「おまえは、あのときの――」
 ティストは怯えた瞳で精霊を見あげ、かと思うとやおら上半身を起こして、座ったまま砂の上をずるずると後退した。
 これほどまでになにかを怖れているティストを、シアは見たことがなかった。
 だが同時に、男の顔に浮かんでいる奇妙で複雑な表情が、このところ彼女にむけられてきたあの、不可解で腹立たしい表情と似ていることにも気づいていた。不安と憎悪と恐怖と恐れと――似ているどころか。そっくりおなじだ。
 ティストは声を喉からしぼり出すようにしてわめいた。
「そうだろう。あのときの魔物だ――月の夜、あのひとと一緒にやってきた」
 吠えかかる犬のようにひくい姿勢からかすれ声で詰問する人間に対し、精霊はただ静かだった。投げつけられる言葉を聞いているのかもわからない。その一見無関心ながら冷ややかとも受けとれる態度にいっそう恐怖をかきたてられたのか、ティストはなおもいざって後退した。
「殺すなら、殺せ。仇を討ちに戻ってきたんだろう」
 ぶるぶるふるえながら精霊をにらみつけるティストに、それまであっけにとられていたエスカがようやく話しかけた。
「どうしたんです、落ち着いてください。あなたは襲われているわけではありません」
 ティストは口をつぐんだ。少年と精霊の双方にそそがれる険しくつよい視線には、炎のような感情が脈うっていたが、そのあいまにふとシアが入りこんだことで極度の興奮は鎮められていったようだ。ギラギラとしていた眼から激情がうすれてゆき、あとには緊張としずんだような猜疑がとってかわった。
 エスカがもう一度言った。
「大丈夫です、信じてください。あなたに危害は加えさせません」
 エスカは手の中で指環を握りしめていた。精霊は半眼のまま、なりゆきを傍観している。
「ほんとうだよ、ティスト。あの魔物は、かあさんの指環から呼びだしたやつなんだ」
「魔物じゃない、精霊だ。それに、指環からじゃなくて、指環で呼びだしたんだ」
 エスカの訂正をシアは聞いていなかった。
「だから、こわがらなくてもいいんだよ」
 ティストは少女を見た。そして、なにかを口にしようとして、ためらい、ふたたび宙に浮かぶ存在を盗み見た。
 精霊がまぶたをあげた。怯んだティストは反射的に目をそらしそうになり、ついでたいへんな努力の末に踏みとどまった。凪いだ海面めいた深い闇の瞳に幻惑されまいとするように、ティストはくちびるを噛みしめた。
「やっぱり、そうだ――あのときの――でも、殺しにきたんじゃないとすると、いったい……」
 口のなかでぶつぶつとつぶやくのに、今度はシアとエスカが怪訝な顔をする番だった。
 エスカはティストから精霊へ、ついで手のなかの指環に視線を落とした。
「もしかして――あなたは見たんですか。レイディ・メリアナがこの島にやってきたときに、その姿を」
 問いの言葉を最後まで聞かないうちに、ティストの表情に変化があらわれた。恐怖と緊張にこわばっていたものが、支えを失ったようにくずれてゆがむ。男はふるえながら精霊を確かめた後に、ゆるゆるとシアをふりかえった。
 すがるようなまなざしは、いつも畑で黙々とはたらく土の匂いのする男には、まったく似つかわしくないものだった。いたたまれなくなって、シアは悲鳴をあげた。
「どういうこと。かあさんを見たって、それがどうしたの。ちゃんと説明して」



「おれは、あのひとが光る白い馬にのって海辺におりたところを見てたんだ……ここに、この砂浜に、赤ん坊をかかえて、まるで女神さまみたいに優雅に舞いおりたところを……」
 ティストは膝を両腕でかかえこみ、てのひらで顔を覆っていた。
「嵐の後、出たばかりの月が、手につかめるくらいに大きく見えた晩だった。だれもいなかった。めぼしいものはあらかた浚われたあとで、おれの目当ては、大人が残したおこぼれの流木を拾うことだった。そのとき、あのひとがやってきたんだ。白い馬は、地面に降りるとこの世のものとも思えないほどきれいな人の姿になった。まるで、夢を見ているようだった――おれは見とれてた。どこにいるのか、なにをしにきたのか、そのとき手にしていた物のことすらすっかり忘れてしまった。あのひとに声をかけられるまで、自分がまる見えだったってことにさえ、気づかなかった。そして、声をかけられたとたん、もっとわけがわからなくなっちまって――」
