メルカナンの紅いマントがその影すらも見えなくなり、地上が青みをおびた黄昏のときを迎えたころ、館のまわりが急に騒がしくなった。
いくつものあわてた足音が歩きまわる。興奮した男たちの攻撃的な声がとびかっているのが、とぎれとぎれに聞こえる。その背後に、神経質な羊の鳴き声。異変を感じて鶏までが騒ぎにくわわっているようだ。
なにをしているのだろう。
シアはほんのすこしだけ窓を押しあげて、隙間から外をうかがった。ほこりっぽい外の空気とともに、松明の燃えるきな臭い煙がながれこんでくる。
炎は、館のまわりの狭い空間を昼間のような明るさにまで照らしだしていた。はりあげた島長の声が耳にとびこんでくる。
「心してかかれ。いくぞ」
それを合図に、男たちは一団となってどこかへ行ってしまった。
周囲は突然静かになった。
「いや。まだ、だれかいるよ」
エスカが注意を呼びかけた。
しばらく息をつめてようすを見たあとで、ティストが行動を開始する決定を下した。たとえ、ひとがまだ残っていたとして、もっとも危険な島長たちの一団はそばにはいないのだ。こんな機会をみすみす逃すわけにはいかない。魔法使いにも異論はなかった。
炉の火は埋み火にまで落として――隣の部屋には、ティストの父親が病にふせっているのだ。一度も顔は見せなかったが――三人はそろそろと小屋をあとにした。
今度はシルグの心配をする必要はなかった。シアの姿を見つけて駆けよってきた犬は、なぜか鳴き声ひとつたてなかったからだ。慎重に体を寄せてきたかと思うと、まずエスカにむかって物問いたげな一瞥をなげたシルグは、そのあとでかがみ込んだシアにむけ、親愛の情をこめてかすかに鼻声を出してみせた。しっぽだけがちぎれそうにふられている。
「シルグ」
シアは相棒の頸に腕をからめて、きゅっとだきしめた。幾度となく彼女を慰めてくれた生き物は、これから起きることをすでに悟り、まるで彼女に、気をつけてと伝えているような気がした。
「シア」
ティストにうながされて体を離すと、シルグは月明かりを映しこんだつややかな黒い瞳で、彼女を慕わしげにみあげてきた。シアは毛むくじゃらのあたまにそっと手をふれて、耳のそばをなぞり、こみあげる熱いものをこらえながら心の中で別れのことばをささやいた。そして、先に歩き出したふたりの背中を追いかけた。
しずけさのまさった裏庭をふみしめてゆきながら、シアは長いときをともに過ごした友人の面影をぬぐいさろうとした。
この道をちいさな思いつきとともに歩いていたのは、つい昨夜のことだ。
月光の下、ひんやりとした大気を自分の熱でかきみだし、ちょっとした冒険をしてのけたつもりになっていた。それが現在の状況を招くことになるなんて、あのときどれだけ考えてみただろう。たった一晩で、彼女の立場はすっかり変わってしまっていた。まだ夢を見ているようだったし、まじめに考えると笑いだしてしまいそうだった。
走るエスカの後ろ姿を見ていても、実感はわいてこない。少年の金の髪も白い肌も、痩せた背中も、見なかったと思えばそのまま消えてしまうような気がした。かれの魔法にいたっては、悪い夢を見せられているような現実感のなさだ。
だが、夢ではないのだ。右手の指環のごつごつと冷たい感触が語りかけている。
現実なのだと、胸の上で首飾りが跳ねてくり返す。
現実だ。これは、うつつだ。
彼女は母親の真実を知り、オルジスのいつわりを知った。
もう、あともどりはできない。
魔物と呼ばれて生きてゆきたくないのなら、あともどりはできないのだ。
先頭を行くティストは、台所の横を通りすぎるまえに、付近をあらためようとして立ちどまった。
ここをぬけるとシアとシルグの寝床だった納屋がある。昼間であれば、そこから遠くに岬をのぞむことができる。砂と風から集落をまもる木々の内側にそって進めば、島でいちばん大きな砂浜だ。
台所の裏口は、いつものようにひらかれたままだった。だが、煮炊きをしているようすはない。煙出しからは、煙が立ちのぼっているけれど、それは今の時刻としてはひどく細く、よわよわしいものだった。
おそらく、いきどおる男たちはそうそうに夕餉をすませてしまったのだろう。戸口の奥はぽっかりとひらいた闇へのいりぐちのように見えた。ひとの気配もかんじられない。
ティストもおなじことを考えたのだろうか。いっきに駆けぬけてしまえ。姿を隠していた木の陰からティストが足を踏みだすのを、シアは自分のとびだす瞬間をはかりながら見守っていた。
そのとき、台所から、あえぐような声があがった。
恐怖にひきつった女の叫びは、世界のすみずみにまで響きわたる警告の喇叭のようだった。
「魔物憑き!」
ティストはびくりとして動きをとめた。
かれの視線の先には、恐怖に顔をゆがめた島長の娘の姿があった。
