潮は満ちに転じていたが、舟はまだそれほど進んでいたわけではなかった。飛沫を浴び、波に押し戻されてよろけながら、ティストとエスカは舟を押しつづけた。そのうち、海面はふたりの膝を洗うようになったが、腰に達するより早く、遠くから声があがった。
「いたぞ!」
 シアは船上で、岬の突端にふえた光の点が群れかたまっていくのを見た。
 奥方のすがたはとうに闇にまぎれ、このまま無事に館までたどりつけるだろうと思われた。だが、小舟は月明かりにくっきりとうかびあがってしまっている。どこにも依るべきところはなく、ひどく心許のないようすで、波間にゆられている。
 シアの脳裏に、ゆうべ潮水の冷たさのなかで動けないままに見た、炎の記憶がよみがえった。高温のゆらめきは魔物の死を待ちのぞんでその瞬間を祝おうと闇に煌々と燃えさかり、視界ににじむ。鼻の奥を刺激する潮風に悪寒を覚え、シアは舟を押しているふたりを急かした。
「もう、舟に乗った方がいいよ」
 エスカも同意して、くるしげに舟に這いあがった。
 だが、ティストは岬を見つめたまま、うごかない。
「櫓を漕ぎましょう。その方がはやい」
「ティスト、はやく」
 松明は斜面をくだりはじめていた。いきおいに炎がながれ、軌跡が残る。同時に怒りのこもった怒鳴り声が、大気をつんざいて追いかけてくる。
「ティストってば、はやく」
 身を乗り出して腕をひっぱろうとするシアを、男はふと見あげてきた。
 不意をつかれて止まった手から身をひくと、まなざしがかすかに笑んだようだった。
「おまえたちは逃げろ」
「ティスト?」
「行け!」
 どん、と船尾を蹴りつけられる。
 身をひるがえして駆けだしたティストの前方には、島びとたちのすがたがあった。しぶきをあげて突進してくる男に驚いたのか、組んでいた徒党がくずれたつ。
「なにをしておる。こやつは魔物じゃぞ」
 神経質な叱咤の声はオルジスだった。波を蹴散らして一直線に躍りこんできたティストは、とつぜん向きを変えて岬とは反対の方向に走り出す。すると老人は、金切り声で追えとわめきたてた。ひとびとは、なにものかに憑かれたかのように後を追いかけはじめた。
 ティストは、つかみかかろうとする手をすんでのところで逃れつづけた。砂の上だというのに、いままで背負いつづけた荷物を、思いきりよく放りだしてしまったかのようなかろやかさだ。
 島長ののろまな作男の思いもよらぬ俊敏さは、男たちを驚愕させた。無口で、物事に応えることの少ない家畜のような存在の、どこにこんな資質が眠っていたのか。これも魔物の仲間になったせいなのだと、あらためて感じたようだった。捕らえきれない焦りから服の端をとらえて引きずりたおそうと試みたものは、動きをとめた瞬間に足をはらわれて、もんどり打ってころがった。そのようすを見届けるティストの表情は、いつもの作男の茫洋としたものではありえない。
 豹変したそのすがたに、常ならぬもの、魔の気配を嗅ぎとったひとびとにとって、ティストは金髪のふたりとおなじように、忌むべきもの、島にあってはならないものへと変じはじめていた。
 オルジスの声が追いうちをかける。
「どうじゃ、やっぱりそうじゃろう。魔物はひとを魔物にするんじゃ。はよう捕らえて、殺すのじゃ!」
 偽の賢者は、小屋でのみっともない出来事の借りを返そうとしているのだろうか。すこしでも休もうとするものがいると、せわしなく何事かをいいきかせて、また追いかけさせているようだった。
 それでなくともティストは、ひとびとの注意がいまだ浅瀬に浮かぶ小舟にもどっていかないようにだろう、幾度も挑発をくり返していた。憎悪と恐怖と不安にのっとられたものたちは簡単に逆上する。翻弄されるたびに言葉をきわめて罵る。焼けた松明と素朴な武器をふりまわし、次々に襲いかかる。
 炎のみだれ舞う、暗く焦げくさい浜辺の光景に、シアは緊張と恐れでからだをこわばらせていた。舟のゆれもあいまって、気持ちが悪くなりそうだ。いまのところ、ティストは暴力をたくみに避けつづけている。みんな怒りに我を忘れているため、うごきに無駄が多いのが救いになっているようだ。だが、相手は大勢だ。疲労が増すにつれ、状況は悪くなっていくにちがいない。
