prev 月影の歌う木々2 next

 シアとエスカがミルテに拾われてから、ということはこの村にやってきてから、すでに四日という時間が過ぎていた。
 港街ローダから水上の都市トリエステヘとむかう道の途中、だらだらとつづく登り坂にいいかげん疲れてうごけなくなっていたところを、荷馬車で通りかかった若い女に見つけられ、エスカと一緒に荷台に放りこまれてたどりついたのだ。
 それ以来、ふたりは女、つまりミルテの世話になっている。
 ミルテは鍛冶屋のひとり娘で、歳の頃は二十歳くらい。黒い髪を編んでまとめ、小柄で、太っているとは言えないまでもふくよかなからだつきをした人物だ。
 行き倒れ寸前のエスカと、それをひきずるようにして前進していたシアを見つけたときには、かすかに眉をしかめるようにしてしばらくながめていたが、ずたぼろの服を着た汚れたこどもふたりに、決然としてうなずいてみせた。
 それはかれらに同情したというよりも、義務感のようなものを感じさせるふるまいだったが、そのあとすぐに見せた快活な微笑のおかげで、警戒がゆるんだのは確かである。
 ミルテは無愛想なほどにそっけなく、けれどけして冷たくはなく、むしろ親しみをこめてふたりを扱ってくれた。エスカのために薬師を呼んでくれたのもミルテなら、その代金を払ってくれたのも、汚れきったシアにお湯を使わせてくれ、新しい(といっても新品ではなかったが)服までだしてくれたのもミルテである。
 必要と思えることはすべてやってくれ、なのにそれ以上の干渉はせず、ほとんどの場合はほったらかしで、たとえば、シアのしているあきらかにゆるすぎる指環の由来や、くびから下げている宝石の嵌めこまれたペンダントのことも、薄情なくらいになにも訊いてこなかった。
 ミルテの態度は、黒髪と茶褐色の瞳に褐色の肌という容姿のためにいだく先入観から、つい逃げ腰になってしまうシアにも気を遣わせなかった。
 シアはほんとうは会った瞬間からミルテを好きになっていた。ミルテに悪意はないこともわかっていた。かれらに対していだいているのは保護本能のようなものであることも。彼女はみすぼらしいふたりを可哀相に思い、純粋にたすけたいと思っているのに違いない。
 ようするに、それだけふたりが憐れをもよおす存在になっていた、というわけなのだが。
 シアが気になっているのは、ミルテの表情に影のように落ちている悲しみだった。
 たんに疲れているだけだったシアは翌日には回復したが、エスカのほうはまだふぬけ状態から戻りそうになかった。当分、厄介をかけることになりそうだということがわかって、シアはすこしずつミルテの手伝いをするようになった。
 といっても、できることはあまりない。
 育った島では館の下働きで山羊飼いのようなことをしていたが、この村には家畜といえば牛や豚や鶏しかいなかったし、畑仕事の時期はとうに過ぎていた。
 とりあえず、一日二回の食事の支度の手伝い(鍋のシチューをかきまぜる)や、エスカの世話(薬をとりにいく、薬を飲ませる、シチューを食べさせる)や、ちょっとした使い走りをひきうけることになり、ただ飯食いの後ろめたさをわずかなりとも軽くすることができた。
 それにソリーがいた。
 ソリーはミルテの家で飼っているかなり大きめの犬だった。
 番犬にもってこいという恐ろしげな姿かたちをしているのだが、はじめて会ったときからシアには妙になついており、気がむいたときにはなにげない顔をしてときどきつきあってくれた。
 おかげでシアはエスカが眠りこんでいるせいで味わうはずだった寂しさも、たいして感じずにすんだ。島でも館の犬とは気が合ったし、もしかすると人間よりも犬との方が相性がいいのかもしれない。
 そういうわけでシアはソリーとともに出かけることが多かった。
 薬師の庵はその主人がひとりで寝起きしている、みすぼらしい小屋だった。
 ミーニアスはひょろひょろと背が高く、草で染めた渋い色の長衣をまとった貧相な中年の男で、肩でまとめた栗色の髪と穏やかな表情がシアの気に入った。
