目の前には、ひとのすがたをした、ひどく美しいものがいた。
 金とも銀ともつかない、まるで光そのものを梳いたかのように煌めく長い髪や、なんの色なのか言いあらわすことさえ不可能なほどの深みをたたえた瞳。光の紗のような衣をまとったすがたは華奢で肉感に乏しく、少女のようにも少年のようにも見えたが、そのいずれとも異なることはだれにでもわかった。そう、シアにさえ。
 夢を見ているのだ、とシアは思った。
 つめたくととのった容貌に表情はなく、また、これから浮かぶようすもなかった。そのほそい面をふちどる髪がかすかに(風ではないなにかによって)ゆれていなければ、本当に夢なのだと信じただろう。
 これは現実のうつくしさではない。すくなくとも、目の前のうつくしさは人の子のもちうるものではなかった。
 見るほどに、その存在のどこにも人の気配を感じることはできなかった。たしかに存在はしている。しかし、これは人ではなかった。あたたかさがない。もろさも、ゆるみもない。完璧なうつくしさ。
 シアは、魅入られたように深い瞳をみつめながら感じた。これが精霊なのだと。そうだ、エスカは言ったではないか、精霊を喚びだすのだと。その証拠に、それは波のうえに濡れもせずたたずんでいる。
「私を呼んだな」
 声が銀のさざ波のようにうちよせた。
 澄んだ透明な響きをもった高くも低くもないその声は、シアの耳につめたい陶酔をつれてきた。
「おまえが……か」
 エスカはもう一度かれ――精霊に性別があり、そして男性であるというのならば――の名をくり返したのだが、シアには複雑すぎて聞きとることができなかった。
「そうだ」
 精霊は、魔法使いを吟味しているようだった。自分を喚びだした相手に不満があるのかもしれない。精霊とくらべると、エスカは見るからにちっぽけな少年でしかない。そして、精霊の身のうちには人にはとうてい太刀打ちできないほどの、膨大なちからが渦を巻いている。いや、精霊がちからそのものなのだ。血肉をそなえた身体に縛られることのない、意志を持ったちからのみの存在。それはエスカを高みから睥睨していた。
「長らく召喚がとぎれたと思えば、どうやら指環のあるじが代わったとみえる」
 エスカの顔がかすかにゆがんだ。精霊の存在に圧倒されかけているのだ。かれは弱みをみせまいと懸命に双眸に力をこめ、睨みすえた。
「指環だけではないだろう、……よ」
 まただ。
 聞きとることのできない名前を呼ばれると、精霊は不快をあらわにした。表情は変わらないのだが、嫌がっていることはどうしてかわかるのだ。そのたびに精霊の圧力はすこしずつ弱まっているようだ。理由はわからないながらエスカが有利になりつつあることを感じて、シアはつめたくなった手を握りしめた。
「いかにも、魔法使いよ。私は指環の奴隷。ゆえにそなたは、私のあるじだ」
 精霊の声がほんのすこしだけ低くなった。舟のゆれが、緊張のあまり意識のうすれるのを防いでくれているのを、ぼんやりと意識する。
「たしかに、認めるな。……よ」
 エスカは楔をうちこむように名を呼びつづける。精霊は神妙に答える。
「認める――指環と指環に刻まれし我が名にかけて。私は私をよぶことができたものに従う」
 シアは、エスカが全身にこめていた力をかすかにぬいて、手のなかの指環を握りなおしているのに気づいた。
「我があるじなる魔法使いよ。これより私は御身のしもべ。その欲するところを何なりと申されよ」
 精霊の誓いのことばがその場の空気をふるわせて、からだじゅうを粟だたせた。エスカは顔をしかめて契約を受けとめると、ぐいと顎をつきだした。額にはうっすらと汗がにじんでいる。
「それでは……よ。むこうの浜で起きている争いを鎮めるんだ。ひとびとに怪我はさせるな。いますぐだ」