「ティスト……」
 ひとこえ叫んで、注意をひき戻してやりたかったが、喉に何かがつまって塗りこめられたようだった。あの男たちがこちらにむかってきても、対抗する手段はなにもないのだ。
「なんであんなことができるの」
 ふりしぼった声が怒りをふくんだ非難のようにひびいたため、となりで固唾を呑んでいたエスカが驚いたようにふりかえった。
「ねえ、どうにかならないの」
 こぶしを握りしめて膝をたたくと、ゆるい指輪が骨を打ち、涙が出るほど痛かった。かんしゃくを起こして指輪をふりはずそうとするのを、エスカが見とがめる。
「それは、レイディ・メリアナの形見だろう。なくしたら――」
 なにかに思いあたったように口をつぐんでしまったエスカには目もくれず、シアはまた、怒声のあがる浜のほうへと視線を走らせた。
 ティストのうごきは鈍くなってきていた。それに気づいた屈強な若者たちが、まわりを取り囲もうとしはじめている。もういちど腹立ちまぎれの文句を吐きだそうとしたとき、とつぜん奇妙なことを言われて、シアは面食らった。
「ちょっと、貸してくれないか」
「なにを」
 苛立たしげにつっかかるシアに、エスカも乱暴に答える。
「その指環だよ」
「ゆびわ?」
 手をかざして確かめようとした瞬間、エスカは指環をするりと抜きとった。シアがティストのことと指環のことをごちゃまぜにしながら非難しつづける間、魔法使いは指環をごしごしとこすった。こびりついた汚れをいそいでこそぎ落としているうちに、環の内側にかかっているゆびが、チリと痛んだ。月明かりにかざしてみると、そこには小さく刻みこまれたいにしえの文字が、うっすらと浮かびあがっていた。
 エスカはこの発見に安堵した。
「なにやってんの、エスカ。ティストが捕まっちゃうよ。その指環でなにかができるっていうの? やるならはやくやってよ!」
 わめきつづけるシアに、エスカはすこし静かにしてくれと頼んだ。
 少年がほんとうになにかを始めるつもりでいることに気づいたシアは、目をまるくして息をとめた。
 この機会を逃すまいというように、エスカはいつもより早口で説明する。
「この指環は、精霊の指環だ。レイディ・メリアナがこの島にやってきたときに使ったというのは、これだろう。指環の裏には、真実をしるす古い文字で、精霊の名が刻まれている。この名を呼んだら、精霊は喚び出しに応じるはずだ」
 シアは、母親が馬に乗ってやってきたという話を思い出しながら尋ねた。
「……精霊をよびだして、どうするの」
「言うことをきかせる。つまり、かれをたすけてもらう」
 そのためには、意識を集中することが必要だ。できるだけ静かに、息もたてるなとエスカは言う。
 シアは無言でうなずいた。声を出してはまずいと思ったからだ。おそらく、母親を呼びだしたときとおなじようなことなのだろう。息もたてるなというのは無茶だという気がしたが、自分たちのために命にかかわる危険を冒しているティストをたすけるためなら何でもしようという気になっていた。
 エスカはゆれる舟縁で月にむかい、まぶたを閉じ、呼吸をととのえると、静かにすばやく手を空へとかざした。
 月光のなかで古びた指環がしろい輝きをおび、星のようにきらめいた。
 耳をうちつづける蛮声と波音が遠のいて、少年の口から、不思議な響きをもつことばがするりと流れでるのを感じた。
 音となったことばは大気のながれに乗り、とばされて、シアの耳をかすめると同時に、光のように輝いてなにものかを照らしだす。そのなにものかは、ことばの放つ輝きと響きとにかすかに身をふるわせたようだった。
 ついで空気が大きくゆれるのが感じられた。ゆれて密度の変化した大気に波が起きた。波がシアにおし寄せてくる。いや、これは風だ――
 風は目の前を一瞬にして吹きすぎた。そのあとで、なにかが、消え去らずに残っていた。
 それが、魔法使いのことばが目覚めさせ、呼びだしたものであることに思いいたったシアは、呆然としてそれを凝視めた。



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