 ミーニアスのほうも、少年としか見えないくらいにやせて、海のような深い色あいの瞳ばかりが印象的な少女を気に入ったらしい。
 かれはエスカの治療をし薬を調合してくれたが、えらぶるところがまるでなく、魔法使いなのかと訊ねるシアに自分はただの薬師だと自嘲気味に念を押した。
 ところでシアには魔法使いと薬師の違いがわからなかった。
「どうちがうの」
「太陽と石ころほどにも。魔法を使うには資質がいるんだよ」
 ミーニアスは大きな手で細かい作業を無駄なくこなし、シアはその手際のよさに魅了されて、乾燥させた薬草がもみほぐされ、複雑な手順を経て薬湯になる過程を見ながら数刻を過ごすこともあった。
 そんなとき、ミーニアスはつれづれのままに色々な話を語ってくれた。
「そりゃ、たしかにエスカはべつだとは思うけど」
 みずからを魔法使い見習いと名乗る少年は、いままでにシアの前でいくつかの魔法をやってみせていた。あきらかに人によるものではない、不思議な感覚が残るかれのわざは、けれどそのためによけいに真実味を失ってしまうのだ。
 はたしてあれは本当にエスカがやったことで、自然の奇跡ではないといえるのだろうか。
 ミーニアスはエスカなら魔法をよくしてもおかしくはないと静かに言う。かれには貴き人々の翳があると言うのだ。
「この村の昔語りに言うよ。秘密のわざはすべてクウェンティスからの賜わりものだと。それをつかいこなすには、かのひとびとのもっていた叡知が必要なんだとね」
 ミーニアスの話すことばは、理解のできないシアにとってはそれだけで魔法的だった。神妙に耳をかたむけている少女の横で薬師はためいきをついた。
「……クウェンティスって、どんなひとなの」
 おそるおそるシアが尋ねると、ミーニアスは物思いからうきあがり、眼をぱちくりさせてシアを見た。
「ああ、クウェンティスというのは神々が人よりも先に創られた、人よりもはるかに優れた人々のことだよ。きみたちが歩いてきた道はクウェンティスが拓いたものだと言われてる。太古の昔には、ここはたいそう深い森の中だったんだよ。かれらは生い茂る樹を決して切り倒すことなく道を創っていった。どうやって? かれらには神よりじかに授けられた叡知があり、それはことばであり、旋律だった。かれらは森の木々に歌いかけ道をあけてくれないかと頼んだ。木々はクウェンティスの力あることばに喜んで従った。人の眼には道はひとりでにするするとできあがっていったように見えただろう。もちろん、そのときにははじめの王すら生まれていなかったと思うけどね」
 シアはクウェンティスの歌ということばの意味するものに、不思議に心を惹かれた。
 ミーニアスの口調から察するに、それは人間のわざとはくらべることすらゆるされない、至高の響きであるらしい。
 それは、吟遊詩人の歌よりもすばらしいものなのだろうか、とシアは夢見る。
 一度だけ聴いたことのある歌人の朗唱は、これ以上ないというほどにシアの心をゆさぶったものだが。
 こうした話は聞いたことのない不思議な知識を含んだもので、それはエスカがときに口の端にのせはしても、詳しく説明してはくれなかったことを理解するのに役立った。
 だいたい、魔法使い見習いの少年はこのところ口数がひどく減っていた。体調が悪かったせいだろうが、島育ちのもの知らずに世間のことを教えこもうという熱意もだいぶ薄れていたようだ。
 熱心な聞き手を得て、薬師は素直に喜んでいるようだった。
 シアはかれ以上にこの時間を心待ちにしていた。エスカの薬をもらいにゆくことはすでに口実と成り果てていたといってもよい。
 一方、酒場へゆくことにははじめのうちはかなりの抵抗をともなった。
 シアの頼まれた用というのは、鍛冶屋が仕上げた農具や刃物を依頼主へ届けるというものだった。
 村の人々は夕方になるとたいてい酒場にやってくるので、わざわざ離れた家まで届けるより効率がよい。だが、見知らぬひとびと、とくに酒の入った大人の中へ入ってゆくことは、よそものの少女にとってずいぶん勇気のいることだった。
