目が覚めたのはなにかのはずみだった。
 気づいてみると、からだが揺さぶられている。
「シア、起きるんだ」
 耳元で鋭い声がして、ようやく意識にかかっていた紗がひかれ、現実がひらけてきた。
 肩をつかんでいたのは、エスカだった。彼女は腫れぼったいまぶたをこすりながら身を起こした。硬い土間の上で寝ていたせいで、からだじゅうがこわばっていた。
 小屋の中はずいぶん暗くなっていた。もう一度明け方に戻ってしまったような不思議な感覚におしつつまれる。まるで、なにごともなく、あたらしい一日がはじまったかのような。けれど、あかりの位置を求めて視線をさまよわせると、さしこむ光の角度がだいぶ変わっている。それは、太陽の沈む直前のもので、これから迎えるのはイリアの刻なのだと告げていた。
 夕暮れの小暗さにたたずむ少年は、髪はボサボサ、埃まみれのままだったが、裸だった上半身に古ぼけた上着を身につけていた。ティストのものらしい。
 眼の下にはいまだに隈があったものの、眠る前の、あのどうしようもなく沈滞した感じはだいぶ薄れているようだった。
「どれくらい寝てたの」
 押しつけられた椀を受け取りながら、シアは部屋を見まわした。
「ティストは」
「いまはもう、太陽の沈むころだ。かれは館のようすを見に行った。島長たちが帰ってきたらしいんだ」
 シアは答の両方に驚いた。
「夕方? 帰ってきたって?」
 エスカは質問をさえぎって、はやく食事をするようにとうながした。
 椀の中身は火傷をしそうに熱い麦がゆだった。シアはそれを少しずつ啜りながら、煙抜きの穴から落ちてくる陽光が赤みを帯びていることにあらためて気づいた。どうやら、半日眠っていたというのは、本当らしい。
「もし、ここを上手く逃れることができたら、ぼくは舟でこの島を出るよ」
 ことばの唐突な響きに、シアは面食らって顔をあげた。
 少年は、食事をつづけるように彼女をうながしている。
「この島を……」
 ぼんやりとくりかえすと、うなずいた。
「きみはどうする」
 シアは答えようとして口ごもった。
 考えてみたこともなかったのだ。島を出るなんて。
 沈黙したまま麦がゆを口に含むシアに、エスカはため息をついた。といって、かれは苛立っているわけではなかった。
「選べといっても、ほとんど選択の余地はないんだけどね。ぼくらは仇扱いされているんだし」
 仕方がないといった調子で言うと、エスカはかすかにこめかみを押さえた。
 麦がゆをようやく食べ終えたころ、ティストがよわよわしい午後の光を背後にして、体をかがめ、あたりに気を配りながら戻ってきた。戸がそっと開けられると、それまで背中をまるめていたエスカが腰を浮かせた。
「よかった。なかなか戻ってこないから、心配していたんですよ」
 ティストの無事な姿を見て、心底安心したようだった。
 シアもホッとしていた。
 背後からうたれたオルジスはともかく、島長の息子カリアスは自分をのしたのが何者かを知らないわけがなかった。あのふたりが谷の小屋で発見されていれば、いや、たぶんもう、されたのにちがいないが、協力者の名前を告げずにはおかないだろう。声高にわめきたてたとしても、ふしぎではない。ティストは裏切り者として追われる立場になっているはずなのだ。
 ティストが自分たちのためにどれだけ危険なことをしてのけたのか、おそまきながらに理解しはじめて、シアは居心地の悪さと申し訳なさに胸が苦しくなっていた。そして、もし、かれがとらえられてしまったらと思うと、気が気ではなかったのだ。
 ティストは炉端に腰を下ろすと、見てきたばかりの館のようすを告げた。
「みんな、おまえたちを探すことを諦める気はないようだ。まるできちがいだ」
 押し殺した口調に恐怖が混じっている。暗くてよくはわからないながら、心なしか顔色を失っているようにも見えた。ティストが味わった気味の悪さと、シアとエスカが昨晩呑み込まれそうになったものとは、おそらくおなじものだろう。日常からかけ離れたもの、平穏を脅かすものへの憎悪は、強く根深く、つきることがない。理性を失った恐怖は、防御ではなく攻撃へと突き進む。
「あの老人はどうでした」
 エスカの問いに、ティストはまなざしで答えた。
「いたんですね」
 念押しにティストはうなずいた。
「カリアスも?」
 肯定の応答に、シアはもっときつく縄を縛り、あたまのひとつも殴ってくるのだったと思ったが、次の瞬間、神経質に叫んでいた。
「それじゃ、ここにくるんじゃないの。きっとすぐにでもやってくるよ」
 ティストはシアのくしゃくしゃになった頭に大きく厚みのある手をのせて、落ちつけ、と眼で言った。
「でも、シアの言うとおりだ。さっきも、あなたは人に見られたでしょう」
「落ちつけ」
 今度は口に出した。
 不安げなふたりは、根拠を求めて男を見た。
「まだ、大丈夫だ。おれが戻ってきたことは、知られてないらしい」
「どういうこと」
「わからん」
 本当にわからないのだと、ティストの腑に落ちない顔は語っていた。
「奥方さまは、言わなかったんだろうか」
 疑問が、口をついて出た。
 マージが夫の島長に嘘をつくなんて、考えられないことだった。
 館での島長は絶対の存在なのだ。家族はつねにきびしく服従を強いられていた。カリアスはときおり逆らって、手ひどく殴られているようだが、そんなむこうみずな勇気のあるものは他にはいない。かよわさとはかけ離れた存在のマージであっても、夫に逆らったところなど、見たことも聞いたこともなかった。
 けれど彼女がティストに会ったことを忘れるわけはない。そちらのほうがよほどあり得ないことだと思う。すると、島長に伝わらなかったのは、奥方の意志によるものだと考えるしかない。
 とにかく、いまはまだ、ここを動くべきではないということで、ティストとエスカの意見は一致した。
「その人がどういうつもりでいるのかはわからないけど、この際、すっかり日が暮れるまではじっとしていたほうがいいと思う」
 エスカの言に従って、太陽が沈み、夜の帳が降りるまで、小屋の中で身をひそめていることになった。みなはやはりエスカの助言で、体力の消耗を避けるために横になった。しかし、シアはもうとても眠る気にはなれなかった。
 エスカの言葉が――島をはなれるという――ぼんやりとしか感じられなかった今回の出来事の行き着く先を、シアに意識させていた。
 島を離れる。
 そんなことが、実際に自分の身の上に起こりうるのだろうか。
 それは夢であり、夢であるからこそ、一生実現するはずのないものでありつづけるはずだった。
 それがいま、半ば現実のものとなろうとしている。すくなくとも、炉をはさんで向こう側に転がっている少年にとっては、すでに体験したこともある現実だった。大陸からやってきたかれにとって、島を出ること、ふたたび大陸に帰ることになんの疑問を持つ必要があるだろう。
 シアは暁の光の中に溶けていった母親のすがたを思いうかべ、島を離れるという考えに恐怖を感じていることを自覚した。
 恐怖。いや、痛みだろうか。
 それは親しいものたち、物心ついてから身近に接してきた、自分の一部である島のすべてから遠ざかることを思って感じる苦しみであり、二度と戻れないことに気づいて感じるにがみであり、見知らぬ土地へ行くという未知の行為のもたらす畏れでもあった。
 小さな窓を背にして、徐々に濃くなる影のなかへと沈んでいくティストの姿が、ゆがんでみえた。
 シアは目を閉じて、まぶたの下からにじみ出るものを、悟られないようにそっとぬぐった。



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