しとどに濡れた服を申し訳程度にしぼったあとで、二人は歩き始めた。
エスカのことがなくても、海のそばでぐずぐずしてはいられなかった。
潮はすでに引きはじめている。杭にくくりつけておいたはずの魔物がいなくなっていることに気づいたら、島びとは大騒ぎをはじめるだろう。
濡れた服を通して夜風がふきぬけてゆき、海水にひたった体は少しも温まらない。まだ、疲労のたまった脚は思いどおりに動かないのに、海岸をはなれて道ともいえない獣道をエスカはずんずん進んでゆく。
樹木の生い茂る場所では、葉や枝にさえぎられて月の光もよわよわしい。灌木やトゲのある草にひっかかれて、からだのあちこちには傷ができた。木の根や折れた枝につまずいて転びそうにもなった。それでもエスカは足をゆるめない。ここはシアの縄張りのはずなのに、後ろをついていくのがやっとのありさまだ。
大地が次第に傾斜を強めてゆくにつれ、疲れがどっと押しよせてきて呼吸が苦しくなってきた。シアの足どりは気持ちとは裏腹に、ますます重く、はかどらなくなってもどかしい。
前をゆく少年は、ほっそりとした外見とは裏腹に、木々の合間の道なき道を歩むことに先天的な才能を持っているようだった。昨日まで死んだように眠っていたかれと、悠然と目の前をすすむ人物がおなじ存在だということが信じられなかった。その足どりは、樹陰で暮らす獣たちのように確信に満ちて危なげがない。とくにすばやく動いているようには感じないのに、シアとの距離はひらく一方だった。
まるで人間の身のこなしとは思えない。
そう考えたとたん、脳裏には少年の嫌悪いっぱいのまなざしがよみがえっていた。
シアは足元を確かめることに集中しようとした。
あのときのエスカの怒りは、何に対するものだったのだろう。
責められているような気分になったことを思い出して、いったん棚上げにしたはずの混乱のもとが反射的に思考の中に戻ってきてしまった。
シアだって、怒りたかった。
生まれてからずっと、真実と信じて疑問に思いもしなかったこと。それを土台としてすべてを受け入れてきたことを、突然否定されたのだ。
あらたな真実を提示されはしたが、それをまた鵜呑みにできるほど、シアも子どもではない。
とはいえ、エスカを疑っているわけではなかった。
少年はシアを対等な存在として扱ってくれた、ほとんど初めての他人だ。かれがシアに嘘をつく理由は見あたらないし、嘘をついて喜ぶような人物ではないことは、その生真面目そうな表情からも察せられた。
いっぽう、オルジスに対してこみあげてくるのは、いいようのない怒りだった。
老人にとっての都合で嘘を教え込まれたうえ、体よくあしらわれてきたのかと思うと、胸の中につもってきた不満が凝って熱いかたまりのようになった。少しも疑わずに従っていた自分にも腹が立つ。
それでも、まだ迷いがぬぐいきれない。
オルジスの嘘を嘘と完全に納得して、エスカの真実を受け入れるためには、老人と自分への怒りだけでは、まだ足りないようなのだ。
できることなら少年をとどめて、質問責めにしたかった。エスカはまだ、疑問のすべてに答をくれたわけではない。
感情にまかせて乱暴に足を踏み出したとたん、湿った平たい石に滑って、ころびそうになった。あわててそばに生えていた樹の固い幹にしがみついて、シアはため息をつく。
暗い樹林の中に、まるで行く手をしめすかのように月光がほそい帯となってふりそそいでいる。そのむこうにエスカの背中が見えた。
ひんやりとした夜気のなかで、その姿はまるで、ひとならぬもの、定命のことわりからはずれたところで息づく、触れてはならぬもののようだった。
月の輝く夜に、馬に乗って海を渡ってきたという母親のことを、シアは思った。
その夜の光景は、もしかするとこんなふうだったのだろうか。
シアとおなじ髪をした女性が、白い浜におりたち、銀色の光の粒子を身にまとわせている様を見たひとびとは、この世ならぬ場所に踏み込んでしまったような、深い不安と畏れにとらわれたのだろうか。
「だいじょうぶかい」
幹にしがみついたままのシアに、エスカが気がついて呼びかけてきた。シアはおもむろに体勢を整えると、擦った掌の痛みをたしかめながら前方に追いつこうと足を早めた。
母親はどうやって島にやってきたのか。