 なかば夢まぼろしと信じていた人物に呼びとめられたとき、ティストはなけなしの冷静さを失った。声が響きとして耳につたわり言葉をかたちづくるよりも前に、拾いあつめた流木をうち捨てて恐怖にかられて逃げだしたのだ。
 父親の待つ小屋へところがるように走りつづける途中、かれは出会った人物すべてに目のあたりにした出来事を話して聞かせていた。話さずにいられなかった。こんなに突拍子もないことが、世の中にはあったのだ。いままでにだれかが見た話など聞いたこともない。魂を奪われてしまいそうなほどに、うつくしくも不可思議な、えもいわれぬ光景だった。まなこに捺された冷たい炎の記憶が、からだじゅうをかけめぐっていた。
 あれを見たのは、島じゅうでただひとり、自分だけ。自分だけなのだ。
 あとになってみると、熱に浮かされていたような気がしたものだ。ふだんのティストは、それほど口数の多いほうではない。だからよけいに話すことに恍惚として、そのことが他人にどんなふうに受けとめられるのか、自分がどんな災いをひろめようとしているのか、考える余裕もなかった。そのとき、かれはまだ十になるやならずの、まだまだ子どもだったのだ。
 メリアナの到着は、ふつうではありえない来訪の仕方をふくめて、またたくまに皆の知るところとなった。翌日の島の炉端はよそ者の、しかも魔女だという女の噂でもちきりになっていた。
 人びとははじめのうち、メリアナに愛想がよかった。大陸のめずらしい話をいろいろとねだったり、日々の問題にすこしばかりの助言をもらったりした。こわごわながら近づいたものたちは、よそ者のあらたな情報を少しずつ炉端に持ち帰り、そんな勇気を持たないものたちと一緒に話の種としてしゃぶりつくしていた。
 メリアナが居をかまえた島の裏側に、ティストは幾度か訪ねていった。戸口に立つと、メリアナはすぐに気づいて、あたたかな笑顔で迎えいれてくれた。すでに母親を亡くしていたかれにとって、メリアナはあこがれのひとだった。彼女のいだくふっくりとした赤ん坊は、母親とともに冥府の川を渡った妹のようにも思え、なおさらにメリアナのいるところが慕わしく感じられたのだ。
 ひとびとの言葉のはしに、悪意のねじれがくわわるようになったのは、いつのころからのことだったか。
 よそ者を疎ましく思う感情は、この島に住まうものたちがひとしく持ちあわせ、厳しい生活のよりどころとしていたものだ。みしらぬものを無邪気に楽しんでいられたのは、ほんのいっとき。めあたらしさが薄れてしまうと、そこにはなにげない日常をいちいち逆なでるよそ者がいた。しかも、それは博識で、かしこく、うつくしい魔女だった。
 おそらく、はじめは些細なことだったのだろう。しかし、些細であればあるほど、ひとびとは簡単に信じてしまうものだ。噂にさまざまな尾ひれがついてゆくのは速かった。いつしかメリアナの背後には恐怖と憎悪の影がつきまとい、ひとびとは彼女を魔女ではなく魔物と呼ぶようになった。そのちからの源は生き血なのだという噂が囁かれ、身元のさだかでない目撃者の、病で死んだ老人のからだに刻印された呪いの痕跡をみたということばに騒然となった。島は悪意でみずびたしになっていった。
 メリアナは心を痛めていた。生まれたばかりの赤ん坊と安住の場所を求めて島にやってきたのだ。悶着を起こしたいと思うはずがない。
 彼女は皆の前ではつとめてただびととしてふるまっていたが、いったんついてしまった悪意の炎を消し去ることはできそうもなかった。たとえ不思議な力をふるわなくとも、彼女が特別であることにはかわりなかったからだ。どんな言葉を投げつけられても毅然として怯まず、すらりとした身体にそなわった静かな威厳は、その気になれば島長さえ圧倒した。本人は長旅の疲れでずいぶん参っていたようでもあり、ひっそり暮らそうと努力していた。しかし、光をまとってきらめく金の髪や、碧い眼にやどる意志の輝きを隠すことまではできない。
 ティストは、メリアナの苦境を招いたのはじぶんかもしれないと、気づかされるようになった。島びとのこころに最初にメリアナの異様を植えつけたのは、かれだった。かれの言葉が、メリアナの輝きに影を落とすきっかけをあたえたのだ。背後でオルジスが噂をあおり、ひとびとを駆りたてていることを知ったところで、なぐさめにはならなかった。
