第三章 魔物の塚



 満ち潮のときをむかえた海は、黒い生き物のように脈打って、砂浜を自らの領土とすべく押し寄せてきていた。
 足の下を、寄せては返ししていた波がしだいに高さを増すにつれ、濃紺の空を焦がすかのように燃えあがる赤いほのおの群は、波打ちぎわとともに遠ざかって行った。
 松明をかかげる人々のすがたもどんどんちいさくなり、わけのわからない呪文を誇らしげに朗しつづける賢者の声は、遠くから聞こえる調子はずれの歌のようにきれぎれになった。
 月明かりに煌々と照らしだされる地上の風景はうつくしくはあったが、状況はそんなものを愛でていられるようなものではなかった。
 いまや潮位は胸の上にまで達しており、波が寄せるたびにシアは塩辛い水を頭から被るようになっていた。
 念入りに縛りあげられた四肢は、なおも執念ぶかく魔よけの樹の杭にくくりつけられていて、波の高まりを避けて頭を浮かせることもできない。
 圧倒的な力になぶられるうちに、編んであった髪がほつれて、顔に貼りつき、前もよく見えない。
 いまは息をとめることでしのいでいるが、完全に水没してしまうときがやって来たらどうなるものか。
 息苦しさは増し、からだは冷え、空腹はつのった。水を吐き、息をするためにひらかれるくちびるの奥で、歯がかちかちと音を立てている。
 このまま海中に沈んで肺を水にみたされ、苦しさのあまり死んでゆくのだろうか。
 死ぬ。
 そこまで思考がたどり着いたとき、シアはようやく我にかえった。
 自分のすぐ隣に、おなじ境遇でおなじ危険にさらされているものがいるのだ、ということに遅まきながら気づいたのだ。
 シアはむりやり首をめぐらせて、左に立っているはずの杭を見ようとした。
 エスカは鎖骨の上まで水に浸かって(いつのまにか、また潮位が上がっていた)、目を閉じ、蒼い顔をすこしうつむけていた。疲れているだけだろうか。それとも、気を失っているのだろうか。あるいは――
 最悪のことを想像しかけたとき、少年はむくりと顔をあげた。
「まだ、生きてるよ」
 よかったと言おうとした瞬間、ふたりは波にのまれた。
 ふたたび頭が海面から出るまでにはたっぷり三呼吸、待たされた。
 シアはむせて咳こんだ。不意をつかれたためにかまえるのが遅れたのだ。鼻がつんと痛んで、熱い涙がにじんでくる。
「きみがぼくを外へ出したがらなかったわけが、よくわかったよ。ここでも、よそ者はみんな魔物なんだな」
 顔色の悪さとは裏腹に、少年の口調は皮肉混じりに感心するもののそれだった。
「色の白いひとは、ふつうと違うんだもの」
 シアは、しみじみと言ってしまってから、すこし泣きそうになった。が、エスカの反論はシアを仰天させた。
「色が白いとなんだっていうんだ。北のほうでは、ここの人たちみたいなののほうがずっと珍しいくらいだよ」
「ほんとに?」
「そりゃ、まったく見ないとは言わないけど――」
「だって、賢者さまは若いころに魔物退治をしたっていってたんだから、魔物を見たことが――」
「あの賢者は、騙りだよ。魔法使いなんかじゃ――」
「なんで? 賢者さまは、ちゃんと病気や怪我を治して――」
「あんな馬鹿げた呪文をつかう魔法使いがいるもんか。あれは――」
 ふたりの会話は、押し寄せてはひいてゆく波にたびたび中断させられた。不愉快な状況ではじめられた話し合いは、何度かの水入りをくりかえしているうちに、渦の中での叫びあいになっていた。
「だめだ。こんなことをしている場合じゃない」
 必死で頭を海面から離そうとしながらエスカが叫んだ。
 おぼれかけている現実をあらためて理解したシアは、ふるえあがった。
「だって…どうすれば」
 エスカは少女の悲鳴を無視して、波間に自分から沈んだ。シアは驚いて名を呼んだが、返事は来ない。
「どうしたの、ねえ。なにしてるの。エスカってば」
 口の中を海水だらけにしてわめいていると、頭の中で「だまって」という強い命令が響いた。
 いきおいで海水を飲み込んでしまったシアは、次の瞬間にひときわ大きな波にのみこまれていた。
