砂の上に寄せてある二艘は、どちらも小さかった。
 一艘は島長が漁に使っているものだ。
 となりの一艘はさらに小ぶりでみすぼらしく、それがつまりエスカが乗ってきた舟だった。
「こんなのに乗ってきたの」
 シアがため息混じりにつぶやいた。
 はじめて目のあたりにした舟は、無理をして大人が八人乗れるかどうかという大きさしかなかった。ゆとりを考えればせいぜい五人までだろう。
 大きさ以上にそのうらぶれた姿が感慨を深くした。傷こそないものの、出るはずのなかった外洋での航海はちいさな船体にはかなりの負担だったのにちがいない。
「これは川の渡しだからね」
 そういうエスカの口調にも、自分の運のよさにあらためて感嘆しているような響きがあった。
 かれは運命をともにした小舟の黒ずんだ船縁にふれながら、島長の舟にかけられている筵を取りはずそうとしているティストに声をかけた。
「待ってください。ぼくはこれで帰ります」
 ティストはふりかえり、シアは目をまるくした。
「ほかに舟は何艘あるんですか。一艘?」
 ティストは問われているのが自分であることに気づくのが遅れて、口をあけたままうなずいた。この舟が使いものにならなくなったときのための次の舟は、まだ館の裏で材木のまま乾かされている。とうぶん、舟の形にはならないだろう。以前に漁に出ていた舟は、とうにばらされてあちこちで違うかたちになってしまっている。
「ここの人たちに迷惑はかけたくありませんから」
「迷惑かけてるのは、あっちだよ」
 シアは憤慨して、舟の縁に手をつくとエスカのほうへと身を乗り出した。
「あたしたちを捕まえて、殺そうとしたやつらだよ。いまだってあたしたちを探してる。なのにあんたは心配してやるの」
「かれらだって生きてゆかなければならないんだ」
 シアはエスカの口調に怯んだ。
 言葉のつよさは、おのれの中の正義に従っているもののつよさだった。オルジスを縛りあげたときにも、魔法使いは必要以上の荒事をとがめた。エスカの中には一本のしっかりとした筋がとおっていて、それはいっときの感情などでゆるがされたりはしないのだ。
 それでも、言わずにいられなかった。
「あたしは、じゃあ、あいつらになんにも返してやれないの。あいつらが母さんにしたことをエスカだって怒っていたじゃない」
 シアを止めたのはティストだった。背中にふれた大きな手にひきもどされるように感じて口をつぐむと、シアはくちびるを尖らせた。
「魔法使いは、ひとびとに奉仕することが使命だ。かれらの貴重な財産を盗むようなまねをすべきじゃないよ」
 シアは顔をそむけてうつむいた。不満と怒りが熱く凝って、それでも自分のなかの醒めた一部分では、エスカが正しいと知っていた。声が出なかった。島びとが信じているのはオルジスの言葉だ。かれらは無知のうえにオルジスの都合によって誤った知識を植えつけられたのだ。シア自身、不安ながらも疑おうとはしてこなかった。エスカを魔物だとほとんど信じていたではないか。
 それに、奥方が蓄えていた食糧をかなり分けてくれた。漁ができなくなると、館の人びとは食べ物に困ることになるだろう。
 魔法使いがどんなものだかは、知らない。エスカがどうやって魔法使いになったのかもわからないけれど、たぶん、かれは島にいる誰よりも多くのことを知っている。いろいろな経験もつんだのだろう。なにが正しくて、なにが間違っているのかを、自信を持って判断することができるくらい大人なのだ。シアよりもずっと。
「おれはこの舟が心配だ」
 みすぼらしい小舟を見やって、ティストは不安げだった。
「これで大陸まで行けるとは――」
「でも、ここまで、これで来たんです」
 エスカは自分の不安をもうち消そうとするように、疑う言葉をまっこうから受けとめた。
「来たんですから、帰れるはずです。潮の流れも変わるころです。まっすぐに大陸をめざさず、いちばん近い島づたいに行けばなんとかなると思います」
 力をこめた物言いにティストはなかば呆れ、なかば感心したように鼻を鳴らし、かついできた袋を小舟のなかにおろした。
 そうして、事はさだまった。
 入り江の奥までひきあげられていた小舟を浮かべるためには、波うちぎわを越えて人力で押してゆかなければならない。潮はまだ、ひききってはおらず、水泡ははるか彼方に見える。三人は艫にまわり、舟を押しはじめた。
 島長の舟には移動用のころがしつらえてあったが、こちらにはそんなものはない。
 素足を砂にめりこませ、ずるずるとすべりながら、渾身の力を舟にかける。ひんやりとした潮風に吹かれていても、たちまち汗がふきだし、息があがりだす。砂と木のこすれる音が、波音にかさなるように低く響く。その幾度とない繰り返しのなかで、小舟は自分を連れだしてくれる波のかいなをめざして、少しずつ前進していった。
 はじめのうちエスカが受け持っていたかけ声は、途中でシアに代わった。作業が長びくにつれ、息がきれて、声を出すどころではなくなってしまったのだ。ときおり苦しげに咳きこむ姿を見て、シアはわだかまりに目をつぶった。いまは些細なことに捕らわれているときではないのだ。
