prev 月影の歌う木々7 next

「おい、起きろ」
 ゆり起こされて、シアはぼんやりと目覚めた。
 身体中をつつみこんでいたしあわせな心地が、意識がはっきりとしてゆくうちに霧のように消えていった。
 はて、自分はいったい何をしていたのだろう。
「あれ」
 のぞきこんでいる人物の顔に焦点をあわせると、海辺の街で会った傭兵の海老茶色のマントをまとった姿があらわれた。
 シアは夢のつづきのように男のまじめな顔をながめ、ついで森の樹々の匂いを嗅いだ。
 とたんに記憶がなだれうって逆流し、シアはあわてて体を起こそうとした。ここに至って彼女は自分の体にまるで力が残っていないこと、お腹がとてもすいていることに気づいた。
「あれ」
 空腹の理由がわからずにとまどうシアは、まる一日なにも食べていないのだから無理をするなとアンガスに言われてますます混乱した。
 ミルテの家を出てきたのはついさっきではないか。
「おまえが寝ている間に一日経ったんだよ」
「いちにち?」
 アンガスは彼女が村を出てから一日がたっているのだとそっけなく告げた。
 シアはよけいにわからなくなって説明を求めた。
 傭兵はしばし無言のままシアをながめつづけたので、要求されて腹を立てたのだろうかと心配になってきた。一度はたすけてもらったとはいえ、もうひとりの恩人の親しみやすさとは反対に、黒髪の男にはどこか近よりがたいところがある。
 それにどうしてこの男がここにいるのかもわからなかった。害意はないように思えるけれど、なにを考えているのかはよくわからない。
 だがこの場合はそれほど心配するようなことはなかった。やおら話しだしたところを見ると、たんにことばを選んでいただけのようだった。
 ためらいの理由はアンガスが話しだすとわかった。
 それはかるがるしく話題にすることではなく、いい加減に聞いてよいことでもなかった。
 シアは傭兵がゆっくりと思い出しながら語る話に神経を集中した。
「この森はかつてクウェンティスに祝福を受けた。大昔、神々がまだ人をお創りになられなかったころだ。クウェンティスは森を拓いて径をつくり、そのときから森とクウェンティスとは特別の絆で結ばれるようになった。とりわけ森の主である巨木はクウェンティスの盟友になり、いついかなるときもかれらに休息の場をあたえると約束した。クウェンティスは森の守護者となり、破壊の手から護ると約束した。やがて人が生まれて地に満ちるようになり、クウェンティスが多く仙界の住人になり、かつての大森林が分断され小さくなっていっても、この誓いは破られることなくまもられつづけている。いまでも、マリ・イスタの樹の根元はクウェンティスの避難所だ。かれらは樹に護られて眠り、そのあいだはいかなるものにも傷つけられることはない」
 シアはアンガスの幾分ぶっきらぼうで不親切な説明を理解しようとしながら、自分が根元にころがっていた樹を見あげた。
 月がやわらかな光をなげかけているのは、彼女が十人いてようやくまわりをとり囲むことができそうな太い幹の、堂々とした古木だ。
 その太さが意味するものに思い到らないかぎり、樹が過ごしてきた年月を過小評価してしまいそうなくらいに生命力にあふれた存在だった。
「歌ってたよね」
 木の葉のざわめきはいまも聞こえていたが、あのつよくひきずりこまれるような歌ではなかった。
「何百年ぶりかでクウェンティスがここに来たんだ。樹々は喜びのあまりはしゃぎすぎたんだそうだ」
「クウェンティスのために歌ってたの。クウェンティスって、ほんとにいるの。どこにいるの」
 アンガスはなぜか苦いため息をつきながらシアのすぐ隣の地面を顎でしゃくった。
「そこに、寝ていた。樹は彼女を起こさないように、とんでもない歌を歌ってた。ちょっと敏感な人間が聴くと、捕まって逃げられなくなる。しあわせに眠ったまま、餓死することになる」
 樹のまわりにころがるさまざまな古さの骨は、まさに歌に魅せられたもののなれの果てなのである。あとすこしでシアもこの骨の仲間に入っていたかもしれないというわけだ。
「彼女がいるかぎり、森は歌うのをやめないからな。用件をすませて出ていったよ。おまえにすまなかったと謝ってた」
 シアはがっかりした。
 本物のクウェンティスのすぐ側にいたというのに、しかも、枕を並べて寝ていたらしいのに、一度もその姿を拝むことができなかった。なんとなさけない。どうしてクウェンティスが行ってしまう前に目が覚めなかったのだろう。
 シアはアンガスに恨みのまなざしをむけた。
 どうせならもっと早く起こしてくれればいいのに。
 命を助けられたことは棚にあげて逆恨みしているシアに、古い森に関する住人の言い伝えは役立つことが多いのだから決してかるく見て聞き流すなと傭兵は注意する。
「ここの森だって、いろいろ言われているはずだぞ。いったい、なんの用があったんだ?」
「なにって、あたしはソリーと一緒にミルテの…気配があったから…」
「おまえはまた人探しをしてたのか」
 アンガスのことばを無視してよろめきながら立ちあがると、シアは大木のぐるりを犬と人間を捜して歩きはじめた。その背を傭兵の声が追ってきた。
「生きてる人間なら、でっかいうろのそばにいたぞ」
 下生えをかきわけくずれかけた骨をよけながらようやく言われたところにたどりつくと、まだ白骨化には程遠い人間のからだがみつかった。
 うつぶせにころがっていたのを苦労してあおのけると、髭ののび切った蒼白い顔の男の顔があらわれた。
 シアはその顔を見て息を呑んだ。
 死人のような生気のなさにもかかわらず、表情はまるで幸せの野にいるように楽しげだったのだ。
「そいつか」
 アンガスが上から見おろして訊ねた。
 シアは首を横にふりかけて、手のなかに珊瑚の指環があることを思い出した。
 指環をにぎりしめて目をつぶると、探索に乗り出すまえに行なったことをおなじように繰り返す。指環についた匂いと男のもつ匂いはおなじものだった。
 それがわかったとき、シアは大きく眼を見ひらくと深々とうなずいた。
 アンガスはちょっと驚いたように黙ったが、そうかとうなずくと目の前にどさりと犬の体を下ろした。ソリーだった。
 シアが名を呼ぶと眠っていた犬はぴんと耳をたてて反応を示した。そのあいだに傭兵は眠ったままの男を肩に担いで歩きだしていた。


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