そんなことはもう、どうでもいいことのような気がしていた。
ここはよそ者が誰も来ないところではない。船があれば、来られるのだ。ごくまれにではあるものの、来ようと思ったものはやってきた。現にここにはエスカがいる。漂流しながらではあるが、かれは島までたどりついた。
それより、知らなければならないのは、どうして死んだのか、そのわけなのだと、いまになってシアは気づいた。魔物であろうとなかろうと、死には理由があるはずだった。
なぜ、シアの母親は死んだのだろう。
そして、なぜ、魔物の子どもだと言いながら、オルジスはシアを育てたのだろう。
息を切らしながらようやくエスカに追いついてみると、少年は暗闇の中でしずかにたたずんでいた。ずっとうすい背中しか見ていなかったので気づかなかったのだが、かれはなにかにとまどっているようだった。眉を寄せて考え込んでいるので、なにがあったのか尋ねてみると、
「たしかに、この先なんだ」
自分に言い聞かせるような口調だった。
シアは瞳の先に視線を転じた。
樹陰はとぎれていた。傾きはじめた月が背後から紗のような光を降らせている。普段とはちがうところから見ていたせいで思い出すのに時間がかかったが、うかびあがる黒々とした影の連なりは、慣れ親しんだ地形の一部に違いなかった。
「このむこうは、谷だよ」
そうしてシアは、困惑の理由を悟った。
「谷に住んでいるのはオルジスだけだよ。その人、本当にこの島にいるの?」
ほんの数時間前、杭に縛りつけられて海に置き去りにされた。あのとき浜にいたのが島の住民すべてなのだ。
「ほかには、だれもいないよ。住めるようなところもないし」
「いるはずだ。感じるんだから」
エスカは後の言葉に自分に言い聞かせるように力を込めた。
「とにかく、行ってみる。形跡はたしかにあるんだから、手がかりくらいは見つかるはずだ」
切り立った壁のような崖にはさまれて、谷は黒く深い河のように見えた。
しばし風向きをみるように意識を集中させていた少年は、じぶんの感覚を頼りに、また前進をはじめた。今度はいままでよりももっと足早で、シアはすぐにひきはなされてしまった。
夜の樹林は昼間の薄暗さとは違い、塗りつぶされたような暗さで、人間を圧倒する。
シアは何度も足を取られてころびそうになり、幾度かは本当にころんだ。
暗くてまわりがよく見えない上に、エスカを見失うまいとするために足元を見ている余裕がない。
エスカは、谷へといたるであろう傾斜を、すでにかなりくだり終えていた。
草と衣服のすれる音、枯れ枝の踏みしだかれるかるい音が、かれの存在をかろうじて教えてくれる。シアの居所も、この騒々しい音でわかるはずだった。
ふたりは、静謐であるはずの夜の林の安寧を乱す侵入者だった。縄張りを侵された獣たちに緊張と不安がはしる。樹上からみつめる金の眼は、夜行性の鳥たちのものだった。
シアは生きものたちの静けさ――沈黙に気づいて驚いた。
音に怯えて逃げだすものもいたが、まわりには息をひそめてなりゆきを見守っている獣たちの気配がたくさん感じられた。人間のにおいが風にのって運ばれてくるだけでも神経過敏になり、足音が聞こえようものなら一瞬の後に身をひるがえす敏捷なものたちが、こんな騒がしさの中でじっとしている。しずかに身をひそめて、ふたりを見守っているのだ。
エスカにつづいて谷の縁へ足を踏み入れながら、シアは異様な状況の意味がわからずに不安をつのらせていた。
谷は、あるじの留守に訪れた客によそよそしい顔を見せていた。
よどんだ重たい空気が、今夜はまるでねっとりとからみつくように感じられる。
賢者の住処が見えてくると、エスカは足を止めた。
シアが説明してやるまえに、小屋の住人が何者なのか、かれにはわかったようだった。
小屋は太陽の下で見るよりも、ずっとうらぶれて見えた。まるで拗ねてうずくまっているようだった。
エスカは小屋には近づこうとはせずに、さらに谷の奥へと歩みつづけた。
両側にそそりたつ、壁のような崖――谷は、もとはひとつづきの大地だった地面が、あるとき二つに裂けてできたもののようだった。裂け目が一番大きいところが、オルジスの小屋のあるところ。そこにはわずかながら水が湧きだして、日光の恵みをあまり必要としない植物が育っていた。
