アンガスがいつもは二人一組で行動している吟遊詩人とわかれたのは、トリエステに着いてからのことだった。
とった道の違いから少年たちの後を追っていたはずが先に着いてしまったとわかり、さらに近くまで自分たちを訪ねてきた人物がいたと知らされて、傭兵と吟遊詩人はふたてに別れることにした。
吟遊詩人はさらに北へゆくための準備をするためにトリエステにとどまり、傭兵は一番近くの森へむかうために古街道をローダの方向へひきかえすことになった。
ローダからトリエステへむかう道には、ふたとおりあった。
ひとつは南の公道。
公的に整備され、道沿いにふたつの村がある。はや馬なら一日、徒歩であれば三日もあれば行き来できる。傭兵と相棒がとったのはこの道だ。
もうひとつは街道とはいってもすでに人から見捨てられ、荒れ放題になった小径である。古い森のなかをけもの道のひろがったような空間がつづいているだけで、人はほとんど通らない。
森がクウェンティスの祝福を受けたものであることは、アンガスには自明の知識であった。
となり(とはいってもあるいて三日はかかるとなりではある)のトリエステがかれの故郷だ。村人は気づいていないが、この村にも何度か訪れたことがある。
森が危険なところであると言い習わされていることも、そのために古街道が廃れていったことも知っている。
知っているからといってそれが力になるなどとは思わなかったが、かれの知識には魔の森の限界についての実際的なものもあった。北に行ったときに訪れた〈緑の森〉でのあの途方もない体験にくらべれば、小さな飛び地などどうということもないとも思えた。
だからこそ、ただの人間であるアンガスにも、言ってみれば聖地と言えなくもない場所を待ちあわせの場所として利用できるのではないか。
見通しがあまかったことは中に入るなり思い知らされることになった。
前に来たときよりも森自体の力が強まっていたのだ。
あのとき、吟遊詩人は木が歌っていると言った。クウェンティスから教わった歌をくりかえしくりかえしくちずさんでいるのだと。
それをアンガスは単なる言い伝えだと本気にしなかった。だが、いまでは信じざるをえない。
吟遊詩人の話を割り引いて聞いていたことをかれは恥じた。
木は歌っていた。
それも普通の歌ではない。
相棒の歌だって普通のものとは言えなかったが、すくなくともあれは人間のつくりだしたものだ。人の子の力が生むことのできる最高の奇跡だが。
樹々の歌は耳ではなく、からだじゅうに響き、精神の奥底にしみこむのだ。
アンガスは懸命に意識を保とうと努力しながら、なるほど、これを聴いたら戻れなくなると納得した。
木が歌っているのはクウェンティスに受けた祝福の歌だ。聴くものを幸せにする寿ぎの歌だ。
かすかに、まるで名残りのような輝きにつつまれて、至福の旋律がながれる。高貴で気高く、冒しがたいほどに純粋な、透明ですずやかな響き。
それは誘い、それは促す。それは魅了し、それは捕える。
魂を奪い、理性を吹き消し、感情をおし流し。
人の子は現実からからめとられるように引き離される。天界の歌にも似た、金いろの響きに魅せられて、彷徨い歩く。たしかな標もあたえられずに、ひたすらに歩みつづける。貴き方々の御声がこだましてかえる残響の森のなかを。あるいは力果てるまで、あるいは命尽きるまで。
このうえなき喜びに満ちて。
それが夢まぼろしか、狂気なのかは、捕えられたものにはわからないだろう。そして、そのことになんの恨みも抱くまい。
アンガスは森の内奥へ吸いよせられていった。
頌歌の魅了する力はそれにつれて強まり、視界は薄紫のヴェールのかかった樹々の葉や下草の色や湿った土の色の混じった、ぼんやりとしてあいまいなものになってゆく。
もはやどこを歩いているのかもわからない。
アンガスはだが、自分が正しい方向にむかっていることだけは確信していた。
問題はどれだけこのまま意識をもちつづけられるかということにある。
はたして、アンガスは森の最深部までどうにか理性をたずさえてゆくことに成功した。
高い天蓋のような枝々の屋根の下に最古の巨木が根をおろし、ひときわ高らかに歌を響かせていた。
その場所に立ち到ったときに、なぜ気づかなかったのかとかれは自分の不明を恥じた。
森に満ち満ちていたのは貴き人々に対する返しの頌歌。
さらにはルディシニスのまとう抗いがたい光の引力。
人を惑わし、死に到らしめるほどの輝かしさに対する敬慕の歌。
おまけに、アンガスにはまんざら馴染みがないとはいえない香りすら漂っているというのに。
月影にうかぶ多くのしろい骨にとりまかれた太古の樹は、薄闇のヴェールと幾千、幾万もの月日を身にまとってたたずんでいる。
その足元に神々しいまでの金髪を褥にして微睡んでいる人物がいた。
美しいからだをしどけないほどに無防備にさらけだして、ルディシニスの乙女は眠っていたのである。
簡素な旅装をしているというのに、このまばゆさはどうであろうか。まるで月のイリアのうつし身のようだ。
アンガスは感銘と同時に疲れを覚えながら聖なる樹に近づいた。
「アウワーラ」
名を呼ばれた乙女ははらりと瞼をひらき、傭兵の姿を認めると嬉しげに微笑んだ。
花がほころぶような幸せに満ちた笑みに樹がふるえ、アンガスは気が遠くなりかかって舌打ちした。
「待っていたわ」
返事もできずに立ち尽くしている男の苦闘を知らないのか、あるいは知らんふりをしているのか、乙女は走りよると逞しい体に抱きついた。