奥から別の声が尋ねてくる。
「イルダ、どうしたんだい」
体を重たげにゆすりながら駆けつけた母親に、イルダはわななきながらふるえる声で訴えた。
「まもの。魔物だよ、魔物に憑かれたやつが、あたしを睨んでる。ねえ、やだよ、かあさん、あたし喰われたくないよ。やだっ、くるな、くるなってば」
しがみついてくる娘をだきしめながら、マージは外を見た。
月明かりに照らされて立ちすくむ三人の姿を見ても、奥方には驚きらしい感情がまったくあらわれなかった。幾分しかめたような顔がふだんとかわりなく、使用人たちのようすを検分している。
「さっさとお行き」
マージは娘を両腕に抱え、きわめて冷静に後ずさりをしながら言い放った。
「食べ物だろうがなんだろうが」
ここで奥方は必要以上に力をこめて言葉をくぎった。
「持っておゆき。くれてやる。ただし、あたしらをどうにかしようなんて考えないどくれ、いいかい」
それは懇願などではなく、命令だった。
奥方は作男が無言でうなずくのを、いつものように口元にしわをよせて見とどけると、イルダを居間へと押しこみ、自分も後へつづいた。体をあずけるようにして乱暴に扉が閉じられる。向こう側でイルダが泣き叫び、マージのきびしくなだめる声がそれにかさなった。
ティストは、おなじように驚きに凍りついていたエスカとシアを手招きすると、台所へ踏みいった。どうしてか、奥方がほのめかしてくれたのは、島を出るためはいろいろなものが入り用なのだということだ。
シアは少しでも長持ちしそうな食料を、保管場所からとりだしてきた。焼いたばかりのパン、チーズ、塩漬け肉、干し肉、乾燥豆、焼き菓子、果実酒の入った壺……。暗がりの中でほとんど手当たり次第に集めてきたものは、ティストが口をひろげたオルジスのお届け物用の大きな袋に、自棄気味にほうり込まれた。
その間中、エスカは戸口に隠れて、外から近づくものを見張っていた。戸をへだてて聞こえるイルダのすすり泣きは、なかなか止まない。イルダはシアを罵り、魔物に魂を売ったと胸の痛くなるようなことばでティストを非難していた。
これ以上はつめこめないほど袋がふくらむと、シアは台所をあさるのをやめた。作男は袋の口を力まかせに縛りあげると、肩に無造作に担ぎあげた。
追いたてられるようにして、かれらは台所を後にした。
裏庭をよこぎり、壊れた納屋を通りすぎると、敏感になっている鼻をかすかな潮のかおりが刺激した。
海から大地をなでるようにしてやってくる風だ。
煌々と照りかがやく女神の下、岬までの地形が黒々とした影となって眼前にあらわれた。風によって刻々と姿を変えてゆく濃藍色の雲が、不穏な空気に拍車をかけている。
シアは夜の海風を胸にすいこんだが、背筋がちぢんで、怖さが増しただけだった。
少しずつくだってゆく浜への道には、月光がくっきりとした人がたの影を落としている。影は、かれらはここにいると声高に告げる狼煙のようだった。見つかれば、一直線に追われるだろう。隠れるところなど、どこにもない。岬の下は、断崖絶壁だ。
月が雲に隠れると視界がしずかに闇に沈み、緊張と不安がほんのすこしやわらいだ。でも、それはいっとき。イリアのかんばせがあらわれるたびに、その視線にさらされて不安がよみがえる。
あまりにも無防備な道行きに不安を感じたのは、シアだけではなかったらしい。袋をかついで先頭をゆくティストは、早足で砂防林の影にむかっていた。
枯れ草を踏みしだく音にすら神経質になりながら、ようやくたどり着いた木々の影ではあったが、そこも安全な通り道ではなかった。黒い影のなかに溶けこんでしまうと、自分もまわりがよく見えないのだ。
そして、樹陰にひそむ獣の足音、梢のあいだをとびかう鳥の羽ばたきに、シアは幾度もびくつくことになった。早鐘のようにうちつづける胸をおさえながら、その正体をつきとめるまで、うごくこともできない。そのたびにエスカが肩にふれて先をうながしていたが、そのうち面倒になったのか、少年は彼女の手首をつかんで離さなくなった。
シアは、エスカの手のぬくもりを感じながら懸命にあるきつづけた。
潮の香りがつよくなり、遠かった波音の輪郭が、夜の海岸にくっきりとたちあがってきた。
浜を見下ろすことのできるところまでやってくると、真っ暗だった眼下にときおり光を反射してのきらめきが見える。うちよせる波が、あわだち、しぶき、くだけてゆく。荒々しいその景色に、シアは息をのみこんだ。
やがて足の下は砂利混じりの土ではなく、こまかな砂になった。そこまでやってくると、慣れてしまったのか、感覚が麻痺してしまったのか、不安はだいぶ和らいでいた。
三人は、砂浜の奥にひきあげられている舟の影をめざしていった。熱のこもったからだに潮風を受け、砂に足をとられながら。