このちいさな広場のような場所はしだいに狭くなっていく。裂け目の幅は、奥へ進むにしたがい狭まってゆき、しまいには人も通れないくらいの、ただのひび割れになってしまう。頭上をあおぐと空が見えるが、洞窟のように閉塞感のある場所だ。知るかぎり、ここを訪れようとするものは、誰もいなかった。
「災いをもたらすものがここに封じられているんだって…」
シアはすこしきまり悪そうにつづけた。
「オルジスが言ってた」
「災いをもたらすもの――魔物のことかい」
エスカの問いにうなずきながら、ひとりで狭くなっていく道を奥へ奥へと歩いていった幼いころを思い出した。
ほったらかされていた彼女は、たいていひとりで遊んでいた。そのときも鍋と格闘していた老人は、育てている子どもがいなくなっていることにかなり長い間気づかないでいたはずだ。なぜなら、シアは、裂け目が狭くなりすぎて、どうにも先には進めないところまで行ったあげくに、引き返してくる途中で、血相を変えて走ってくるオルジスと出会ったからだ。
老人はシアをさんざんに叱りつけた。
理由を尋ねることは許されず、ただただ怒鳴られ、頬を打たれた。そのあとで、二度とあそこへは行くなと厳命された。魔物のことを知ったのは、館で奉公をはじめた後、ティストが教えてくれたからだった。
「あの塚には、魔物が埋めてあるんだ」
そういうティストの言葉には、怖れと不安とがこもっていた。作男の暗い表情におそれをなしたシアは、それ以上のことを聞く気持ちを失った。無意識のうちに、触れてはならない、禁忌の存在を嗅ぎとってしまったからだった。
ティストは今頃どうしているのだろうか。
エスカは首に下げた皮袋に、伺いをたてるように指をあてると、眉をよせてしばし考え込んだ。
「その魔物っていうのが気になるな。もしかすると…」
「どうしたの」
不安をあからさまにして尋ねるシアを、浮かない表情のまま見返すエスカ。かれは谷の死んだような静寂に怯えているようだった。かれはシアをうながして歩きはじめた。
「そっちは魔物の塚があるほうだよ」
シアが辺りをはばかるささやき声でとどめようとすると、驚いたようにふりかえって彼女をみつめ、そっとことばを押し出した。
「だとしたら、やっぱりそこにいく必要がある」
「どういうこと」
エスカは答えずに走り出した。一瞬遅れて、シアも追いかける。
濃くなってゆく闇への本能的な畏れよりも、ひとりで置き去りにされることのほうがずっと怖かった。
封じ込められているという魔物は、おそらく彼女の母親だとされているあの魔物。波の上をすこしも濡れずに渡ってきたというあの魔物なのだ。
ティストのまなざしが語っていたのは、そのことだったのだ。
かれは心底そのことに触れたくないようすで、しぶしぶ谷の底にある塚のことを話してくれた。
シアはあのときはじめてティストを怖いと思ったのだった。もちろん、男は幼いこどもを怖がらせようとしていたわけではない。それは自分と相手との間にある深い溝をかいま見たシアが、無意識のうちに感じ取ったおそれだったのだろう。あのときのまなざし、嫌悪や不安や恐怖をたたえるまなざしは、いまのよそよそしいティストのまなざしとおなじものだ。
ティストにあんな顔をさせるような、なにが、この島で起きたというのだろう。
魔物に関する人々の話は、禍々しく、おそろしく、気味が悪いものだった。それが母親の性質だというのなら、娘であるシアが魔物であったとしても、少しも不思議ではない。
しかし、オルジスが嘘をついていたのだとすると――
「ここだ」
かすかに荒い呼吸とともに、エスカの声がシアの足を止めた。
突然動きをとめたことに反発したからだが、逆らって出した前への一歩で、シアはエスカの素肌の背中にぶつかった。
「なに。なんにも、見えない――」
うわずった声でつぶやきながら見まわすと、暗闇の中で小さな光がぽっと灯った。
光は赤くも青くもなく、炎のように立ちのぼるのでもなく、エスカの左手の人さし指にやどって、ほのかにあたりを照らしだした。
崖は、今では端から端まで、シアの足でも十歩ほどでたどり着けそうなほどに狭まっていた。
苔やシダがあたりを覆いつくしていて、湿ったつめたい空気とそれらのにおいとがよどみ混じり合った不思議なにおいが鼻を刺激する。