 あの夜、逃げだしたりせず、彼女の言うことを聞いていたら。帰り道の途中でだれかれかまわず話してまわらなければ、こんなことにはならなかったのではないか。
 メリアナは、賢者のいうような魔物ではない。化け物でもない。だが、ただのひとかというと、それは違うとしか言いようがなかった。なによりかれは、もう一度、出会ったときに見た奇跡を目にしたいと願っていた。罵られ、ときに暴力を受けるようになったメリアナを陰で盗み見ながら、いつかふたたび、あの白くかがやく月夜のように不思議のわざを披露してくれるのではないかと期待した。だから、噂を否定してまわることもしなかった。メリアナの好意をうれしいと、たいせつだと感じながら、そんなことを考えていたのだ。
 ティストは自分を深く恥じるいっぽうで、不可思議の領域に騙しつれこまれたような気分からどうしてもぬけられず、自己嫌悪にさいなまれた。
 そうするうちに、メリアナはなにかの事件に巻き込まれた。こどものかれに真相を知るすべはなかったが、賢者オルジスが魔物の死を告げたとき、島にひろがった安堵と罪悪感の混じった複雑な空気は、忘れられない。そして、かれがひとり、心のかたすみで望んでいた奇跡は、ついによみがえらなかった。
 いったい、自分はなにをしたのだろう。そして、なにをしたかったのだろう。
 こらえきれなくなったティストは、父親にすべてをうちあけた。話を黙って聞いた作男は、かたくなったひびだらけの大きな手で息子の肩をつかみ、なかば皺に埋まったような小さな眼できびしく見すえて言い聞かせた。
「おまえはつぐないをするんだ。あのひとが高貴なおひとだというのなら、きっとだれかが探しにやってくる。そのとき、おまえは仇と名指されるかもしれんぞ。つぐないをすることだ」
 それから十数年間、後悔と不安をいだきつづけて生きてきた。
 メリアナの残した子どもが大きくなるにつれ、あれほどまでに魅了された夜の記憶は薄れた。
 少女の笑顔にメリアナの面影を見るたびに、苦い過去を思い出し、同時に、父親の予言したような報復はもうないのだと、思い始めてもいた。不安を感じつつ、否定しつづける日々。
 そうしてすべてをなかったことにしようと、そうすることができるのではないかと思いはじめたときに、金髪の少年の乗った舟が島に流れ着いたのだった。



 ティストの告白は、耳に快いものではなかった。
 かれはエスカがやってきてからのことは話そうとしなかったが、ここまで聞けばあとはシアにも推し量ることができた。かれの態度の理由を。まなざしの意味を。とつぜん助力を申し出てきた、そのわけも。
 ティストは顔を伏せていた。力なく闇に消えていってしまいそうな姿にむかって、なにかを言ってやりたかったが、言葉が出てこなかった。くちびるを噛んで、シアは背を向けた。
「理由がなんであろうと、あなたには助けていただいた。ぼくは、感謝しています」
 エスカのことばを払うように、男は首をふった。なげやりなしぐさに、エスカはしばしためらい、後ろをふりかえった。シアは小舟に向かって歩きはじめている。
「一緒に、行きませんか」
 そっと差しだされた申し出に、ティストはわずかに顔をあげた。言葉の意味を吟味するように、うつろな瞳がおよぐ。しばしの沈黙の後、答えは返ってきた。
「いや。おれはこの島の人間だ」
 しずかではあるがきっぱりとした拒絶にうなずきを返し、エスカは立ちあがった。男は少年にかすかな感謝のまなざしを送り、ぽつりと言った。
「あの子の面倒を、みてやってくれ」
 小舟にもたれながら、シアはやってきた方向をながめていた。月のおぼろな光がこまかな事実を覆いかくし、わかるのはただ、こちらにむかって歩いてくるのは、エスカひとりということだけだ。
「あの男には、もう、会えぬだろう」
 かたわらにたたずむ精霊のことばは、聞かなかったことにした。どうして精霊にこんなことを言われなくてはならないのか、わからない。戻ってきたエスカは、シアの顔を見てなにかを言いたげにしている。身をひるがえしてその間をあたえず、シアは無言で舟を押しはじめた。
「ほんとうに、いいのか」
 心配そうな声に、シアは舳先に浮かびすすんだ精霊の姿に目を凝らすふりをして、ふりむきもせずに答えた。