 くるしい。
 くるしい。
 くるしい。
 くやしい。
 すでにもっとも低いときでも、海面は鼻の頭を越えていた。
 大気中に顔を出していられる時間が、どんどん短くなっている。
 シアは歯を食いしばって苦しさに耐えようとした。
 オルジスの皺とシミだらけの顔が、怒りとともに脳裏によみがえった。年老いたしわくちゃの、ねじれきった、みにくい姿に、シアは悔しさをぶつけた。
 まだ、なにも知らないのに。
 まだ、なにもわかってはいないのに。
 死にたくない。生きていたい。
 どうして魔物は生きていてはいけないの。
 鼻から口からつめたい海水が押し寄せてくる。苦しさが限界に近くなる。水がからだを押しつぶそうとしている。
 つらさのあまり意識が苦痛から逃れようとしたときに、ふと、両手が自由になっていることに気がついた。
 縄がゆるみ、両足も、水の動きにつれてゆれている。
 なにかが肩に触れて、シアは杭から解放された。
 そのまま波にもって行かれそうになった彼女の胴に腕をまわして、海面までひっぱりあげてくれたのはエスカだった。
 かれはずぶぬれの頭だけを海面から出して、大きく息をついた。
 シアは少年にしがみついたまま、あやうく肺を満たしそうになっていた海水を吐きだしながら盛大に咳き込みつつ、泣いていた。
「泳げるかい」
 すぐ耳元で聞こえた声は、ふるえていた。
 まだ喉も鼻も胸も痛くて、ひどい気分だったが、シアはうなずいた。このままこうしているわけにはいかないことは、わかったからだ。
 ふたりは、数刻海水漬けになったものにできうるかぎりの速さで、篝火の見える浜とは岬をへだてた別の浜をめざして進んだ。つめたい波がゆくてをさまたげ、後ろへ後ろへとひきもどそうとしたが、ふたりは必死に手足を動かしてあらがった。
 シアはエスカの手を離さぬようにつとめた。
 今まで一度も経験したことのないくらい疲れていた。もし手を離してしまえば波にさらわれて、二度と陸地にたどり着くことはできないような気がしていた。
 エスカもおなじことを考えているのか、ときどき確かめるように少女の手を握りなおした。シアはその一瞬につないだ手がほどけて、自分だけ遠くに流されていってしまうようなおそろしさを懸命にこらえた。
 水を掻く片方の腕と、水を蹴る足とがともに棒のようになり、これ以上はとても泳げそうにない、もうどうなってもかまわないと思い始めたころ、ようやく岬が目前に迫ってきた。
 月の光を背後に受けて、黒々とそびえる剣のような岸壁を迂回すると、険しい海岸線が連なっており、くだけちる波が銀の飛沫になってとんでいた。
 ふたりはそこを横目で見ながら最後の力をふりしぼり、ごつごつした岩場の切れるところまで頑張った。
 ようやく足が地に着いたとき、シアは体から力が抜けてくずれおちそうになった。
 エスカが落下を食い止めようとしたが、シアはまだ膝上までは来る波の中に手をついて、そのまま動けなくなってしまった。
 必死で起きあがり、前へ進もうとするのだが、膝ががくがくとくだけてしまう。エスカが自分を半ば引きずるようにして運んでいっても、文句もいえなかった。
 波打ち際までたどり着くと、ふたりは濡れた砂の上に身を投げだして、体中で呼吸をした。
 仰向けになってせわしなく胸を上下させるエスカの隣で、シアはときおり空咳をしながらすべての筋肉をふるわせ、吸って吐いてをくり返した。冷えきっているせいか、砂が妙にあたたかい。喉も胸も鼻も、からだじゅういたるところがつめたくて熱く、また、だるかった。刺すように痛むところ、鈍くひろがるように痛むところ、さまざまだったが、ありとあらゆるところが痛かった。
 だが、それは生きているということだ。
 濡れそぼった体にしみる潮風にふるえ、生の痛みを実感してため息をつきながら、シアはエスカを見た。
 エスカは上半身裸のまま、ゆっくりとではあるがまだ大きな呼吸をつづけていた。細いからだのあちこちには、きつく縛られた縄の跡が残っている。かれは目をとじて深呼吸をつづけていたが、シアの視線に気がついてゆっくりと半身を起こした。