 舟は重く、砂浜はいつもよりもずっと広かった。押しても押しても、風景は遅々として変わらない。腕や脚に、だんだん力が入らなくなってくる。波に足をとられたり平衡をくずしたりして、押し出すタイミングがずれてしまう。苛立ちのうなり声がした。ティストですら、いまいましげに舌打ちをする姿に、シアは気づいた。他のふたりも自分とおなじように背後を気にしているのだ。
 不安をうち消すために、足をあらうつめたい波と、はねあがる海水、かたい木の感触に神経を集中させているうちに、舟が波にわずかに浮いて、くいと流されるような気配が手に伝わった。
 その瞬間、恐怖が消えたようだった。
 シアは声をあげて船縁にとりついた。
「こら、まだだめだよ、シア」
 必死に押しつづけているエスカが、舟にしがみついてしまった少女に文句を言った。
 それにはとりあわず、シアはむくりと顔をあげ、うしろへ体をひねった。
 砂の浜には、舟をひきずってきた後が黒くけずれて道のように見えていた。そのむこうから、人の近づいてくる気配がする。
「……奥方さま」
 エスカとティストも、後ろをふりかえった。
 その人物は、自分の能力のゆるすかぎりの速さで汀に足を踏みいれたところだった。両腕でなにかを大事そうに抱えているが、はげしい上下動のせいで荷物はあごに幾度もうちつけられている。マージは小舟まで、自分の跳ねかえした波でずぶ濡れになりながらも、少しも手をぬかずに走りきった。最後には足がもつれており、しばらくは息をととのえるために声を出すこともできなかった。
「よ…かった……まだここにいてくれて…」
 苦しげに胸をおさえながら、奥方はかかえていたものを差しだした。
 シアは舟の上からずしりと重い袋をうけとり、すこしもゆるまない相手の顔に怖じけながら尋ねた。
「これは――」
「水だよ」
 答えはきっぱりと返ってきた。
「まったく、山ほど蓄えをかっさらっていったかとおもうと、肝心なところがぬけているんだからね。飢えより、渇きの方がずっとずっとつらいんだよ」
 ゆすってみると、袋からは水の跳ねる感触と音がした。そういえば、ふれた感触もひんやりとしている。
 マージはシアの神妙な顔を見て、眉をよせた。まるで、自分の仕込みが足りなかったことを後悔しているような顔つきだった。
「いまはここにいてくれて干からびる運命から逃れたけれど、あんたたち、いつまでもぐずぐずしているんじゃないよ。イルダがみんなのところへ行ったからね」
 そして彼女は岬の方向をゆびさした。
「そろそろあちらから火が見えるかもしれない。オルジスは塚のあたりには見切りをつけたようだから」
「あの……どうしてそんなことを教えてくださるんですか」
 魔物と名指された少年の問いには答えずに、マージはシアに視線をうつした。みだれた髪にふちどられた顔にかすかな疲れを認めて、シアは袋をかかえた腕に無意識に力をこめた。いつもつめたいばかりに冷静で、感情をあらわすことなどないと信じてきたマージが、ためらっている。シアは固唾を呑んだ。すると、しばしの後に驚くようなひとことが押し出されてきた。
「あんたのかあさんは、魔物なんかじゃない」
 心がびくりとした。マージがシアの母親の話をするのは、はじめてだった。皺のきざまれた目元がほそめられ、ゆっくりと紡ぎだされたつぎの言葉は、深い吐息がふきこまれるように、待ちうける胸の中へと静かにひろがっていった。
「あたしは、あんたのかあさんとは友達だったんだよ」
 マージの声音に、シアはふるえて、なにかを言いたくなった。抑揚の少ない、いつものひくい声。それでもシアは、そのひびきに含まれたさまざまな想いを感じとり、腑に落ちることがいくつもあるのを思い出した。
 オルジスの庵でひもじさに気を失っていたところ、温かなスープをあたえてくれたのは、奥方だった。
 不器用で、なにごとも幾度もくりかえしながらしか覚えられないシアに、根気よく仕事を教え込んだのも彼女だ。
 奥方はほかのひとのように彼女を区別したりはしなかった。
 あまりの厳しさに不満ばかりを覚えていたけれど、おかげでシアは飢え死にをまぬがれた。仕事をあたえられて、館のものたちとおなじとまではいかないものの、それなりの食事を食べることができるようにしてくれた。
 目の前の女性が自分にむけていたのは、とるに足りないものへの無関心ではなかった。シアは、イルダやカリアスとおなじように、マージにしつけられていたのだ。
 もの問いたげにみつめる少女に、奥方は胸のつかえがおりたような顔を見せた。メリアナとマージは、どんな間柄だったのだろう。どんな話をしてどんな時をすごしたのだろう。
 尋ねようとしたとたん、ひとり岬を見ていたティストが鋭い警告を発した。
「来た」
 岬のすこし上、防風林のなかに、ぽつぽつと赤くかがやく点が見える。ゆれながら少しずつ移動するそれは、ひとびとのかかげ持つ松明の炎にちがいない。濃紺の夜空にほそい煙が幾筋か、風にたなびいて流れている。
 マージはシアに向きなおると、無事に大陸にたどり着くようにと祈りの言葉をつぶやいた。
「かあさんの分まで、生きるんだよ」
 さいごにもう一度、念を押すように命令すると、マージは背を向けて去っていった。一度もふりかえらずに駆けてゆく後ろ姿とは逆に、松明の炎はますますはっきりと見えるようになってきた。



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