助力を申し出たとき、男は確かに驚いたのだが、育ちの良さがその感情を品よくおさえこんでむきつけにはしなかった。
「だが、あなたは神官なんでしょう」
かれの姿は修行中の覡のもので、しかも男とは面識がない。かれが神殿の人間ではないと想像することもないのだから、問いはまったく正当なものだった。
男がこれからしようとしていることは、神殿への反逆行為だ。神殿に所属していると思われる人物がすすんで力を貸そうというのが、にわかに信じられないとしても当然だ。
「私は彼女に借りがあるのです」
その答えは男を満足はさせなかったが、とりあえず申し出を受けようという気にはさせたようだった。
なにか裏がある場合を想定してか、男はかれの顔をじっと見つめた。記憶に刻みつけようとしているのだと理解して、かれは被っていたフードを後ろへとひいた。
脂肪がねこそぎ落ち、頭蓋の形が浮き彫りになっているかれの顔を見て、男はさすがに怯んだようだった。じつはこの男とは五歳と歳が違わないのだが。自分のすがたが老人のように見えることをもちろんかれは知っていた。
男は動揺した自分を恥ずかしく感じたらしく、視線を逸らした。
健康で見栄えのする自身の姿も、その感情を裏打ちしていたかもしれない。男には属する民族の特徴をすべて正の条件で兼ね備えた、純血種のような美がある。
そして、いまはおそらく人生の春と呼べそうなときを謳歌している男に対し、かれの人生はすでに晩秋をむかえている。
たぶん、それが男の認識だったと思うが、かれ自身がそう考えていたのでなんの痛痒も感じなかった。
かれはすでに用意していた鍵を男に見せ、男はそれがどこの扉を開くために存在しているのか理解した。
「それでは、お願いします」
男はとても丁寧にかれに頼んだ。
王族の出身であり、王女の夫という地位にあるに人物にしては、もののわかった態度だ。
ふたりは小雨のふりかかる裏口から無言で建物の中に入り込んだ。かれは男のあとをついて神殿内の廊下を歩いていった。よどんだ暗がりの中に、かれらのもちこんだ雨の匂いがひろがってゆく。
かれは手の中にある鍵の感触を確かめつつ、あたりをうかがった。
双子の王女たちはきちんと役割分担をすませ、自分の仕事にいそしんでいるようだ。ひとりは神殿の前で、もうひとりは中継ステーションで、男が責務を果たすことを信じて待っている。生まれるまえから作りあげられてきたチームワークに、破綻はない。
男には感じ取れないはずだが、かれには神殿じゅうの巫覡たちがかれらをことさら無視しているのがわかった。
マルト・ディムナスのすこしばかり眼のある人間ならば、庭遊びの途中で雨宿りのために神殿にやってきた幼児から泉のように湧きいでるちからに、影響を受けずに感覚を維持することはむずかしいだろう。
無条件に母親を信頼し、無邪気に寄せる愛情が、赤ん坊のあけひろげさをもって、楽しげに神殿に響きわたっているようだ。
王女たちは、そうして神殿を攪乱することで男の仕事を支援している。
巫覡のなかのあるものは幼児のちからに惑わされ、あるものは惑わされたふりをしていた。誰の意志によるのかは、かれが知っている。
神殿内でもとりわけ奥の方に位置する、ある個室の前までやってきたところで、男が扉をノックしたので、かれは拡散した意識を目の前の出来事にひきもどそうとした。
「はい?」
しばしののち返事があった。
おちついた女性の声には疑問が含まれている。
「アイリーン、私です」
男は声にわずかに緊張をはらませている。
「あなたを助けに来た。すこし待ってください」
「アーノルド?」
そこでかれは鍵を取り出して、男に手渡した。
この扉には、外から鍵がかけられているのだ。神殿内に錠のついている部屋は、そう多くはない。
鍵は鍵穴にぴったりとあい、錠ははずされて扉が開かれた。
部屋の中には彼女ひとりだった。あてがわれている部屋は予想に反して窓の大きな、明るい感じさえうけるものに見えた。軟禁場所としては上等な方だろう。とりわけ、ここが古びた神殿の中であるという事実を考えると。
「どうしたの、なぜあなたが来たの」
彼女は男に尋ねながら、ゆっくりとソファに腰を下ろした。ゆったりとしたローブを身につけた下腹部が、かすかにせりだしているのをかれはみとめた。
「あなたにここを出る気持ちがあるのなら」
男の説明は、とうとう本人を目の当たりにしたという、かるいショックからぬけだしながらつづけられた。
「いますぐ僕と一緒に来てください。いまルスがすぐそばでジャスティンと遊んでいるから、しばらくは気づかれない」
