エピローグ



 青空の下、海神の呼吸にもみくちゃになるのをなんとかこらえながら、小舟は進みつづけていた。
 夜の星ぼしの位置や、蒼天の太陽の軌道を見るかぎり、誤った方向にむかっているおそれはなかった。いまのところ、精霊はあるじの命令をきちんと果たしている。
 だが、エスカは不安だった。
 刺さるような陽光や、突然やってくる雷雨が原因なのではなかった。出発したころよりも天候が怪しくなっているのは確かだったが、それとはっきりわかるほどのきざしは、まだ見えない。
 いままでにいくつか立ち寄ることのできた小島は、すべてが無人だった。そこで水の補給と、ゆれない大地でのしばしの休息をとることはできた。食糧は、まだ数日分は残っている。シアとティストはずいぶんたくさんの貯蔵物を館から失敬してきていたのだ。それでも、節約のためにできることはなんでも試みている。毎日、することはたくさんあった。
 小舟での旅は、怖れていたほど、ひどいものにはなっていない。
 気を配らなければならない同行者が増えたものの、いまのところ餓えもせず、それほど渇きもせず、命の危険を感じることもなく、毎日が過ぎている。むしろ、順調にゆきすぎているといったほうがエスカの心境に近い。
 それでも、疲れはたまっていった。一日中太陽にあぶられて、肌はひりひりと痛み、頭が重く、体がだるい。無理もないことだった。かれはもう、ずいぶん長い間まともな休息をとっていない。狭い舟底はいごこちがわるく、どんなに楽な姿勢をとろうとしても限界があるのだ。
 塔の寝台が恋しかった。石造りの建物の、見習いばかりの暮らす部屋は、けしてひとりにはなれない、やかましいところではあったものの、焼けるような焦燥ともひとの命を預かる責任とも無縁な、のびやかな場所だった。
 朦朧としながら意識はさらに過去へと沈みこもうとする。目の詰んだやわらかな毛織りのうわがけの匂いをとおりぬけたあとで、故郷の森の奥深くを歩いている自分を夢想していることに気づいたときにはぎょっとした。
 いきなり頬をはたきはじめた魔法使いに、同行の少女は目をまるくしていたが、ともするとさまよいでようとする意識のおかげで、かれはようやく状況をただしく認識するにいたった。
 すこしまえからエスカは迷っていた。
 最近姿を見せない精霊だが、魔法使いの緊張の糸が切れる瞬間を、てぐすねひいて待ち受けているのはまず間違いなかった。ときおり、たしかめるような力のかけひきを唐突に感じることがある。ひそめられていた気配が突如としてふくれあがり、主導権を取り返そうとする意志を強烈に感じるのだ。あわてずに対処できれば気配はおとなしくなるが、問題は、疲労のためにそれが次第にわずらわしくなっているということだった。
 現在かろうじて支配が持続しているのは、名を刻んだ指環があるために他ならない。意識が散漫になれば、精霊は隙をついて自由になろうとするだろう。それをどの程度阻止しつづけられるか、自信は、はや消滅しかけていた。いや、そもそもの始めから自信などなかったのだ。ほかに何も選択肢を思いつかなかったから、さしだされた指環をつかんでしまっただけのこと。
 なりゆきで無謀な賭けにでてしまったエスカだったが、限界はもう目の前に見えてきていた。シアのためにも自分のためにも、安全なやり方を考えるべき時がきていたのだ。
 さいわい、二、三日前から乗っている潮は、目的地の方向へと自然に小舟をみちびいている。多少速度は落ちるだろうが、いまは精霊に頼るのをやめ、潮の流れにまかせたほうがいいのかもしれない。おだやかな旅が一変するような出来事は、いつ起きるともかぎらない。最悪の状態でその瞬間をむかえるより、そのほうがずっと危険は少ないはずだ。
 けれど、潮まかせに進んだとして、確実につぎの島影をみつけることができるだろうか。ティストにむかって自信ありげに言ってみせたことはまだ記憶にあたらしいが、実際には船旅に関する知識など、ほとんどないも同然なのだった。なにに意地を張っていたのか、いまとなっては自分でもよくわからない。魔法使いの修行のおかげで星や太陽の位置から方向をわりだすことはできるものの、舟については櫓を漕ぐことすら要領を得ない。むだな体力を費やすだけとわかっていたので、手をかけたいとも思わなかった。前回の漂流の際にさんざん経験していたからなおさらだ。
 たとえここが、混沌の淵をかかえる霧深い暗黒の大森林のなかであったとしても、たよりなく波に揺られているいまよりは、たしかな手応えを持てるかもしれないのに。そう考えはじめている自分に、兄弟子のもっと遠くを見ろと叱る声が聞こえるような気がした。
