ティストがふたりを導いたのは、ふだんシアが小屋へと来るときに通るものとおおむねおなじ道だった。というのも進める道は一本しかないからで、切り立った崖にはさまれた狭い道をぬけてしまうまで、どんなに離れたくとも不可能だったからだ。
 逃げ場のない一本道が視界のひらけるところまでたどりつくと、ティストはすぐに道を外れて、獣道に足を踏み入れた。
 今度歩くことになったのは、きつい傾斜に植物の繁茂するしめった獣道だった。曲がりくねってつづいている道の間をすりぬけてゆく近道だ。ときどき、きちんと手入れのされた道に出会うので、館の方向へ向かっていることはわかった。島のどのあたりにいるのかがうっすらと見えてくる。
 谷の奥へと行ってしまったはずの島長たちも、いつかは自分が欺かれたことに、あるいはまったくの見当違いの方向にやってきたことに気づくだろう。
 できるかぎり距離を稼いで先へ進んでおかなければならない。
 無言で先頭を進むティストの大きな背中を追いながら、シアは疲労で頭がぼんやりとしてきた。
 昨夜から、こんな場所を歩くのは二度目だった。コツをつかみつつあったものの、やはり体が重い。おまけに、昨日の昼からものを食べていない。完全に燃料切れの一歩前である。
 足にからまる草やつるを、ほどく間もなくひきちぎる。
 樹の幹に捕まりながら、ようやくのことで体を引っ張りあげる。
 植物のはなつ香気が鼻腔を刺激するのだけが、さだまらない意識の中で灯火のようにかんじられる。
 シアははあはあと息を切らしながら、陽光が射し込みはじめ、うっすらと靄のかかった林の中をおぼれかけた人のように歩いた。
 遠くなりつつあるティストの歩みは、昨夜のエスカを思い出させた。
 そのエスカは、疲れたシアよりもさらに大儀そうに自分の体を運んでいた。
 張りだした木の根や、石や草につまずいて、そのたびにあちこちにしがみつくシアのようなことはなかったものの、足どりがふらふらと危なっかしい。昨夜、シアを感嘆させたかろやかさは、すっかり消え失せていた。
 斜面を登りきり、林の途切れるところまで来ると、少年は地面に倒れ込んで、裸の背中をふるわせた。
 しろい肌が、まだらに赤く灼けていた。それはシアの記憶の通りだったが、太陽の光のもとでみる姿はひどく痛々しいものだった。そして、痩せたからだに刻まれたたくさんの傷。
 この島に流れてきたときに、かれはすでに傷を負っていた。薄暗い納屋の中で、オルジスが自作の軟膏をもったいつけながらすりこむのを見たのは、まだ数日前のこと。先の尖ったものでさんざんにつつきまわされ、えぐられたような傷に、いったいどうしてこんな傷を受けたのだろうと不思議に思ったものだった。
 そのうえに、昨晩縛りあげられたせいでついた縄のあとが、あちこちに青黒く残っていた。島びとは、シアにはすこし手加減をしたのかもしれないが、エスカが情け容赦なく力任せに組み伏せられたのはあきらかだった。縄のあとは無惨に前の傷に重なっており、ふさがりかけていた傷がやぶれて、血がにじみ出している。
 シアが口もきけずに座りこんでいると、ふたりの息がととのうのを待っていたティストが、無表情に言った。
「行くぞ」
 言葉が理解されたかどうかを確かめようともせず、ティストはくるりと背を向けて歩き出した。
 シアはがくがくと笑う膝に力を込めて立ち上がると、大きく深呼吸をしているエスカをのぞき込んだ。エスカは心配そうなシアに気がついて、かすかに笑ってみせようとした。
「だいじょうぶだよ」
 言葉とはうらはらに、かれはかなりの努力をして体をおこすと、さらにしんぼうづよく立ち上がってみせたものの、足を踏み出そうとしてたちまちよろけた。あわてて支えようとしたシアの手が、湿った傷に触れる。少年はびくりとした。
「ごめん」
 あわてて謝ると、エスカはしかめ面をしながらも首を横にふった。気にするなと言いたいらしい。
 今度は慎重に場所を見きわめて、手をふれた。
