであったので、すこし平衡をくずしただけで、汁は縁からあふれでる。細心の注意を払ったうえで、できるかぎりの早足で歩きつづけた。
 そうでなければ、シアは奇妙にはりつめられた空気に気づいただろう。
 館をとりまくしずけさが、ふだんの夜にはない重々しさをともなっているということにも。



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