 ここは海神の領土だ。わたつみは理不尽な神かもしれないが、悪ではない。光を侵す闇でもない。うねる波は命の胎動に似て、ちからに満ち、きらめいている。
 太陽が眩しかった。刻々とかたちを変える雲の下を、大柄な海鳥たちが気流に乗って飛びかっている。
 潮風にのどの渇きを感じ、水の入った皮袋に手を伸ばしかけて、自分を戒めた。
 陸地に着くのは、まだ当分先のことだ。水は貴重だ。それは、あの夜、奥方の言ったとおりだった。食べ物よりもなによりも、からだは水を欲するのだ。
 舳先に座ってあきもせず前方を眺めている少女は、普段と変わらなかった。
 シアがふさぎ込んでいたのは、はじめの一日だけだ。
 島影が見えなくなったのを境に、少女は人が変わったようにあかるくなった。波に翻弄される小舟のゆれにもすぐに慣れてしまい、きらきらと輝く海面のしたをすばやく移動してゆく海獣たちの姿に歓声をあげたりしている。ときどき、かれを気づかって水をすすめてくれたりもする。
 無理をして明るくふるまっているのかどうかの区別までは、エスカにはできなかった。こう疲れていては、人の顔色を読みとるのも難儀だ。
 エスカはため息をついた。
 メリアナ・グラガードの眠る島を出て、幾日が過ぎたのだろう。
 これから大陸でもっとも近い港に着き、すぐに北へ向かったとしても、塔への道のりはまだ長く、それは気が遠くなるほどだった。
 兄弟子と塔を出たときから数えても、すでに一年半の時が経過している。もし、帰り道にさらに時間がかかるようなことになると、その間にディナス・エムリスはどこまでも傾き、その事実をかれは当事者として目の当たりにできないのかもしれない。
 いま、このときにも命をけずりながら戦っているはずのひとびとを思うと、底知れぬ恐怖と嫉妬にさいなまれそうになる。
 メリアナに託されたちからの石は、実際になにかの役に立つのだろうか。これからシアを大陸につれていったとして、彼女は島にいたときよりも幸福になれるのだろうか。この旅には兄弟子の命とひきかえにした価値や意味がほんとうにあるのだろうか。
 すべてが間に合わず、徒労となったときのことを思い、不安に背筋をなでられたような気がしたとき、シアがあっと声をあげた。その高い声の突拍子もない響きに、エスカは驚いて腰を浮かし、あやうく舟の上でひっくりかえりそうになった。
「ほら、あそこ」
 指環をした少女のゆびがさししめしたのは、蒼天のはるか彼方だった。目を凝らしたが、まぶしさに焦点が合わずなにも見えない。エスカはからだではなく、心の眼のほうをつかって、もういちど、前方を見た。
 それは、金色の鳥だった。
 青い空に、からだよりも数倍大きな翼をひろげ、優雅に旋回している。
 エスカは島にたどり着く前、気を失っていたあいだに見た夢を思い出した。黄金の影は、そのときの鳥とそっくりに見えた。あきらかに海鳥とは異なるそのすがた。小舟の行く手をさししめすように飛んでいるところも、ときおりたしかめるように後ろをふりかえるそぶりをみせるところもだ。
「ついてこいって、言っているみたいだね」
 シアは頬を上気させてはしゃいでいた。
 彼女はエスカのみた夢など知らない。かれが鳥の姿にふしぎな思いをいだいていることも、知りはしないだろう。
 エスカは夢が現実になったときに感じる、ひたひたとした熱い感慨にとらわれていた。
 もしかすると漂流していた数日間も、あの鳥によって先導されていたのではないだろうか。あのとき、ゆくあてを失ったあわれな人間に、鳥は、なんの気まぐれか目的地をさししめしたように思えた。まるで、天空の支配者エメルクレインの使者のように威厳をもって、こちらへ来いとつよくうながしているようだった。
 それは夢だからなのだと思っていた。夢はひとと異界を繋ぐものだ。夢の鳥が、神の使者であってもふしぎはない。塔でそういう話を聞いたことはたくさんある。だが、あれは夢ではなかったのかもしれない。もしかすると、現実だったのかもしれない。
 いまもかれの存在は情けないほどにちいさく、なのに両肩にかかる責任は増したような気がしている。金の鳥はそんなちっぽけな旅人の先導者であるばかりか、守護者でもあるようだった。ほかに仲間もなく、たった一羽でとびつづけるその姿は、かれらを励まし勇気づける。
 陽光を背から受け、輝くその姿に、ふたりは我を忘れて見入っていた。
 海原をともに行くものがいるということに、あたたかなものを感じながら。
 鳥影は、空のかなたにゆくべき途をしるして、水平線の遠くへと消えてゆく。
 あとに残ったのは、海と空の、眼にしみるような青だった。

<了>




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