第四章 賢者の小屋



 暗闇を探るようにやってきた道のりは、暁の光の中で歩くと思いのほか短かった。
 ふたりとも無言で、冷えた大気に漂うかすかな靄のむこうに、みすぼらしい小屋をみとめると、ほぼ同時に足を止めた。
 明け方に鳴く鳥たちの声以外に、周囲を騒がせるものはない。
 シアはふと、崖の上にとまっていた金色の鳥のことを思い出して、まだ完全には夜の明けきってはいない空を仰いだ。けれど、いつも飛んでいる海鳥以外の姿は見えなかった。
「だれもいない」
 エスカが小声で言い、ふたりはひとけのないオルジスの根城の中へと入り込んだ。
 狭い小屋の中は、最後にオルジスとシアが出ていったときのままだった。
 押し上げ窓を半開きのままにしておいたために全体的に湿っぽく、素足に触れる敷物が水を含んだように冷たかった。火のない炉には、オルジスの薬の入った鍋がかけられたままだ。小屋自体にしみこんでしまっている臭いが、完全に消えてなくなることはないだろうが、それでもいつもの鼻をつくような刺激は感じない。
 框をまたぐと、シアは炉の奥へと一直線に進んだ。暗い空間を見渡して乱雑で埃のふりつもったありさまに眉をひそめていたエスカは、少女が大きな箱を毛皮のなかから引きずりだそうとしているのに気づいて、寄ってきた。
「オルジスの大事なものは、みんなこの中にあるはずなんだ」
 説明しながら長持ちを閉ざしている金具を外そうとする。がちゃがちゃと大きな音を立てる金属に、ふたりとも苛立ちをつのらせたが、錠がかけられていたわけではなかったので、蓋を開けるのにそれほど苦労をすることはなかった。
 年季の入った黒ずんだ長持ちの中身は、オルジスが常日頃たいせつにとりあつかい、そのようすをシアにさんざん見せびらかしてきた、いくつかの品々だ。
 シアはまず、一番上に置かれていた、四隅に金具の補強をほどこされた、ふるびた革装丁の本を取りだした。
 受け取ったエスカは、ざらついた表紙の半ば消えかけた金箔押しの題名を見て、退屈そうに言った。
「薬草の見分け方だ」
「魔法の本じゃ、ないの」
 首をふって、エスカは次をうながした。
 本の下には、インクで細かい文字のしるされている、しみだらけの反り返った羊皮紙が一枚。もとは濃くしっかりと書かれていたのだろうが、すっかり褪せてしまい、ところどころは消えかけているものだった。エスカはこれをざっと眺めただけで放りだした。
 それから、つぎつぎにあらわれるオルジスの宝物で、魔法使いの眼鏡にかなうものは何一つなかった。高貴な男性の横顔を刻印された銀貨の繋がった鎖や、正体不明の獣の鉤爪が、役に立たないものとして本の上に積み上げられていく。
「本当にその中にあるんだろうな」
 エスカは低い声でいらだたしげにつぶやいた。
 老人が後生大事に守りつづけてきたものが、すべて無価値であるらしいという事実に自信を失ったシアは、長持ちの底にあった最後のひとつを、おずおずと差しだした。
 それは粗末なよごれ布につつまれていた。無造作に受け取って、そのままがらくたの山に放り投げようとしたところで、エスカは目をみはった。鋭い痛みが、てのひらを突き抜けたからだ。
 エスカはあわてて布をはぎ取った。ぼろ布の中に隠れていたのは、夜の空のように濃い青色をした、透きとおった大粒の宝石だった。
「クウェル・シルアーリン」
 その名をささやくと、まるで触れられるのを嫌がるように、石はてのひらに痛みを起こさせた。思わず取り落とすと、首から下げられるようにととりつけられたと思われる黒ずんだ銀の鎖とともに、かろやかな音を立てて床に転がった。
 シアは、エスカと石を見比べて、なにが起こっているのかを必死で理解しようとしていた。かれは青い石から視線をシアに移して、尋ねた。
「この石を持ったとき、なにか感じなかったかい」
 怪訝そうに首をふる少女に、エスカは石をとるようにと言った。
「メリアナさまのおっしゃっていた石というのは、たぶん、これだ」
 シアはおそるおそる手を伸ばし、鎖をつかんだ。エスカは手をさすりながら、そのようすを見つめていた。ほこりまみれの小さな手の中に、気むずかしい石がすっぽりとおさまっても、少女の表情に変化はない。かれはほっと肩の力をぬいた。
「それを持っててくれないか」
 どうやら、クウェル・シルアーリンはシアには害を及ぼさないらしい。シアは美しい石を手元における嬉しさに目を輝かせた。
 エスカは痺れた手をもみほぐしながら、少女に出発をうながす前にあたりを探ろうとした。
 ところが、視界が少しも広がろうとしない。
 体が急に重たくなったような気もしていた。
 一晩に体験してきたことをかえりみると、疲れていないほうがおかしいのだとは思う。これまでは、興奮した意識が疲労を自分のものとして感じさせていなかったのだろう。まるでじぶんを試練から守っていた目に見えない力を急にはぎとられ、いきなり相応の荷物を背負わされたような気分だった。
 エスカは魔法の力を使うことをあきらめ、気配を感じとることに意識を集中した。身にそなわった方の能力は、未だかれを裏切りはしなかった。からだの隅々までが野生の動物のように敏感になり、朝露に濡れた谷のつめたい大気にうごくものを感じとろうとする。
 シアはエスカのようすにそわそわと周囲を気にしはじめた。
 谷のなかにはまだ、人の気配はない。
 だが、あと少しのところまでせまっているのは確かだ。大勢の気配が、押し寄せるように近づいている。
「はやく、ここを出なければ」
 こめかみを押さえながらのうめき声に、シアは事態の深刻さを理解した。彼女は大急ぎでオルジスの宝物を長持ちに戻しはじめた。すべてをかまわず投げ入れると、乱暴に蓋を閉める。留め金がぶつかった衝撃で、大きな音が小屋中にひびきわたった。
 ふたりは驚いて顔を見合わせたが、次の瞬間に決意を固め、小屋を出た。
 外に出ると風にのって流れてくるにおいや気配で、シアにも追っ手がせまっていることが感じられるようになった。朝日が崖の上を白く輝かせ、谷全体にも太陽の光の影響が及びはじめていた。大空のあるじメルカナンは、すべてを明るく照らし、あばきたてる。陽光の下でシアは、暗がりにいるときよりも、ずっと無防備になってしまったようだった。
「ここから、どこへ――」
 行くのと尋ねようとしたとき、傾いた地面の向こうから、彼女のよく知っている人物が現れた。



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