 彼女は横になったまま、命の恩人を見上げた。
「たすけてくれて、ありがとう」
 海水を飲んだせいか、声が喉にひっかかるようにかすれてしまい、ちゃんと届いたか気になった。月光のもとでずぶぬれの少年は、真顔になったあとでふいと視線を外した。
「…皮袋、まだもってるか?」
「え、うん」
 シアが胴の紐から湿った革ひもをふるえるゆびでなんとか取り外すと、エスカはそれを宝物のようにそっと受け取った。長い間海水に浸かっていたにもかかわらず、皮袋そのものはほとんどなんの影響もうけていないようだった。
 かれはそれを手のひらの中につつみこみ、中を透かし見ようとでもするように半眼になった。髪から滴をおとしながら、なにかを問いただすように袋を凝視めるエスカの姿は、さきほどまでそこにいたふつうの少年ではなく、なにかべつの不思議で高貴な存在のように見えた。
 やがてエスカのしろい顔には確認と安堵の表情がうかんだ。
「これだ。まちがいない」
 シアは、体をおこして少年のしみじみと喜びのこもる言葉を聞いた。
「それに、ここからすぐ近くだ。この島にいる。やっぱり…」
 エスカがなにを理解し、なにに興奮しているのか。その理由はやはり彼女にはわからない。
 だが、かれがいましたことは、普通の人間には不可能な、魔物の技ではなかったのだろうか。
 少年の正体を知りたい。
 シアは怖さも忘れてくちばしっていた。
「あんた、やっぱり、魔物だったんだね」
 驚いてふりかえったエスカの青い目に浮かんでいる不快の念は、シアを一瞬たじろがせた。
「ぼくは人間だ。魔物じゃない」
 しかし、シアはひきさがらなかった。
「声を使わないで話しかけてきたじゃない。手を使わないで縄を解いたじゃない。それに、いまのはなに。なにをやってたの。いったい、なにをしにこの島にきたの。教えてよ」
 ひといきに言ってしまってから、もう一度エスカを見つめる。
 そうだ。
 エスカが来たから、シアはいきなり島びとに突きはなされたのだ。かれがここにいなければ、いまごろきっと納屋の寝床でシルグとまるくなって眠っていたに違いない。
 こうなってしまったことについては、もちろんエスカに罪はない。けれど、かれがどうしてここにいるのか、それを訊ねる権利くらいはシアにもあると思うのだ。
 それでも、かれは質問に答えることをためらっていた。
 ためらいの理由は、自分の都合ばかりではないのかもしれない。はじめから、エスカは自分のことをあまり話そうとはしなかった。それは事情を知らない少女に告げても、意味のないこと、不必要なことなのかもしれない。しかし、この期におよんで隠し事をする意味など、もうどこにも存在しないような気もする。
 しばし押し黙り、周囲の気配をあらためた後で、かれはやおら決心したようにシアの目を見返した。
「ぼくはある人を捜してこの島にたどり着いた。いま、ディナス・エムリスがどんな状態にあるか、きみは知ってる?」
 シアは首を横にふった。
 ディナス・エムリスは大陸にある王国だ。それくらいのことはシアも知っているが、現実的な存在として認識しているかというと、また別の話だ。交易船の渡来が途絶えたため、現在の島は大陸とはなんのつながりももっていない。大陸へ渡ったことのある島びとの数は、片手で足りるほどだ。そうでなくとも、下働きの身にとって、島の外のことまで考える必要もゆとりもあるはずもなかった。
 反応の鈍さは予想の範囲内だったらしく、エスカは気分を害した風もなくつづけたが、その口調はあかるいものではなかった。
「ディナス・エムリスはいのちの危機に瀕している。闇のちからをよくする王子が都を支配するようになって、かれに従う伯爵たちはみな、多かれ少なかれ闇のちからを授けられた。それは人にとって、いや、生きとし生けるものにとって耐えがたい苦しみをもたらすものだ。ひとはまったき光には耐えられないが、おなじように闇に生きるものでもない。