 それでも、ソリーがついてきてくれたおかげでずいぶん心強かった。何度か通ううちに慣れてきたのだろう、ひとりならびくびくと通り抜けることしか考えなかったようなところを余裕を持って眺めながら歩けるようになった。
 村人のほうも見知らぬこどもには警戒するが、ソリーを見れば鍛冶屋の居候だと納得してくれる。
 鞣革につつんだ品物をかかえてあるくシアと、そのかたわらに寄り添うソリーの姿は、酔っ払った村人たちにもすぐに覚えられた。
 村人の多くはミルテとおなじように濃い髪の色をしており、何人かはほとんど黒といってもよい瞳の色をしていたが、シアの白っぽい金髪と青みがかった緑の瞳を見ても、とりたてて言うほどの反応は示さなかった。
 身構えていたシアはそれで少しばかり緊張をとき、代金と引き替えに品を手渡すことに成功してだいぶ気が楽になった。
 髭もじゃの丸太のような男たちだが、彼女に悪意をもってはいない。そのうち、双方ともにかすかに親しみを覚えるところまでたどりついて、世間話をするまでの間柄になった。
 そこでシアは、ミルテの秘密を知ったのだった。
 ミルテには許婚者がいた。クレイという名で、炭焼きをなりわいとしていた。
 その若者が、三月前にローダに出かけたきり、戻らないのだという。
 余分にできた炭を売りにいったのだが、それはすぐにはじまるはずだった新しい生活のたしにする金を得るためだった。かれの口にした理由が真実であったのかどうかは、いまとなってはわからない。
 村人たちはクレイがしているかもしれないありとあらゆる行為を噂としてささやきあい、当然のなりゆきとして、ミルテは哀れみと嘲笑の対象に落とされていた。
 酒の匂いがぷんぷんする酒場から、シアは行き場のない思いをかかえて鍛冶屋の家に戻った。
 ミルテはあいかわらずのそっけなさで彼女を迎えいれ、代金を受け取ると食事をあてがってくれた。
 広いとは言いがたい炉端の食堂で羹をすすりながら、シアはそれまでミルテに感じていたことをさらに詳細に観察することで裏付けようとした。
 ミルテは根っからの無愛想なのではなく、許婚者を失うという不幸のために感情が干上がってしまったのだとシアは結論づけた。
 ときおり、遠くを泣きだしそうにして見ていることがあり、そんなときにはソリーはシアから離れて飼い主をいたわるように寄り添った。
 鍛冶屋は娘に対し、表向きは怒りをつのらせているように見えた。ミルテは毎日、荷馬車でどこかへ出かけていたが、おそらくクレイを捜しにいっていたのだ。
 ミルテはクレイがなんらかの理由で帰りたくとも帰れないのだと、信じているらしい。
 鍛冶屋は未練がましい行為をと、苦々しげに娘を見ていた。
 知ってみて、なるほどと思えることもあった。
 はじめから鍛冶屋はシアとエスカのことを快く思っていないようだった。かれの不快はシアにもにおうように伝わっていた。
 ミルテはクレイ探しをしていてふたりを発見した。いわばクレイ探しの副産物であるふたりを、おそらく娘を捨てたことでクレイをも憎んでいる鍛冶屋が、歓迎できるはずもない。
 ミルテとは別に、鬱陶しげなまなざしが気になっていたのだが、理由がわかってみると我慢するしかないようだった。鍛冶屋は不本意ながらもかれらをひとつ屋根の下に住まわせてくれている。
「シア?」
 炉端にしつらえられた寝床にころがったまま、朦朧として薬とシチューを飲みこむだけだったエスカが、はれぼったいまぶたをうっすらとあけていた。
 薬師の見立てによると患っているのは栄養失調と過労ということだったが、だとするとそれは相当ひどい状態まで進んでいたのに違いない。
 ローダを出発するときにすでに兆候はあらわれていたのだが、顔からはまったく血の気が失せ、息遣いは不規則になり、さらには体温が下がり、くったりと道端に倒れこんだときには、まるで死体のように見えたくらいだ。
 それだけ具合が悪かったのに、なにに意地を張っていたのだろうか。先を急ぐのだと主張して譲らないので仕方なくついてきたというのに。
「なに?」
