納屋にたどり着くと小さく戸を叩いて、中に滑り込んだ。
 よどんだ暗闇の奥で、人の気配がうごく。
「シア」
 見えているものの確かさで名を呼ばれたシアは、凍りついた一瞬の後で声の持ち主がだれであるかに気づいた。
 眠っているかと思っていたのに、エスカは目覚めていた。
 入ってきたばかりのシアにとっては真っ暗なだけの納屋だが、壁板のゆるんでできたあちこちの隙間から月の光が細くさしこんでくるため、外から来た人物の顔はよく見えるのだ。特に今のように明るい月夜には。
 納屋の住人であるシアは、もちろんそのことは知っていた。あまり敏感に反応したことがはずかしくなる。
「食べ物、もってきたよ。具合はどう?」
「ありがとう、大丈夫だよ。それより…」
 シアはようやく慣れてきた目で、人影がぼろにくるまって身を乗り出しているのを認めた。
 手にしていた椀をエスカの前にそっと置くと、胴の紐から皮袋を取り外そうとする。
「ほかにはなんにもなかったけど、袋はあったよ。ほら、これじゃない。この――」
 革ひもが変な具合にからまって、はずれなくなったのを懸命にほどこうとしていると、ふいに
「しずかに」
 と命じられた、ような気がした。
 シアは手をとめて、エスカを見た。いまでは表情も見分けられるようになってきていたが、闇の中で少年が特に変化しているわけではなかった。やつれた顔に牙が生えたわけでも、目が光って彼女を威圧しているわけでもない。ただ、ひどく緊張していることはたしかだった。
――黙って
 エスカの口がぴたりと閉じたままであるのに、シアは驚いた。たしかに、声を聞いたと思ったのに。
 いや、声ではない、と訂正する。声ではないが、ことばではあった。ことばが、そう、耳ではなく、頭のすぐそば、もしかすると頭のなかで、ぽんとはじけたのだ。
 シアの混乱に気づかないらしいエスカは、ふたたびおなじようにして、今度はものを訊ねてきた。
――外にひとがいる。敵意が感じられる。外に出られない理由というのはこのことだったのか
「なに、ひと?」
 わけが分からずに声を上げそうになったシアは、エスカに腕をつかまれて、かろうじて自分を抑えた。
――声を出さないで
 全身を緊張させているエスカに、理由を問いただそうとすると、またもことばが飛び込んできた。声音というわけでもないが、その調子からは、かれにも状況は分かっていないのだということが察せられるだけの混乱がつたわってきた。
――この小屋は囲まれてる。たくさんのひとだ。みんな手に武器を持っている。いちばん背の高い男が近づいてきた。いま、戸を――
 ものすごい音が、納屋にぶつかってきた。戸になにか硬いものを力まかせに打ちつけているのだ。
 いい加減なつくりの小屋は、衝撃が走るたびに情けない悲鳴をあげ、ぶるぶると震えた。扉に叩きつけられているのは斧だった。木製の板に目にそって縦方向のひびが次々に走り、めりめりと音を立てて割れてゆく。
 突き刺さったままの木っ端を大きく一振りしてはらい落としたのは、カリアスだった。月明かりを背に、肩で息をしながら遠ざかる。
 すでに扉と呼べるものはなくなっていた。
 いまではシアにも、矩形の穴を通して外が見えた。
 闇の中、燃えさかるいくつもの松明にうかびあがる光景。納屋をとりまいているのは、思い思いの武器を携えた人びとの姿だった。男も女も、年寄りも若者も、子どもまでも。そこにある、すべての顔がシアの見知ったものだった。
 わずかな光を不気味に反射する斧や鋤、包丁。杖や火掻き棒を持っているものもいる。かれらの手にあるものは、日々のいとなみに使われる仕事道具であったが、今夜だけ異なる目的のために持ちだされてきていた。かれらは未知の敵から身を守るために使えそうだとおもわれる、すべてのもので武装し、館の裏に、納屋を包囲するために集まっていた。
 敵意と怒りとにこわばるその表情をみて、いまさらのように思い知らされて気分が悪くなった。島びとたちは、それほどまでに彼女を厭っていたのか。
 威圧する黒々とした群衆の中から、背中の曲がった貧相な老人が姿を現した。シアは息を呑んだ。賢者は谷の庵へ戻ったのではなかったのか。
 オルジスは、厳めしげな顔つきの島長の介添えを受けて、ひとびとと納屋とのあいだに立ちはだかった。
 汚れた長衣の下のうえのしわくちゃな顔が、これほどまでに勝ち誇り、輝いているのを見るのは初めてだ。とりかこむ人々の厳粛さとはうらはらに、老人の喉からはしわがれた聞き苦しい笑い声がもれていた。こらえようとはしているらしいが、喉がひきつって、よけいに妙な音を発することになっている。