「あたしは、大陸へ行く」
「……ティストのことだよ」
 見当違いの答えに、エスカは不満げだった。
「あのひとは、きみを心配していたんだよ。こんなふうに別れて、後悔するぞ、きっと」
「だって」
 がまんできないというふうにシアは抗議した。
「あのひとは、かあさんを見殺しにしたんだよ。おまけに、罪滅ぼしだの、つぐないだのって、あんなに情けないこと言われて。まるであたしと仲良くしてたのは、いやいやだったみたいに」
 言葉は終わりには叫びになって口から飛びだし、同時に、両の目から大粒の涙がころがり落ちた。
 それまで必死でこらえていたものの、涙はもう、どうしようもなくあふれようとしていた。流れおちる涙をなんとか押しとどめようとするゆびがむなしく、ゆがんだ口からは意味のとれない嗚咽がもれてくる。
「――ティストが、ほんとうにそれだけで、きみと親しくしていたとどうして思うんだ」
 ふるえる痩せた小さな背中に、少年はそっと片手を置いた。
 波の音だけがひびく夜の大気につつまれて、すこしかすれた魔法をつむぐ声が、シアの背中をなだめるように撫でてゆく。
「ティストは、きみのことをほんとうに気にかけていたよ。きみだって、あんなにあのひとを心配していたじゃないか。ティストはずっと、きみに優しかったんだろう。どうしてそんなふうに決めつけてしまうんだ」
 シアは涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげて、一生懸命涙をぬぐおうとした。
「シア、あのひとは苦しんでたんだよ」
「わかってるってば」
 怒ったように言い返したシアは、ふたたび泣きだした。
「わかってるけど、そんなことはわかってるけど、でも……」
 ぶかぶかの服の胸元をかきむしるようにして、シアは言葉をのみこんだ。むりやりだったせいか、喉に痙攣がおこり、泣き声にはしゃっくりが混ざるようになった。
「……ティストのことは、あたしのほうが、ずっとずっと、知っているんだからね」
 涙声で苦しげに抗議するシアに、エスカはもう、なにも言わなかった。
 潮が満ちはじめた海で、波は先ほどとは比べものにならないほど奥まで入り込んでいた。一度浮かんでしまうと、舟はひきずられるように沖へと運ばれ出した。ふたりはもうこれ以上は押せないというところまでやってきて、ようやく舟底に転がり込んだ。小舟は大きく傾ぎ、ひときわ激しい飛沫がひろがった。
 シアは舟を大きく揺らしながら舟縁につかまってのびあがってみた。
 はるか後方になってしまった砂浜の、もう闇とも影ともつかぬわだかまりのなかに、麦粒ほどの大きさの人影が見えるような気がして、涙でかすんだ目を凝らした。ティストがいまだにこちらを見ているのは間違いなかった。初めて舟に乗り、島を出てゆこうとしている小さな妹を、その行く末を案じて、じっと見送りつづけているはずだ。
 わだかまる心に、嘘はつけない。けれど、このままなにも告げずに別れてしまったら、ひどく後悔するだろうということもわかっていた。いまだってそうだ。なにも伝えなかったことが苦しくて、ほんとうはティストのひろい胸に顔をうずめて泣きたかった。でも、それをしたら、ひとりでゆくことができなくなってしまうという気がした。もう島にはいられない。頼ることのできる大きな存在にあまえて、ことをうやむやにしてもらうことも、もうできなくなるのだ。
 言わなくては。シルグにはちゃんとさよならを言えたのだから。
 シアはおそるおそる口をひらいた。
「ティスト」
 名前を呼んだが、風がさらってしまう。
 聞こえるかどうかはわからない。けれどシアは叫んだ。
「さよなら」
 人影は、手をあげて答えてくれたような気がした。
 エスカは舟の針路をさだめようと星に目をうつした。黒い波の上に先導するかのように浮かんだ精霊は、ひときわ明るく輝く星の方向へと舳先を固定した。
 月はかたむき、夜は更け、小舟はちいさな世界から離れてゆく。
 銀の光をうけて波にゆれるそのうえに膝をかかえてうずくまり、遠ざかる海岸線をシアはいつまでもみつめていた。



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