「大陸は荒廃しつつある。ひとにぎりの人びとが白の賢者のもとに集まり、闇との戦いをつづけているが、最後の希望も潰えかけている。ぼくがそのひとを訪ねるのは助力を得るためだ。ぼくたちは生き残った賢者の塔のひとたちに託されて旅をしてきた」
 紡ぎだれることばには、苦々しい記憶が刻印されていた。その意味するところをなにひとつとして理解しようもないシアだったが、少年の体験してきた長い道のりと恐怖を、凍えるような声に感じとることくらいはできた。
 そんなつらい旅の果てで、こんなふうに歓迎されることになるなんて。
 かれはゆっくりと皮袋を目の前にかかげてみせた。
「きみが見つけてくれたこれの中には、そのひとの髪のひとふさが入ってる。これだけがぼくを彼女のもとへ導いてくれる」
「どうやって」
「これはひとを追うために使われる魔法のわざのひとつなんだ。ぼくは魔法使いだ。魔物じゃなくて」
 エスカは自分に言い聞かせるよう言った後、ため息をつくと、「見習いだけどね」とつけくわえた。
「でも、あたしは…」
 シアは混乱しきってうつむいた。
「やっぱり、ほかの人とはちがうみたい」
 エスカは、少しむっとしたようだった。
「どこが」
「髪の色も、肌の色も、目の色も、それに――」
 あの感覚のことをどう伝えればいいのかわからなくて、シアは口ごもった。
 エスカは肩をすくめていらだたしそうに言った。
「さっきのつづきだね。あのじいさんがなにを言ったのかは知らないけれど、きみは人間だよ。正真正銘、嘘偽りなく人間だ。知恵者セインクシスにかけて、まちがいない。たしかにきみの外見は、ここの人たちとはまったくちがう。でも、それはただちがうというだけのことだ。ぼくに言わせれば、こんなに似通った外見の人ばかりがいるってことは、近親婚をくり返している証拠だ。血が濃すぎるというのは、いいことじゃない」
 シアは困惑をとおりこしていた。
 頭の中がまっしろだ。なにも考えられない。
 エスカの言葉が意味するところは、シアにとっては好都合なはずだった。なのに、どうしてかこんなにめまいがする。
 エスカの目には、まるでいまにもシアが泣き出しそうに映っているようだった。強く言いすぎたことに気が咎めたのか、すこし落ち着きを失っている。
「シア。きみはまだ、あの賢者とやらの言うことに耳を貸すのかい。ぼくたちは殺されるところだったんだよ」
「――それじゃあ、オルジスはあたしを騙してたの」
 たずねながら、自分はもうオルジスを賢者さまとは呼べないと、気がついた。不審の種はずっと昔からあったのだということにも。
 老人が人格者などではないことは、島びとたちも薄々は気づいているだろう。それでも、ひとびとはオルジスの正体をあばきたてて、欠点をひとつひとつあげつらってみようと思ったりはしなかった。オルジスの権威は、ひょっとすると島長よりも上なのだ。それで島の暮らしは上手く運んでいた。
 けれど、これでシアだけは言いきることができるようになった。
 オルジスはひがみっぽくて汚くて、大食らいで、面倒嫌いの年寄りだ。
「でも、なんのために」
 つぶやかれた言葉に、エスカは首をふった。
「その問いに、ぼくは答えられないよ。それに悪いけど、いつまでもここにいるわけにはいかない」
 月の傾きはじめた空を見上げ、海のようすを気にしながら言うエスカの手には、皮袋がしっかりと握られていた。
 シアはたまらなくなった。混乱の収拾は当分つきそうにない。この心細さをわかってほしかった。
 だが、エスカにはせっぱ詰まった事情があるのだと聞かされたばかりだ。かれの迷惑そうな、それでいて後ろめたそうな態度に泣きそうになりながら、自分も一緒に連れていってくれとシアは頼んだ。
 ひとりになったら、どうしていいかわからなくなったからだった。



PREV[Chapter 2-6] NEXT[Chapter 3-2]

妖魔の島 [HOME]

HOME Original Stories MENU BBS

Copyright © 2002 Yumenominato. All Rights Reserved.