 少年はもとから痩せていたからだがいっそう削られて、このままミイラになれそうなくらいだった。ぼやけた表情がひどくたよりなげで、回復にはまだまだかかりそうだ。
 その証拠にシアが返事をすると、エスカは薄目をあけたままいびきをかいていた。
 思わずむっとして、シアはエスカの額を殴るまねをした。
 その様子をミルテが見ていてかすかにほほえんだ。
 ミルテの微笑みはあたたかい。はじめに見た笑みとおなじように、人を安心させてくつろがせるここちよい笑みだった。きっとクレイという人も、彼女の笑みにやすらぎを覚えたはずだ。
 なぜ、戻ってこないのだろう。ローダで何があったというのだろう。
 思わずそう訊ねてしまいそうになったのだが、やはりできなかった。
 酒場に自分で行かないのは噂のたねにされていることがわかっているためだ。ミルテはなにも口にしないが、それは気にしていることの証拠のようなもの。彼女の傷に触れる権利は、シアにはなかった。
 そのまま幾日かが過ぎて、あいかわらずシアは酒場と庵に通っていた。ミルテもかわらず毎日荷馬車を出し、鍛冶屋はやはりかわらず不機嫌そのものだった。
 変わったことといえばエスカの病状は少しずつ上向いていた。
 寝ぼけ顔がまがりなりにも意識があるといえる状態にまでしゃっきりしてきたし、どんよりよどんでいた眼もだんだん知性の輝きをとりもどしはじめていた。
 そうはいっても、まだ自力で身をおこすところまではいかなかったし、まずさに顔をしかめながらも文句も言わずに薬湯を飲んでもいた。
 だから、偶然がシアに思わぬ衝動をもたらしたときになにも気づかなかったとしても、かれを責められないのはたしかだ。
 エスカはそのとき、泥のように眠っていた。対して、シアはこれ以上ないくらいにはっきりと目覚めていた。
 だから、昇ったばかりの朝日のなかで炉端の床几のうえにある小さなものを見つけることもできたのだ。
 それは珊瑚の指環だった。
 華奢なつくりで、おそらく女のゆびにあわせたものだろう。とびぬけて高価なものではないが、安物でもない。ほのかな赤い色はミルテの微笑みを思わせた。
 とっさにシアはその指環を手にとった。
 見たとたんにわかったが、触れると直感はより確かなものになった。
 指環はミルテのものだ。クレイがミルテに贈った。たぶん、婚約指環だ。
 手渡す前ににぎりしめていたのだろう。指環にはミルテの気配ではない別人の気配が色濃く残っていた。もしかすると、ミルテはずっと指環をはめていないのだ。おそらくはクレイが姿を消し、ミルテの心に疑念が芽生えはじめたときから。
 ゆうべ、ミルテは長いこと眠らずに床几に腰かけていた。
 炉の火灯のなかで指環をながめながら、なにを思っていたのだろう。シアはあまりの近寄りがたさに眠ったふりをしていた。
 いつもは巧妙に隠している哀しみが、ミルテのまわりに帳のようにおりていた。
 シアは指環を床几のうえに戻し、しばらくじっと見つめていた。
 ミルテはこれを置き忘れたのだろう。だが、それはついうっかりとなのか、それともわざとなのだろうか。
 考えるうちにソリーが鼻を鳴らし、ミルテがやってきて、おやという顔をするとなにげないようすで指環をつまみとった。
 シアは指環に気づかなかったふりをしてあくびをし、顔を洗いにいくそぶりをしながらミルテの行動を見守った。ミルテはため息をつくと部屋の隅にある長持ちのなかに指環を放りこんだ。
 その場はなにもなく、そのあともなにも変わったことはおこらなかったが、シアは一日中、指環とミルテとクレイのことを考えて過ごした。
 なにをやってもうわの空の少女にエスカはいぶかしげなまなざしを送ったが、当人はそんなことにはまるきり気づいていなかった。
 エスカは、けれどシアの異常を追求する気力にも体力にも欠けていた。そのときかれの脳裏をしめていたのは、自己嫌悪とずるずると遅れてゆく旅程への焦りだったから。


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