prev 月影の歌う木々4 next

 村を外界から護る森のなかに足を踏みいれたシアは、自分を導く珊瑚の指環が街道へ軌道修正しようというつもりがないことに気づかされた。
 気配にしたがってまっすぐ歩くなら、この先どれだけ歩いても道などあらわれない。ただただ、樹木の生い茂る奥深くへ道なき道をゆくしかないことになる。行き着く先は遠くに見える雪をいただいた山だ。
 とすると、クレイは街でとぐろをまいているわけではないらしい。それはそれで不可解なことではあるが。
 ソリーははじめのうち、シアの後をついて歩いていたが、しばらくするうちに勝手に前へ出るようになった。それほど先へ行く気配はないので、そのあとをゆっくりとついてゆくことにする。前へ出はしたが、犬にも目的地はわかっていないらしかった。
 歩いているうちにわかったのは、空気のちがいだった。
 人の息に穢されることのないすみきった空気は、外界のものとは組成から異なるのではないかと思わせるほど。別世界に入りこんでしまったかのような違和感がシアを包み、それが少しも不快ではなかった。
 むしろ、ここがミーニアスの話に出てきたクウェンティスの森であることが実感されて、うれしいくらいだった。
 村人は森には魔物がいるといって近寄りたがらないけれど、こんなに芳しい空気にみちあふれ、動物たちの気配も感じられる豊かな森が、恐ろしげなところであるはずがない。
 森は謐かだった。
 シアは何百年も昔からこの地に根付いているふるびた木々の間を、おりかさなるようにのびている枝々の下を、はじめての驚異を見つめる眼で通りすぎた。
 太い幹は彼女の胴まわりの二、三倍はあったであろうか。それでも樹々は枯れることなく、青々とした葉をかかえてシアの頭のうえに屋根のようにひろげていた。
 葉ずれのさやさやというかろやかな音が耳元にまるで漣のようにうち寄せた。
 シアはゆるやかなうねりにとらえられ、からだが軽くなったような気がした。
 あたかも水のなかに浮かんでいるように、地に足がつかない。
 森のなかは細部までくっきりと鮮やかに眼に映っているのに、夢のなかの光景のように見える。清浄な大気が現実感をそいで、目覚めたまま夢の世界を歩いているような感じだった。
 シアはなかば無意識のうちにソリーの後を追いながら、樹々のさやぎに旋律を聞き取った。
 シアはささやきのような音楽に身を浸した。
 樹々が歌っている。
 緑の幻想のなかで皮膚に触れてくる喜びの波動。それはたしかに歌だった。
 吟遊詩人の歌のもつ劇的なうねりや勇壮さはなかったが、そしてもとあったものの名残りのようなきれぎれのものであったにもかかわらず、歌に違いなかった。
 樹々の奏でる歌はシアの全身を喜びにひたしていった。
 幸福が森のなかのすべてをおおっていた。
 彼女はまだ歩きつづけていたが、すでに目的は彼方に飛び去り、眼に映る景色は何の意味ももたなかった。
 シアはこの至福の音楽にもっと幸せにしてもらうために歩いていた。
 クレイのことも、ミルテのことも、すべての樹々の源から流れだす歌にこだまのように響きあってつくる仙界の音楽に呑みこまれてしまっていた。
 シアは歌に満たされ、調べに惹かれるように森のなかに入りこんでいった。


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