 かれは曲がった腰にできうるかぎりそっくりかえって、睥睨するように納屋のふたりに顔を向け、緊張の糸が最高にはりつめられた瞬間をねらって話しはじめた。
「シアよ、養い子よ。おまえはわしを裏切ったな。わしの信頼を裏切ったのじゃ。島のものらは、よそ者とともにおまえも殺せと言いおった。おまえの母親は魔物じゃった。いままでは子どもだと思うて目をつぶってきたが、仲間があらわれたからには、どんな悪さをするようになるかわかったものではない、というのがその理由じゃ。
「じゃが、わしはおまえを育てた人間じゃから、おまえのことはよおく知っておる。おまえは魔物でも、たちのいい方の魔物じゃ。殺さずとも、いままでどおり、皆のためになることをさせればよいではないか。
「わしはそのことを証明せねばなるまいと思ったぞ。島のものを納得させねばならんからの。それでわしは賭けたんじゃ。谷に戻ったふりをしての。わしがいなくなって、なにも起こらなければ、それでよい。おまえはこれまでどおり生かしておくことになっとった。わしは、だいじょうぶ、おまえも馬鹿ではない。今までの恩を忘れることもなかろうと安心しとったんじゃ、ところが――」
 老人はそこで、さも無念そうにかぶりをふった。
 心底養い子の運命を嘆き悲しむ人物が、そんなに大仰な態度をとってみせるはずがなかった。現に、オルジスのシアを見る目はたのしげに輝いているのだ。
 それでも、このわざとらしい演技につられたのか、感極まって泣き出すものがいた。あちこちでにじんでゆれる松明の炎と立ちのぼる煙のせいでよくわからなかったが、それは聞き覚えのある声だった。
「シアよ、おまえには失望させられた。おまえはこのわしを欺いて十数年間すごしてきたばかりか、長年の恩も忘れてついに魔物の本性をあらわしたのじゃ。おまえにこのわしの悲しさ、苦しさ、悔しさが理解できようはずもないが、わしは心底後悔しておるぞ。あのとき、なぜおまえを母親とともに封じてしまわなんだのかとな……!」
 両手をふりあげたオルジスは感極まってのけぞり、失神するかに見えたが、よろめいたところで島長の太い腕に支えられ、なんとか背筋を伸ばそうとした。
 賢者は勝利にうっとりと酔っていた。その恍惚とした陶酔は、異様な緊張状態でことにのぞんでいたまわりにも伝染していった。
 ひとびとは神経質なののしり声を盛んにあげていた。それはすべて、シアに対する呪いと罵倒の声だった。
 島長があたりを制するように、腕を払いながら声高く言った。
「わしは、魔物の言いなりにはならん」
 底光りのするような冷徹な瞳で、統率者はふたりを睨みすえた。それはけして、子どもや病人を見るときのまなざしではなかった。さきほど暗い部屋で見たばかりの長剣が、大きな手にしっかりと握られている。島長は鞘から黒光りする刀身をひきぬいて、まっすぐに鋭い切っ先を突きつけてきた。
 その瞬間、シアは島から切り捨てられた。もう、島の一員とみなされることはないのだ。
 叫ぶような同意の声が、あちらこちらからわきあがった。
 ほんのつい先ほど、今日の午後までひとびとが宿していた怖れと不安は、いまでは敵意と怒りと破壊欲に変化を遂げていた。あたかも手負いのけもののように、炎をうつしてギラギラと輝くいくつもの瞳。いまにも襲いかかってきそうな、狂暴な光を宿したまなざしに、シアは身をすくませた。
「魔物を殺せ!」
 だれかが我慢しきれなくなって叫んだ。
 怒号のような賛意の唱和が、夜の天蓋に響きわたる。
 感情に支配されることのないほかの生き物たちは、ひとという名の獣の群に畏れをなし、島の奥へ、または外へと逃げだしていった。
「ふたりを捕らえよ」
 賢者がひとこえ命ずると、飛び出してきた男たちによってシアとエスカは納屋から引きずりだされ、縄で縛りあげられた。
 両腕をむりやり後ろへひっぱられて、シアは悲鳴をあげた。少年は抵抗する気力もないようだった。ふたりは自分では指一本うごかせないくらい、がんじがらめにされたあげく、賢者の足元にころがされた。
 みじめなありさまのふたりを満足そうに見おろすと、オルジスは島長に大きくうなずいた。
 島長はひとびとにむかって大声で命じた。
「海へ」



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