ともに育った姉妹のような女性ともうじき一歳になるその息子のことを思いだしたのか、彼女はかすかに微笑んだ。幼い王子は愛らしいとかれも思う。
「それから?」
「あなたは僕と空港へ行く。シャトルはすぐに飛び立てるようになってる。これから用事でゼナ・ステーションへあがることになっているから…。あとはマーリたちが引き受けてくれる」
自家用の宇宙船を持つ王女の一家は、彼女をすみやかに別の惑星(ほし)へ連れていってくれるだろう。マーリ王女の夫は、定住せず惑星間をわたりあるくことを生業としている。ここからどこへ船首をむけたとしても、怪しまれることはないはずだ。
「わかったわ」
思ったよりもあっさりと彼女は承知した。なんの躊躇もなかった。かえって男の方が肩すかしを食ったようにうろたえていた。
だが、かれにはわかった。彼女はすべてを知っていたのだ。おそらく、王女たちが計画を練り始めた、そもそもの始めから。
そしてそのときからずっと、考えてきたのだろう。自分のとるべき道について、悩む時間は過ぎていたのだ。
「アイリーン、その……大丈夫なのか」
視線が腹の方に向けられていることに気づいて、彼女は苦笑した。
「大丈夫よ、もう安定期に入っているから。ルスにも聞いたんでしょう」
「うん、そうなんだが」
男は多くの同性と同じように、息子が生まれてからとつぜん父性本能に目覚めたので、それまでの過程にはあまり注意を払っていなかった。しかし目覚めてしまった以上、彼女の胎内の生命も無視することができなくなったらしい。
それでこの計画に身を投じてしまうことになったのだと、かれは気づいた。妻からの要求も大きかったには違いないのだが。
「気をつけるから、大丈夫よ」
惑星の引力という軛をふりきって飛び出すからには、赤ん坊が危険にさらされることは避けられない。気をつけたところで、どうなるものでもないことはわかりきったことだったが、彼女はしても仕方のない心配を放棄したようだ。
「荷物は」
「いらないわ」
ここから逃げ出すということは、もう二度と故郷に戻れなくなることを意味している。自分の生きてきた歴史を無にしようとするその潔さは、すべてをどうでもよいと投げ捨てるものなのだろうか。いま、彼女に残された最後の居場所を放棄していくのだから。
彼女の表情をうかがい見るにどうやらもっと前向きなもののようだった。いつのまにそんなところまでたどり着いてしまったのだろう。
かれはアイリーンという名の存在を見くびろうとしていた自分を嗤った。
彼女こそ、自暴自棄の自分を二度までも救ってくれた人だというのに。
女性はか弱きものと教え込むために古から伝えられる英雄物語は、この国に反発しか感じないかれをすら蝕んでいたらしい。
「そちらのかたは?」
アイリーンはとうにかれの存在に気づいていたが、いま初めて目に入ったとでもいうように男に尋ねてみせた。
紹介を受けてかれはかるく会釈をし、そのままの姿ではめだつからと、自分の被っていたフード付きの長衣を脱いで彼女に手渡した。
かれの顔がさらけ出されると、そのときだけ彼女は不意をつかれたように息を呑んだ。
彼女と向かい合うのは、数カ月ぶりだった。
その間にかれの体力は目に見えて落ちた。かれの変貌はそれまで強い決意に充ちていた彼女のこころをくじけさせはしまいか。
だが、彼女はすぐに平静を装い、男は自分が初めてかれを見たときの驚きと彼女の感情を同じものとみなしてくれた。
彼女はかれの老いた手から衣をうけとった。
彼女の胎内にはぐくまれている生命が、かれにもはっきりと感じられる。
その強さが、もとからのちからと相まって彼女を支え、そして駆り立てている。
それはどれだけ彼女自身の武器となっているか。もしかするといま、彼女は居ながらにしてこの惑星中のことをすべて感じているのかもしれない。かれには知らない、そして永遠にわからない世界をこの子は生きていくのかもしれない。
かれは自分にできるただひとつの、そして最後のこととして、彼女に青い石を託した。
とたんに赤子の存在感が薄くなった。
胎児は本来のまどろみの中に沈んだだけだ。そうわかっていても、気づいたものがいないことが不思議なほどに、それは劇的な変化だった。おそらく、王子の存在のおかげだろう。王子の発散する無邪気な波動が、格好の隠れみのを提供してくれている。
衣の隠しにひそませたものの存在理由を、彼女は当然理解していたが、それを確かめたあとでそっと口にした礼には、気取られそうな言葉はひとつもなかった。
「ありがとうございます。このことはけして、忘れません」
そして彼女は男とともに神殿を出ていったのだ。