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 青い空が気持ちよく晴れわたり、小鳥のさえずる早朝に、シアたちは村を出ることになった。大騒ぎのあった晩から五日後のことである。
 シアが森から連れ帰ってきた(正確にいうと、アンガスが担いで運んできた)男は、まちがいなく炭焼きのクレイ、ミルテの許婚者のクレイだった。三ヵ月の間にのびすぎた髭をあたってさっぱりしてみると、少々痩せすぎではあるがミルテに似合いの素朴な顔をした若者になった。
 かれはローダからの帰りに荷馬車からはずれて逃げていった馬を追いかけて、森のなかに入ってしまったのだと語った。
 馬はかれの財産のなかでは格段に値打ちの高いほうだったので、ミルテのためにも失いたくなかったらしい。
 そのうちにこの世のものとも思えない美しい歌が聞こえてきて、わけがわからなくなってしまった。
 三月も行方不明だったのだと言われて、クレイは心底驚いたようだ。
 シアはその気持ちがよくわかった。
 かれはシアとは比べものにならないほど弱っていたが、ミーニアスのつくる薬湯を飲みながらしきりに夢のような経験を思い返しているようだった。
 ミルテはアンガスが運びこんできた荷物を見たとたんに顔色を失い、卒倒するのではないかと薬師を怯えさせた。婚約者の姿があまりにも変わり果てていたために、一瞬連れ戻ってきたのは死体だとと思い込んでしまったらしい。
 生きていることを告げられると自分でクレイの心搏と呼吸を調べ、たしかに動いていると認めると泣き伏してしまった。あまり大声で泣くので鍛冶屋が何事かと血相をかえて飛び込んできたほどだ。
 ミーニアスは二人にふえた病人を見るのにてんてこまいをし、しばらく、鍛冶屋の家では混乱がつづいた。
「本当にだいじょうぶなの」
 まだ蒼白い顔をしているエスカに、不安そうにミルテが言う。
 エスカは恐縮しながら大丈夫ですと答える。
 ミルテは村はずれまで出発する三人を送りにきた。杖に寄り掛かったクレイとソリーも一緒だ。
「なに、途中で倒れるようなら、おれが担いで運んでやるさ」
 冗談とも本気とも知れないアンガスのことばに、エスカは苦笑いをしてごまかした。
 森からの帰り道、空腹のあまりひとりで歩けなくなったシアは、実際に傭兵の肩に担がれて帰ってきたのだ。シアはそのことにたいした感想は持っていないように見えたが、エスカは絶対にごめんだと思っていた。
 ミルテは皮袋を大事そうに背負っているシアを見てほほえんだ。シアはミルテの笑顔にほほえみかえす。
「ほんとうに、ありがとうございます。今度のことではお礼の言いようもありません」
 クレイはまだ弱々しげではあったがしっかりとした口調で感謝の意を告げた。
 あれほど死に近いところまで行って戻ってきたというのに、クレイは恐怖も不安もなにも持ち帰らなかったようだった。
 シアは目覚める前の男の顔を満たしていた幸せを壊すことをためらった。クレイはあのまま死んでいても、しあわせだったに違いない。
 だが、いまのクレイだって、幸せそうだ。そして、ミルテにかかっていた憂いの翳りはあとかたもなくぬぐいさられていた。ミルテは父親が許してくれたから、クレイの具合がよくなったら祝言をあげるのだと嬉しげに言った。
「それもみんな、あなたがたのおかげ」
 シアはミルテの指に珊瑚の指環を見てにっこりした。
 エスカは不審を隠そうともしなかったが、シアはいまでも指環でクレイを見つけられたのだと思っていた。それでミルテの笑顔も戻ってきたのだから、いいではないか。
 ソリーは同志の旅立ちを毅然として見送ろうと決めているようだった。シアは黒光りする犬の鼻面をなでてやり、それが別れの儀式の最後になった。
 時折ふりかえっては手をふりながら、シアは先に歩いてゆくふたりの後を追いかけた。ミルテとクレイは三人の姿が曲がりくねる森の径に隠されて見えなくなるまで見送っていた。〈了〉



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