エスカが腕を伸ばして光を前方へとうごかすと、すこしばかりまわりよりも高まった小山のようなものが見えた。そこだけは植物の進入を受けずに黒々とした土が覗いている。高まりの上には、マリ・イスタの樹でつくられた魔よけのしるしが深々と突き刺さっていた。
魔物の塚だ。
シアは息を呑んだ。
しるしの向きがおかしいのだ。
斜めというより、ほとんどさかさまだ。
悪質ないたずらの犯人を、シアは知っていた。オルジスの目を盗んでは遊びに来ていたころ、ほかならぬ彼女が、木製のしるしを引き抜き、誤った向きのまま戻したつもりになっていたのだ。
無知な幼いころに侵した冒涜のあかしに動揺しているシアの目の前で、エスカはさらに彼女を恐怖に近い驚きでみたす行為をしてのけていた。
ひとかかえほどもある魔よけのしるしを地面から引き抜いて、かとおもうとごろりとシダの茂みにころがしたのだ。
無造作なやりかたに、シアは思わず悲鳴をあげた。
「魔よけのしるしを、そんなふうに」
非難されたエスカは、顔をしかめた。
「ぼくもきみも魔物じゃない。とすれば、この下にいるものだって魔物じゃないさ」
声がふるえているのは、畏れというよりもむしろ、怒りのためのようだった。少年は感情を押し殺そうとするように、喉をひらかずに言葉をたたきつけた。
「封じられているのは、魔物なんかじゃない」
エスカは塚の上にひざまずいて、むきだしの黒い土の上にそっと掌をあてた。
左手の光が、わずかばかりの空間をほのかに明るく照らしだす。
絶望にうちひしがれる白い背中に、シアは呆然となった。
「たしかに、たしかにここだ。まちがいない」
「ねえ、エスカ」
シアはいたたまれなくなって尋ねた。
「ここに埋まっているのは…魔物なんでしょ」
だが、彼女の必死さは少年の激情にはねかえされた。
「魔物なんかじゃないって、何度言えばいいんだ。ここに埋められているのは白の賢者の一人娘、メリアナ・グラガードだ。彼女の…骨が、ここに埋まってる。たったひとりで魔物と貶められ、怖れられて…なのにぼくたちは、彼女の死さえ知らずに…」
嘆きは叫びからしだいに静かにうめくようなものになっていった。むりに嗚咽をおしころそうとしているようなそれを聞きながら、シアは無言で塚を眺めていた。ある一点だけをみつめてたしかな証拠となるようなものをなにかとらえようとするのだが、うまくいかない。どうしても、焦点が合わなかった。
頭の中もおなじだった。ひとつのことが考えられない。
月光にうかびあがる魔の馬の幻影や、おそろしげな魔物の顔。黒い頭巾のオルジスや、松明を手につめよるひとびとの姿が、めまぐるしく入れかわっては消えた。
まるで、夢かまぼろしだ。遠い世界の他人事を見ているような気分だった。
魔物だったシアも、人間だったシアも、じぶんとはまるで別の存在であったようなへんな気分だった。
現実が自分を通り越して先へ行ってしまう。
彼女はまだ、館の下働きのシア、賢者に育てられた孤児のシアのはずなのに、なんだかそれもまた偽りのような気がするのだ。
しばらくして、光が消滅した。
いままで見えていたエスカの姿が、闇の中へと沈んだ。
シアは自分がすっかり暗闇にとりまかれていることに気づいた。月光はここではなんの役にも立たない。イリアはすでに崖のむこうへと隠れてしまっている。
エスカの気配はまだ目前にあった。
名を呼んだが、返事がない。
「どうしたの」
立ち上がる気配に、もう一度訊ねる。
「エスカ?」
「すこし、黙って」
緊張と不安のあふれる声にシアは我慢できずに叫んだ。
「なにをしようっての。もう死んでるんだよ。魔物じゃなくても、死んでるのに、どうしようもないじゃない」
そうだ。死人なのだ。
とうの昔に死んでしまった人なのだ。
知りたいこと、どうしてもはっきりさせたいことに、これ以上ないほど確実に答えられるはずの人物は、ほかにはいない。シアの母親なのだ。なのに、もう死んでしまっている。なにを訊ねても答えてはくれない。
たとえ、答える気があったとしても。
「答えてもらうんだ」
シアは絶句した。次の瞬間、喉元までうつろな笑いがこみあげてきた。
それを飲みこんだのは、エスカの口調に、いままでで一番力がこもっていたためだった。