 エスカはできるだけ彼女に頼るまいとしていた。シアはかれよりも背が低いし、ひどく痩せていて、とても人ひとりを支えて歩くほどの力があるとは思えないのだろう。
 よりそってみると少年の消耗はいっそうあきらかになった。ひらかれたままの口から浅い呼吸がせわしなくくり返され、胸はぜいぜいと悲鳴をあげている。
 だから、シアは断固として手を離そうとはせず、よろめくたびに自分も倒れそうになりながら踏んばった。
 ティストは足を止め、よろけながら近づいてくるふたりを待ち受けていた。
 とほうもなく長い時間が費やされた後でようやく目の前にたどりついたふたりを、ティストは険しい顔をして眺めた。
 シアは肩で息をしながらティストの顔をつよく見返した。
 厳つい男の顔が、ふとゆるんだ。かれはエスカのあいている方の腕をとって自分の肩に掛けると、
「こっちに身を預けろ」
と命令して、前に進みはじめた。
 林をぬけてしまうと、ひとびとが風を避けてかたまり住んでいる集落はすぐだ。
 いちばん端にある家が視界に入るところまで近づくと、ティストはふたたび道を逸れた。
 シアは遠く小さく見える家の中から、だれかが覗いているように思えて、気が気ではなかった。
 林を出てしまうと、あとは海まで身を隠せるような樹木の影はない。
 丈の低い草の生い茂る中、太陽の光を浴びて、見通しのよいところを歩かなくてはならなかった。
 ティストは相変わらず無言だ。大股に、年少のふたりを引きずるようにして館の方向へどんどん近づいてゆく。どうやらかれらは、井戸を回って館の裏へ出ようとしているらしい。
 遠くから見る館は、一見いつもと変わりはないようだったが、近づくにつれ、それはとんでもない間違いであることがわかってきた。
 昨晩、ふたりが捉えられた納屋のあたりを中心に、大勢の人間が足を踏み入れたあとがはっきりと残っていた。踏みつぶされた草草や、ほうりだされたさまざまな道具。それにうち砕かれた納屋の戸などが、狂気のなごりとして無惨な姿をさらしていた。
 館の方を見ると、煙突から煙が出ている。
 だれか、なかにいるのだろうか。
 納屋をとりまいていたものの中には、すべての島びとがそろっていたが、あれから家に戻ったものもいただろう。誰もがふたりを追っているわけではなかったのだ。そう気づいて、シアはほんの少し、ほっとした。
 おそらくそんなことはすでに知っていたのだろう。ティストは館には目もくれず、足の運びが遅くなったシアに咳払いで注意を促した。
 かれらは独特なにおいのただよう羊の柵に近づきつつあった。小作人のふるぼけた小さな家が、そのむこう側にひっそりと建っている。柵の中では放牧を待っていた羊たちが騒ぎ出していた。柵に縛りつけられていた犬が、シアを見つけて高く吠えはじめたからだ。
 ティストが苦々しげな顔を向けるまでもなく、シアはシルグに向かって走り出していた。ほとんど目を閉じてひかれるままに歩きつづけていたエスカは、なにごとかと顔をあげた。ティストは急に足を早めて、小屋をめざした。エスカは犬をなだめるシアの横を引きずられるように通りすぎていった。
 シルグはほったらかされていたのがよほど辛かったらしく、柵につながれたままシアのまわりをぐるぐると回り、不満を訴えた。どんなに静かにしてと頼んでも駄目だった。飛び跳ねながらしっぽをふり、喜びの声をあげるシルグをおさえようとしながら、いまにも館から人が出てくるのではないかと焦りが増して、余計に落ち着かせることができない。
 小作人小屋を見ると、エスカはすでに中へ入ったらしく、ティストが戸口で身振りで早く来いと言っていた。だが、ここで離れればまたシルグが騒ぎ出すだろう。
「お願いだから、静かにしてよ」
 大声を出すわけにも行かないので、小声で命ずるのだが、シアの心が急いているのがわかるのか、少しでも行こうという素振りを見せると吠えるのだ。泣きたい気分で、もう一度言い聞かせようとしたとき、館から声がかかった。



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