突然オルジスに躍りかかり、むりやりにその口を封じ込めた人物は、肩で息をしながらがくりと膝をついた。倒れた拍子に頭を打ったのか昏倒した老人の隣で、そのまま共に気絶してしまうのではないかと思われるほどに血の気の失せた顔をして、自分のした事実になかば恐れ、なかば陶然としているようだった。
「ティスト……?」
 シアがおそるおそる声をかけると、男はかぶりをふり、ゆっくりと我にかえったように顔をあげた。
 大柄な男の目は、少女を認めたとたん前髪の奥でわずかに細められた。だが、視線はもう、逸らされなかった。
「おれは、おまえたちを助けることにした」
 立ちあがりながら、ティストはそう告げた。ほとんど怒っているように聞こえるぶっきらぼうな口調だ。
「もうひとりは、どうしたんですか」
 エスカの問いにシアははっとなった。カリアスは、他の人々に知らせに行ってしまったのだろうか。
 だが、返ってきた答えはちがっていた。
 ティストは、島長の息子には少しばかり眠ってもらっている、と言った。
 どうやら小屋の中に踏み込む前に、いかなる手段をもってかカリアスを気絶させたものらしい。滅多に逆らわない作男の突然の攻撃に、驚く間もなかったのではなかろうか。
 ぐったりとしたカリアスを運び入れたティストは、大きな図体をオルジスのとなりの寝藁の上に横たわらせた。それは優しいといってもいいほどの手つきで行われたが、うちに秘めた激しいものが吹き出したときに、どれほどのことを男がしてのけるかを見せつけられたあとでは、なんだか、奇妙な印象を受ける光景だった。
 これまでティストが無害な存在として認識されてきたのは、じつは大きな誤りだったのではないか。
 シアは、たくましい肉厚の手やもりあがる筋肉と、寡黙な険しい表情をもつ男を、はじめて出会った人物のように眺めている自分に気がついた。
「おれが戻ってくるまでに、このふたりを動けないようにしておいてくれ」
 ティストは年下のふたりを交互に見ると、きびすを返して小屋から出ていってしまった。
 足音が遠ざかっていくのを聞き届けたふたりは、顔を見合わせて肩を落とした。
「いまのは、だれだい」
 寿命がちぢまったというため息のあとで、エスカはこめかみを指で押さえながら尋ねた。
「館の作男で、ティストっていうんだ」
 それからシアは、かれが島の中で一番自分に親切で、身近な存在であったことを、遠い思い出のように感じながら話した。
 エスカはなにかを考えるようにして話を聞いていたが、おもむろに体をおこして、あたりを見まわした。
「なに」
「縄かなにか、ないかな」
 シアは、少年がティストの命令を実行するつもりでいることに思い至った。
「ティストを信用するの」
「かれは嘘をつくような人間じゃないよ」
「でも――」
 煮え切らないシアに、ためこまれたがらくたをあちこちひっくり返しながら、エスカはつづける。
「かれの目は偽りを語るものの眼じゃなかったよ」
 縄は、小屋の隅の、道具置き場とおぼしきかび臭い小山の中に見つかった。舟でももやうのに使っていたものだろうか。ずいぶん持ち重りのする縄だった。そのうちの何本かを渡されたシアは、カリアスの足首を縛りはじめたエスカの横で、老人の手首を背中にまわして、縄をぐるぐると巻きつけはじめた。
「どうしてきみが疑うんだ。仲がよかったって、さっき話してくれたじゃないか」
「それはエスカが来るまえのことだもん」
 この縄でうまく縛りあげるのは、骨だ、とシアは思った。湿って黒ずんだ縄は、二重、三重に巻きつけられたあと、結び目をつくろうとする試みになぜか抵抗しつづけている。
「エスカが来てから、ティストはあたしに冷たくなった。話しかけても、返事してくれないようになった。へんなものを見たような顔をして逃げだすようになったんだ。あたしはなにもしてないのに」
 エスカは手を止めて少女を見たが、すぐに作業に戻った。
 シアはまだ不機嫌そうに口をへの字に結んでいる。ぎりぎりと力一杯に縄を締めるため、オルジスの手首は硬い縄が深く食い込んで、血管が青く浮き出していた。エスカはこれを見とがめて、注意した。
「こんなに締めたら、手首から先に血が通わなくなる」
 シアは怒ってエスカを見返す。
