「だれか、帰ってきたのかい」
 マージだ。
 居間にいるらしい物音がする。
――はやく、来るんだ
 エスカのつかれた声が頭の中で響いた。
 シアが跳ねるシルグを見てぐずぐずしていると、苛立たしげにもう一度。
――犬は抑える。はやく
 半信半疑のまま、シアはすがるシルグから離れて、ティストが待ち受けている小屋の出入り口まで懸命に走った。中に飛び込んだのと、奥方が声をかけながら出てきたのは、ほとんど同時だった。シアは框を超えたとたんに衝撃に息を呑んだ。先にたどり着いて、心配しながら戸口のそばで待っていたエスカにぶつかってしまったのだ。ふたりはそのまま、もつれあいながら床にたおれこんだ。
「どうしたの、ティスト。おまえなの」
「はい、奥方さま」
 ティストは前へと歩み出ると、後ろ手に戸を閉めた。
 姿が見られなかったことを願いつつ、シアは小声で謝った。エスカはあきらめたように無言で首をふり、そのまま、ほんの少しの隙間からもれてくる会話に耳を澄ませた。
「シルグが吠えていたようだったけど、なにかあったのかい」
「鳥にからかわれていただけですよ」
「それならいいんだけど。それはそうと、うちの人やカリアスとは一緒じゃなかったの」
「島長は賢者さまたちと谷の奥に向かわれました。おれは親父が心配だったんで、ちょっと戻ってきただけで」
 これといった弁舌を振るうわけではなかったが、作男の人柄をよくしっている奥方は疑いもせず、言葉を信用してくれたようだった。
 そのあいだ、シルグは一度も吠えなかった。シアはエスカがどのようにしてか、言葉どおり犬を抑えたことを知った。
 遠ざかる気配に安堵のため息をもらすと、ティストがやはりホッとした表情で戻ってきた。かれは地べたに座りこんでいるシアと、転がっているエスカとを見比べていった。
「ここですこし休め」
 シアはティストを見上げた。
「そんなに疲れた体では、なにもできん。とにかく、休むんだ」
 小作人小屋の中はそれほど広くもなく、薄暗くもあったが、乾燥して居心地よく、あたたかだった。かれらが今いるのは、三つに仕切られた部屋のうち、いちばん大きな部屋だ。真ん中に炉があり、梁から吊された鉄棒に鍋がかけられ、空腹を刺激する食べ物のいい匂いと燃える薪から立ちのぼる煙のにおいがかすかに漂ってくる。少し離れた炉端には羊の毛で編んだ敷物がしかれていて、奥の二つの寝室との境には、ふるい毛織りの帳がおろされているのが、ちいさな明かり取りや煙だしの穴から差し込む陽光でぼんやりとうかびあがっている。
 ここは館の小作人の一家がティストの祖父のそのまた父の時代から住みついてきた家だった。その昔にはたくさんの家族の声がひびいたこともあったかもしれない。真冬の寒さの一番厳しいときには家畜たちも夜を共に過ごしていたはずだったが、今、ここに住んでいるのは、ティストとその父親だけだった。
 ティストは右側の一室へ入って、使い古した毛布を一抱え持って戻ってきた。エスカに一枚、シアに一枚手渡すと、かれ自身は炉端にある部屋に唯一の小さな腰掛けに腰を下ろした。
「あの……」
 シアは毛布を抱え込みながらおそるおそる声をかけた。
 ティストは無言で炎の中に薪をくべた。一瞬、弱まった火勢は次の瞬間にはもとに戻っていた。小枝のはぜる音が、静かな小屋で小さく響いた。
「おじさんは」
 ティストの父親はおととしに腰を痛めて以来、次第に寝込むことが多くなっていた。昨夜の騒ぎにも、そういえば、顔を見た覚えはない。
 シアは毛布にくるまってティストの横顔を見ていた。あいかわらず問いには答えなかったが、かれの頬がかすかに動くのを見たような気がした。
 それからしばらく、火の燃える音以外の音は聞こえなかった。夜中に海を泳いで以来の疲れが、体中を覆っている。足元から、炉のあたたかさがつたわってくる。鼻をくすぐるあたたかなシチューの薫り。
 ティストが鍋の中で杓子をかきまわした。なめらかに揺れる液体がすくいとられて、椀の中へとそそぎ込まれる。湯気のもうもうと立つ椀を、かれはシアの鼻先に突きだした。
 シアは一瞬ぼんやりとそれをみつめた。
 顔が湯気につつみこまれ、こうばしい匂いが鼻腔をみたしてゆく。手のひらを上に広げて椀を受け取ると、ゆっくりと満喫した。このあたたかさをどれほど待ち望んでいただろう。まるで百年夢みた幻を眼にしているような心持ちだった。
 ティストはおなじものをエスカにも手渡した。少年は体をおこして受け取ると、礼を言った。ティストは首をふり、うなった。
 沈黙を破る声に力を得たかのように、エスカが切り出した。
「助けていただいたのにこんなことを聞くのは恩知らずかもしれませんが、なぜ、僕たちを救ってくださるんですか」
 エスカは静かに、無礼にならないようにティストをそっと見つめた。
 ティストはとたんに落ち着きをなくして顔をそむけた。シアは、ティストの顔にまたあの表情が浮かんでいるのに気づいた。かれは苦しげに嘆息し、自分用についだシチューに目を落とした。
 問いのひきおこした動揺に少なからず責任を感じたのか、エスカはティストに謝った。
「すみません。話してくださらなくても、いいんです。助けていただいたことには、充分感謝しています」
 そして、ティストの不安そうな顔に、つけくわえて言った。
「いまのは、忘れてください」
 小屋に静寂が戻ってきた。
 具はわずかながらあたたかいシチューを啜り終えると、エスカは何事もなかったかのようにもう一度礼を言い、毛布にくるまって炉端に横になった。シアも同じようにして、体を傾けながら疲労が眠気に変わるのを待った。
 ティストは空になった鍋をかかえ下ろし、水を張った鍋と取り替えているところだった。たくましい腕が、重たい鍋を軽々とあげたり下ろしたりしているのを眺めながら、シアは半分眠りの中で考えていた。ぼんやりと。
 ティストは、なぜ、自分たちを助けてくれるのだろう。
 どうして、態度を変えたのだろう。
 シアはついこの間、ティストが冷たくなったからと、その理由がわからないからと、つらい思いを味わったのだが、それではなぜ、ティストはそれまでは優しくしてくれていたのだろう。
 魔物の塚のことを教えてくれたのはティストだった。
 あきらかにかれはシアが魔物の子だという噂を知っていたのだ。
 なのに、なぜ――
 炎の熱を頬に感じながら、シアは眠りに落ちていった。
 疑問はすべて疲労の中に溶けさり、彼女は泥のように眠りつづけた。



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