 するどい命令に、精霊はふわりと浮きあがって優雅に会釈をした。
「では、ことばのままに」
 次の刹那、かがやく影ははるか前方の中空を浜へむかって飛んでいた。
 そこでは、魔物に魂を売りわたした裏切り者が、いましも捉えられようとしているところだった。
 疲れきって膝をついた作男をぐるりと取りかこんだ男たちは、さんざん手こずらせてくれた相手にどのようにして制裁を加えるべきかに思いをめぐらし、残忍な歓びを味わっていた。
 炎が湿気をふくんだ風ににじみ、油をしみこませた木のパチパチとはぜる音と、荒々しい呼吸がまじりあう。観念したのか、微動だにしなくなった男の背中に、吠えるような非難の声が絶え間なくあびせられかけられる。
 その場をおおっているのは、殺気だっていると同時にこれからはじまるはずの残酷な見せ物への期待にみちた、物騒な愉悦の空気だった。男たちは狩りだした獲物をなぶるように、嗤いながら順繰りに作男を足蹴にしはじめた。
 それがとつぜん、恐怖にみちた悲鳴に変化した。
 ティストは、頭上に白い影がひらめくのを見た。
 男たちは一瞬ぼうぜんとし、ついで逃げまどいはじめた。突如あらわれた魔は、かれらの想像していたもの、それまでさんざん追いかけまわしてようやく捕らえたものとは、明らかに異なっていたのだ。
 精霊は飛ぶように男たちの鼻先をかすめて移動した。まるで風に舞う木の葉のようなとらえどころのない動きに、男たちは翻弄され、その尋常ならぬうつくしさ、気配のつめたさに怯えて息を呑み、悲鳴をあげた。松明は放り出され、炎は湿った砂にのまれて消えた。浜は暗闇に落ち、精霊の身にまとう青い炎が冴え冴えときわだってゆく。
 ちりぢりになって逃げていく男たちの眼に、精霊はあとをひくようにまとわりついた。視線を捉えられ、恐怖にかられて走りまわるが、大地を歩むことのないものをふりきることはできない。その深い瞳は、切りとった闇のように魂を吸いよせた。精霊を目のまえにして絶望の呻きをもらす男たちは、つぎつぎに底のない淵に沈むように倒れていった。
 進路を阻むものをうしろから突きとばし、倒れたものを足蹴にして、最後まで逃れようとあがきつづけたオルジスにも、精霊は容赦なかった。老人は向きを変えるたびに精霊と真向かってしまうことに悪態をつき、わめき、ののしり、どうか見逃してくれと涙を流して懇願さえしたが、しまいには精霊のゆびにひと触れされて意識を失った。あがった声は、自分の運命を認めようとしないものの、未練にみちたあがきの声だった。
 そうして、海辺は静寂につつまれた。
 松明の残り火が地面でくすぶっているほかに、うごくものはない。
 浜辺は、よせる波音すらうち消されてしまったかのような静寂に支配されていた。
 精霊は、うつくしい顔になんの表情も刻まずに、まっすぐに砂浜の上に存在した。足は地につけずに――正体を失ったいくつもの肉体は、かがやく足下にひれふしているようだった。
 頬をなでる風に、シアはようやく我にかえって眼をしばたたかせた。
 気がつくと、つい先ほどまでは遠かったはずの精霊のすがたが、目の前にある。
 底知れぬ深みをたたえた瞳に、彼女はおもわず顔をそむけた。いったい、この得体のしれない存在は、島びとたちに何をしたのだろう。
「生命の炎を吸いとったのだ」
 霜のような声が耳元をついた。それは彼女の疑問へのいらえのように聞こえた。だが、精霊はかわらずにシアの前にいる。波の上の、海面よりわずかに高いところに、まぼろしのように浮かんでいる。そしてけして波立たない白い顔は、彼女にむけられている。
 シアはふたたび顔をそむけて、エスカを見た。
 魔法使いもまた、精霊が少女に関心をしめしていることに気づいていた。かれの持つ指環がそれを感じとらせたのだ。訝しみながらも、かれはシアをなだめるように微笑んでみせると、精霊に舟を浜に戻すように命じた。
