シアとソリーが帰ってこないことにはじめに気づいたのはミルテだった。
それと同時にエスカものんびりと炉端で眠りこけているわけにはいかなくなった。父親に相談できないミルテにとって、とりあえずその場で相談相手にできる唯一の人物だったからだ。
ミルテが怒りと心配とでいらだたしげに歩きまわる横で、エスカは事情を知らないのと未だにつづく微熱のためにぼんやりとした頭でシアの残していった指環をながめた。
ながめているうちに頭が痛くなってきた。
ただひとつの母親の形見を置いていったということは、彼女がただの散歩にいったわけではないことを示すのと同時に、必ずここに戻ってくるという意思表示であると思われる。
おまけに鎮め石のペンダントまで置いていった。こちらはエスカに対してのなにかであるような気がしたが、解釈するのはやめにした。
それにしても、知っているものもほとんどいない島育ちの世間知らずが、どんな用事があって出かけていったというのだろう。
ミルテは迷子になったのではないかと思っているらしいが、だったら出かけなければよいのだと、エスカは少しばかり腹立たしいのとなにも相談されなかったので悔しいのと、シアの母親にくれぐれもと頼まれていたのに責任を果たせなかったことで、もともと理性的でなかった頭が一気に混乱をきたしてしまった。
魔法使いは熱を出し、うなされた。じぶんでもこんなに弱かったろうかと疑問に思うくらいに体力が衰えていた。
おかげでミルテはまたもや薬師を呼びにいくはめに陥り、シアとソリーを捜す余裕もなくなった。
翌日、ようやくエスカの熱も下がった夕暮に、村にまたあらたなよそ者があらわれた。
今度の来訪者は汚れてはいたがみすぼらしくはない、すらりとひきしまったからだつきをした背の高い男だ。
よく日に焼け、使いこまれた武具で武装した傭兵は、荒事には縁のないせいで怯える村人に、穏やかといってもよい口調で人を捜していると告げた。
かれが鍛冶屋の家にやってきたのは昼すぎのことである。そのときエスカは薬師に喉にたまる苦い薬を飲まされているところだった。
「また会いましたね、魔法使いどの」
戸口に立つと開口一番、低くよく響く声で呼びかけてきた若い男に、その場にいたもの(エスカとミルテ、それに薬師のミーニアスの三人)は、みなびくりとしてふりかえった。
甲冑姿もものものしい、物騒ないでたちの大柄な戦士の姿を眼にしたとたん、驚きは怯みに変わった。そして呼びかけの名に心当たりのないものがその対象を求めてさまよった。
はじめ、いぶかしげな表情を浮かべて傭兵をみつめていたエスカは、ローダで命を救けられた人物をようやくその姿にかさねあわせてつぶやいた。
「たしか、アンガス…」
あまり楽しくないことを思い出したようにこわばったエスカの顔を見て、アンガスと呼ばれた男は笑い声をあげた。
姿から受ける印象とはへだたった明るい笑い声にミルテとミーニアスは緊張を解いた。
アンガスはまだ笑いながら連れはいないことを告げてエスカを安堵させた。
アンガスの相棒は派手な容姿の吟遊詩人だったがエスカはその、人はいいには違いない人物にことあるごとに反発していたのである。できれば二度と会いたくないと願っていたくらいで、こんなに短時間のうちに再会したくはなかった。
吟遊詩人に比べれば、傭兵に対する印象はまだましだった。というより、一緒にいた時間がとても短かったので印象を抱くほどにその人となりを知ってはいない、というほうが真実に近い。
じつを言えば、アンガスの笑い声を聞いて安心したのはエスカも同様なのである。傭兵は空気がやわらいだのを見はからって、酒場で聞いてきたのだがとつづけた。
「もしかしたら、手助けができるんじゃないかと思ってね」
エスカが抱いていた疑問は、この申し出のおかげでさらに強いものになったのだが、その場の雰囲気にのまれてうやむやになってしまった。
アンガスが少年の知り合いであると知ったミルテはすっかり信用する気になっていたし、どうやら薬師も反対する気はないらしい。
傭兵がなにゆえかれの手助けをしたがるのだろう。その理由を問いただしたかったのだが、できなかった。病み上がりで気力がないのも原因だったが、相手のまとっている妙な威厳のせいもある。筋金入りの傭兵のもつ自信なのかと思ったが、見たところ、そんなに経験を積んでいるような年齢ではないはずなのだ。
そんなことを考えているうちに話はどんどん進んでいた。
「おい、魔法使い」
虹彩がほとんど見わけられないくらいの黒い瞳に見られているのに気づいて、ぼんやりとしていたエスカははっと顔をあげた。
「いえ、ぼくはまだ見習いです」
「あの子が置いていった指環というのは」
アンガスはエスカの訂正には関心を示さずにまじめな顔で問いかけた。
気圧されて、エスカはおとなしく指環をはめた手をさしだした。
「ここにあります」
「その指環で居所を捜しだすことはできないのか」
わけがわからないといいたげに眉を寄せるミルテと、そんな術があったというようにかるくまばたきするミーニアスにはさまれて、エスカは完全にふいをつかれて凍りついた。ふぬけた表情をとりつくろうこともできない。
これまでにどんな経験をしてきたかはわからないが、どうやらこの傭兵は魔法使いのことをまるで知らないわけではないらしい。身につけるものから持ち主を捜すのは、ごく初歩ではあるがとりわけ素質を必要とする術のひとつなのだ。
かれは一瞬とめた息をはきだすように答えた。
「…やってみます」
エスカは精霊の名を刻んだ指環をゆび先でなでながら、とりあえずシアの気配をとらえようと努力した。
病で衰えた体で集中力をたもつのは骨が折れた。普段のように力を操ることもできず、焦りがつのるせいでよけいに無駄な力を費やしてしまう。
指環にはシアの匂いがしみついている。これ以上ないほどにくっきりとした刻印を手にしながら、少女の存在を確定することもできなかった。
ぼんやりと匂いらしきものが漂ってくる方向を定めることに成功するまでに、エスカは気力と体力を使いきってしまった。ここが塔であれば導士に大目玉をくらいそうな不様なやり方である。
「…北。北の方角です。たぶん、それほど遠くじゃない」
息も絶え絶えになりながらエスカが告げると、ミルテがため息をついた。
北の方には古い森が延々とつづいている。村人は決して近寄らない森だ。
なぜなら、あの森は人を喰らうのだ。人は森で魔物に喰われ、戻ってこない。そう代々言い伝えられ、信じられている。
だが傭兵はミルテの恐怖を意に介さず、散歩に行くような気軽な調子で森に行くことに決めた。
男に、森がそんな恐ろしいところなのだとすれば、なおさら助けに行かなくてはならないと言われては、納得するしかない。
その自信のほどはミルテにこの男なら大丈夫かもしれないと思わせた。
エスカも、同行するには及ばないからゆっくり静養するようにとのなかばの命令を受け入れさせられた。
そして薬師は、なにかに思い当たったようにわずかに身をひいて、傭兵をまじまじと眺めていた。
「心配しなくとも、変わったことがあれば魔法使いにわかったはずだろう」
不安げな一同にそう言うと、アンガスはうっすらと微笑んで森へむかった。