「いいじゃない。こいつが母さんにしたことに比べれば、たいしたことじゃないもん」
 さらにきつく締めようとするシアの手を、エスカは強くはたいた。
「だめだ」
 縄を取りあげられて、シアはくちびるを噛んだ。
 エスカの長い指は、意外なくらいに手際よく、きつすぎず緩すぎず老人の腕を縛りあげ、足首もおなじようにして、手助けなしでは動けないように固定した。
「追ってこられないようにするのが目的なんだから、これでいいんだ」
 青い眼につよく問いただすようにのぞきこまれて、シアはしぶしぶうなずいた。
 エスカがカリアスの足を縛りあげるのには、ものの数分もかからなかった。老人と若者、ふたりの敵は、意識を失ったまま、薄暗い小屋の中にならんで横たわっている。もし目覚めたとしても、助力者があらわれない限り、ふたりは立つことすらできないはずだ。
「ティストは、どこへいったんだろう」
 なかなか戻ってこない作男に、かれを信用できないシアはイライラとしていた。
「他の人たちのところだよ。なにか、時間を稼ぐようなことを言いにいったんじゃないかな」
 平然として言うエスカに、シアは黙り込んだ。どうやら、少年は本当に作男を信用することに決めたらしい。むしろ、彼女が不審をあらわにするのを不思議がっているようだった。理由をさぐるように、いぶかしげに彼女を眺めている。
 たしかに、ティストがどんな人物なのか、シアはよく知っていたはずだった。
 無口で、真面目で、親思いで、けっして浮ついたところのない、年のはなれた兄のような存在。そして滅多に感情を表に出さない、自制心のかたまりのような人間。とっつきにくく、誤解を受けやすい人。でも、本当はとてもあたたかい、人一倍神経の細やかな……それがティストのはずだった。
 だから信じられなかったのだ。
 母親が魔物だと聞かされたときよりも、ティストに冷たくあしらわれるようになったときに受けた衝撃は大きかったかもしれない。
 ティストは、もう自分に笑いかける気はないのだ。それどころか、言葉を交わすのも、ただおなじところに立っていることすら、いとわしいのだ。
 そのことを受け入れるのに、シアが幾度涙をのみこんだのか、エスカは知らない。もちろん、知るわけはないのだが、どうすればわかってもらえるか、そもそも、わかってもらいたいのかもシアにはわからなかった。
 小屋に戻ってきたティストは、オルジスとカリアスのいまだ意識の戻らぬ姿を見て、うなずいた。シアは男の顔を見ようとはせず、その大きな手のうごきだけをみつめている。
 ティストはシアを無視することで彼女を意識していることを露呈していたが、それに気づいたのはシアではなく、エスカの方だった。
 島長たちは、賢者が魔物を追いかけて行ったという報告を真に受けて、我先にと谷の奥へ突進していったらしい。そのことをティストはわずかな言葉で説明すると、ぼそりとつけ加えた。
「これから海岸へ行く」
 すぐに背を向けようとするのを呼び止めたのは、エスカだった。
「ちょっと待ってください」
 言いながら少年はオルジスの背後に身をかがめた。苦労してとりだしたのは、老人が長年身につけていた指環だった。かれは抜き取ったそれを、眼の上にかざした。そして、確かめるようにぐるりとまわして眺めると、シアの前に差しだした。
 唐突な行為に面食らったシアは、魔法使いの指にはさまれた指環と、魔法使いの顔とを見比べた。
「受けとって。これはきみのだ」
 指環は、薬草の汁や埃にまみれて汚かった。けれどシアは、エスカのまなざしから、それがただの指環ではないのだということを悟った。
 これは母の指環なのだ。
 シアは指環を受け取って、はめた。肉のついていない指には、少し大きすぎた。硬い金属の感触は、おもったよりもわずかに重く、彼女は手を握りしめて落ちないようにと念じた。エスカはそのようすを見守ると、顔をあげたシアにうなずき、ティストをうながした。
 ティストは少年の視線に明らかにうろたえて、体の向きを変えた。
「急ぐぞ」
 怒ったように言うと、男は足早に歩き出した。
 シアとエスカはその後を追って、谷をぬける道へと出ていった。



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