 ゆっくりとうごきだした舟は、満ち潮を迎えた湾をすべるように砂浜へとちかづいていった。三人がかりで沖をめざしたときとは段違いに短い時間で、舟底は砂地についた。
 エスカは小舟から飛び降りると、飛沫をあげながら艫へまわって大きな抵抗を受ける砂地のうえを押していった。かれは波にさらわれる心配のないところまで舟を押しあげた。
 いっぽう、ともに飛びだしたシアが波を蹴飛ばしてむかったのは、島びとたちのいる浜辺のほうだった。
 男たちは波打ち際に漂流物のようにころがっていた。
 シアはぬれた足で湿った砂とかわいた砂を交互に踏みしめながら、ひとりひとりの顔を確かめていった。
 湿った砂は表面を波があらうたびに音もなくくずれ、かわいた砂はパンを焼く粉のように足にへばりつく。それをいとわしく感じながら、じりじりと彼女はひとりの人物を求めた。うつぶせになっている顔をのぞき込み、おりかさなっている躯をどかしながら。かれらはいちように恐怖にこわばったままの顔で意識を失っていたが、傷ついていたり様子のおかしいものはひとりもいないようだった。
 ティストは、五、六人がかたまり伏しているとなりに、ひとりだけ外れてあおむけに横たわっていた。
 シアは、男たち二、三人を無造作に飛び越えた。そのころには、舟を固定し終えたエスカも追いついてきていた。ふたりは気を失ったままの作男の両脇にひざまずいた。
「ティスト、ティストってば」
 シアは男のたくましい躯に手をかけて、かすかにゆらした。
 眼窩の奥のかたく閉じられたまぶたは、ぴくりともうごかない。
 肩に両手をかけてゆさぶってみたが、かみしめるようにむすばれた口元にも変化はなかった。
 頬を叩き、鼻をつまみ、耳をひっぱり、
「ティスト、起きてよ、ねえ」
 みだれて顔にかかるぼさぼさの黒髪をひきぬきそうな勢いに、エスカはあわてて制止をかけた。
「ほんとうに気を失ってるだけなの。ちっとも目をあけないじゃない」
 非難のことばに不安をにじませながら、シアはつかんだ髪の毛を手放した。
 エスカはまず男が息をしていることを確かめると、こわばった眉間に右手のゆびの腹をあてて、かすかに目をふせた。はりつめた一瞬の後、少年のまなざしは鋭くなっていた。
「精気の波がすこしだけ弱くなっている。このまま放っておいても、命に別状はないようだけど」
 いつのまにか後にやってきていた精霊にむかって問いかけた。
「かれだけ、意識を戻せるか」
 精霊は返事の代わりにすうとティストの上に移動し、無言のままに眉間をひとなでした。
 実体感のともなわない精霊の白いゆびが、土気色の肌をかすめたとき、蒼白い炎がほのかにとびうつった。炎はつぎの瞬間には液体のように溶けて流れだし、額から中にしみこんでいった。
 やがてふたりの見守るなか、まぶたがかすかに痙攣し、目もとにしわが生まれた。くちびるがゆがみ、鼻の頭に皺がよった。眉間にちからがこめられ、苦悶の表情がかたちづくられる。
「ティスト」
 シアが名を呼ぶと、答えようとするかのように喉がうごいた。
 頸の筋肉、肩の筋肉がさざめき、それはみじろぎに変化してゆく。
 最後にまぶたがひきつったかとおもうと、黒い瞳があらわれた。はじめはぼんやりと宙を見つめ、しだいに焦点があいはじめる。
 ティストはシアの姿をみとめ、笑みの前兆に口をゆがめた。しかし、変化は途中で凍りつき、驚愕にとってかわった。表情の変化に驚いたシアは、男の視線の先を知ろうとして身を起こした。そのとき彼女の耳をうったのは、怯えにみちたかすれ声だった。



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